自分達が来た事を部屋の中にいる皇太后に告げに入った尚宮の少しだけ慌てた様子に、シンは僅かに訝しげな表情を浮かべた。
 
しかし、隣で嬉しそうに鼻歌を歌うチェギョンの表情に、尚宮の事などすぐに頭から飛んでいく。
 
「…どうしたんだろう、遅いね。」
いつも以上に待たされている気がした。
そしてチェギョンのその言葉にやはり自分が感じたことは間違いではないことに気付く。
 
「…だな。」
普段であればすぐに入る様にと中から声がするものの、それは一向に自分たちにかけられない。
 
どこか慌てたような先ほどの尚宮の姿がシンの脳裏に浮かんだ、その時。
 
「どうぞ、お入りなさい。」
小さな咳払いの後、皇太后の声が響いた。
 
ようやくだとチェギョンが笑みを浮かべて自分を見上げ、それに小さく頷いて、シンとチェギョンは開けられた扉から、皇太后の部屋へと足を踏み入れた。
 
「…お揃いでしたか。」
自分達を迎えたのは、皇太后だけではなく、母である皇后・ミン、姉であるヘミョン、そして父である皇帝・ヒョンたちだった。
 
皆が勢ぞろいしていたことに僅かに眉をひそめたシンだったが、隣で嬉しそうな笑みを浮かべるチェギョンを見下ろして、その表情をすぐに消し去った。
 
「どうしたのです?急に。」
揃って椅子に座ったシンたちに、皇太后が小さな咳払いと共にそう告げた。
 
その言葉に、そのにいる皆に視線を向けると、何故か皆が僅かに視線を逸らしている。
それに気付いたチェギョンと互いに視線を交わして、シンはその疑問を口にした。
 
「申し訳ありません、急にお邪魔しまして…。しかし、どうかなさったのですか?皆様、お揃いで…。こちらに入るまで少々時間がかかりましたが、何かあったのですか?」
シンのその問いかけに、ヘミョンと皇太后の肩がほんの少しだけ揺れたのがシンの視界に入った。
 
何かを隠している。
 
そう感じてヘミョンと隣に座る皇太后へ視線を向けると、その視線に気付いてか小さく息をのんだヘミョンが口を開こうとした。
 
その時。
 
「あーっ、もしかして!」
 
隣の大きな声に、ビクッとしてシンはチェギョンに視線を向けると、隣ではチェギョンが少しだけ身体を前に出してテーブルの上を見つめていた。
 
「…なんだよ、急に。」
どこか張り詰めた空気を乱すような声に、シンはため息交じりでチェギョンを肘でついた。
それでもチェギョンの視線はテーブルの上から離れることはない。
 
「…おい、チェギョン?」
「もしかして…。」
ごくりと皆が息を飲む音が聞こえたような気がして、シンはまたピクリと眉を寄せて皆に視線を向けた。
 
「美味しいお菓子でも召し上がっていたんですか!?」
 
「………。」 
一瞬の沈黙。
 
それを破ったのはシンの盛大なため息と、たまらず噴き出したヘミョンの笑い声だった。
 
「お前…。なんで、いつもそうなんだよ。」
「えー?…だって、こちらに入る前に時間がかかったのも、きっと美味しいお菓子を召し上がってて、突然私たちが来たから慌てて隠されたのかと…。」
「お前の物差しで測るな、お前とは違うんだ。」
「…ちょっと、それどういう意味よ…!」
 
「もう、チェギョン、最高!」
 
チェギョンらしい考えに、お腹を抱えて笑うヘミョンと、皇太后とミン、そしてヒョンも思わず緊張から解き放たれて笑みをこぼす。
 
いつまでもおなかを抱えて笑うヘミョンにようやくチェギョンも、その考えは間違っていたことに気付く。
 
「…違うんですか?」
「ごめんなさいね、チェギョン。美味しいお菓子がある時は、必ずあなたも呼ぶから安心なさい。」
豪華な刺繍が施されたタンウィの袖を口元に当てて上品に笑う皇太后にそう言われて、チェギョンは「はぁい」と小さく口を尖らせた。
 
話の腰を折られたような形となったシンは、意味もなく咳払いをひとつして本題に入ろうと口を開こうとしたが、素朴な疑問とでもいうように、チェギョンがシンの言いたいことを口にした。
 
「じゃぁ、何をなさっていらっしゃったんですか?お祖母様付きの尚宮おばさんがひどく慌てたようだったんですが。」
僅かに首を傾げて、上目遣いでそう尋ねるチェギョンに、質問の矛先がそれたことにホッとしていた4人がまたピクっと固まったことが分かる。
 
「………。」
 
何かをしていたか、それを尋ねるのはやめた方が良いということか。
 
シンは冷静にその様子を見て思った。
 
何も言わずただ、黙り込む4人の様子になにかまずいことを言っただろうかと不安げな視線を向けてくるチェギョンに、大丈夫だという意味を込めてそっと微笑むと、不安げな表情に少しだけ笑みが戻る。
 
「突然こちらにお邪魔して申し訳ありません。実はお祖母様に折り入ってお願いがございまして、こちらに伺いました。」
「わ、私に?何かしら?」
突然振られた話に皇太后が背筋を伸ばしてシンと視線を合わせる。
 
この自分達の願いに、皇太后はどう答えてくれるだろうか。
チェギョンもシンの隣で緊張した表情でピンと背筋を伸ばした。
 
「皆さまが温かく見守ってくださったおかげで、この4月、私たちは婚姻いたします。ようやく揃いのものを、周りを気にせず公に付けることができます。婚姻して初めての揃いのものと言えば、それは指輪。私たちが揃いではめる結婚指輪を、お祖母様とお祖父様の指輪をお譲りいただければと思い、本日参上いたしました。」
 
シンのその言葉に、皇太后を始め皆が小さく息を飲んだ。
 
視線を逸らす事なくシンとチェギョンの真っ直ぐに皇太后を見つめるその視線で、2人がそう切に願っていることが分かり、皆の胸を熱くする。
 
「…何て言っていいのかしら。」
ため息と共に皇太后の口からこぼれたその言葉。
 
それ以上言葉が続かず、皇太后は美しい刺繍が施されたタンウィの胸元に両手を当ててあまりの嬉しさに込み上げてくる想いに、熱い息を吐きだした。
 
「…とても、とても素敵なことだと思うわ、シン、チェギョン。」
「ああ、本当に。父上もお喜びだろう。」
ヘミョンのその言葉を受けて、ヒョンも微笑んでそう告げた。
その隣でミンも同じように笑顔で頷く。
 
そんな4人の様子に、緊張していたシンとチェギョンは安堵のため息を吐きだして視線を交わした。
 
でも、当の本人である皇太后から了承の言葉を聞いていない。
果たしてどうなのか。
 
「…本当に良いのかしら。私たちの指輪なんかで。せっかくの結婚指輪よ、2人で選んだほうが…。」
 
「私たちは、ともにこれからの人生を歩みたくて結婚いたします。でも、そのきっかけをくださったのはお祖父様と、チェギョンのお祖父さんです。きっと今は天から、あの頃と変わらず私たちの事を温かく見守ってくださることでしょう。13年という許婚の時期は終わりを告げます。でも、チェギョンは私の妻となり、今からもっと辛い出来事に直面することでしょう。これからもずっと見守っていただきたく、お祖父様とお祖母様の指輪をいただきたいのです。」
孫たちからそう望まれることはこの上なく幸せで、ずっと幸せでいてほしいと願っていた2人だけに、思ってもいないその願いは言葉にならないほど嬉しい。
 
「…でも、時代遅れではないかしら…。あの方からいただいたのはもう随分昔で…、あなた達のように若い人には…。」
「お祖母様、私たちはその指輪が良いのです。とても大切にします。だからお願いします。」
シンの隣でそう言って頭を下げるチェギョン、それを見て同じように頭を下げたシン。
 
2人の様子を見ていたヒョンが皇太后へと視線を移すと、それに気付いた皇太后が視線を合わせた。
笑みを浮かべて微笑んで頷くヒョンに、皇太后も笑みを返すと、椅子から立ち上がり、部屋の一角へと足を向けた。
 
たくさんの写真が飾られたその中で、大切な一枚を見つめそっと微笑むと、その写真が少しだけ微笑み返してくれた気がした。
その微笑みを受けて、皇太后は引出しから大切にしまっていた小さなリングケースを取り出すと、その写真に背を向けて、先ほどの椅子へと腰をかけた。
 
コトンという小さな音と共に、テーブルに置かれたリングケース。
2人は顔を上げて、目の前に差し出されたそれに視線を落とした。
 
「ありがとう、シン、チェギョン。あなた達に付けてもらえるなんて思ってもいなくて。…あまりの嬉しさに言葉が出ないわ。本当にありがとう。」
そっと差し出された指輪のケース。
 
チェギョンは隣に座るシンに視線を向けると、それを受けてシンが小さく微笑み頷くと、チェギョンは嬉しそうな笑みでそのリングケースを手に取った。
 
「お祖母様、ありがとうございます。大切に…とても大切にします。」
「ありがとうございます。」
シンとチェギョンから改めて礼を言われ、皇太后は本当に嬉しそうに笑い、そして目じりに溜まっていた涙をそっと手でぬぐった。
 
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