婚姻の儀式まで数週間と迫った穏やかな春の日。
 
2日ぶりに、シンとチェギョンは学校で顔を合わせた。
 
自分の教室から、ゆっくりとした歩調でB棟とは違う少し古ぼけたA棟へと足を踏み入れると、まだ古ぼけたA棟に皇太子が現れることに慣れない生徒たちは、何処を見ても完璧なその姿に見惚れてしまう。
しかしシンの視線はそんな生徒たちを映すことなく、愛しい婚約者が在籍する教室に向かう廊下だけを映していた。
 
廊下に出た生徒が開けはなった扉からそっと教室内を覗くと、こちらに背を向けてガンヒョンやスニョン達と談笑する姿が目に入った。
 
肩の力を抜いて友人と共に楽しそうに話をする姿に、声をかけるのを忘れて見入ってしまいそうになったとき。
 
「皇子が来たよ。」
こっちを向いて座っていたガンヒョンが自分の存在にいち早く気づき、チェギョンにそう伝えると、椅子に座ったままこちらを向いたチェギョンの顔が一瞬にして笑顔へと変わる。
 
「シン君っ!」
飛び跳ねるように駆け寄ってくるチェギョンを思わず頬を緩めて見つめるシンの姿を、ずっと見守って来たガンヒョン達3人は嬉しそうに視線を交わし、チェギョンが皇太子の幼いころからの許婚で婚約者である事を受け入れたものの、なかなかその2人の姿に慣れない生徒たちは息を飲んで2人を見つめていた。
 
「飯は食った?」
「うん、もう食べたよ。」
そんな普通の会話を楽しみながら、チェギョンとシンは隠れて会う必要がなくなった今、渡り廊下へと向かって歩きだした。
 
 
 
「…結婚指輪?」
どこか緊張した面持ちのシンにチェギョンが不思議そうな顔で問いかけた。
 
「そう、俺たちの。」
「あぁ…全然考えてなかった。そうだよね、結婚したらそういうのするんだよね、へへ。」
韓国人はペアルックが大好き、生粋の韓国人であるチェギョンも幼いころからシンとのペアルックに憧れていた。
 
立場が立場のシンであるため、揃いの携帯電話、手作りのマフラーなどで我慢していたが、ようやく堂々と揃いのものを身につける喜びに、思わず照れた笑みを浮かべる。
 
「考えてなかったのか?」
「うん、だってそれどころじゃないでしょー!?婚姻の儀までに覚えなきゃいけないことたくさんあるし…、まだまだチェ尚宮お姉さんの講義は続くし…。それにね…」
 
いったん口にした愚痴はなかなか治まる様子はないらしい。
このまま話させておくと休み時間がなくなるとシンは小さく息を吐いた。
 
「分かった、分かった…お前が大変なのはよく分かった。俺も苦労しているところだ。…でも、チェギョン、俺のために頑張ってくれるよな?」
「……ッ」
 
卑怯だ、そんな切なげな瞳で見つめるなんて、卑怯だ。
 
シンの作戦が効いたのか、チェギョンは頬を染めて、プイッと顔を背けた。
そんなチェギョンを見て、シンは僅かに口の先が上がる。
 
可愛い…何年も一緒にいてもそう飽きることなく思ってしまう。
 
「話は戻るが、俺たちの結婚指輪、お前が特に何も考えてないのなら、俺に任せてもらっていいか?」
「…どういうこと?」
結婚指輪は2人そろって買いに行くことが多いと聞く。
 
皇太子とその婚約者がふらふらと揃って指輪を買いに行くことなど、今のこの時期できるはずなどない。
チェギョンは逸らしていた顔を上げて、シンを見上げた。
 
「…お前が良ければなんだが…、お祖父様とお祖母様の指輪をいただこうかと思って。」
「…お祖父様とお祖母様の指輪?」
 
「そう、お祖父様がお祖母様に愛の証として送られた指輪だ。お祖父様が亡くなられてからずっとその指輪ははめられることなく、ずっと大切に仕舞われている。…チェギョンのお祖父さんの思い出の品もと…考えたんだが…、思い浮かばなくて。俺たちを引き合わせてくださったお祖父様の想いをいただきたいんだ。」
 
無言のままじっとシンを見上げていたチェギョンを、シンは「どうだろうか?」と尋ねるような視線を恐る恐る送ると。
その先には大きな瞳が揺らいでいた。
 
「…チェギョン?」
「うん、…そうしよう、シン君。そんなこと考えてくれてたなんて、…すごく嬉しい。ごめんね、そこまで全然頭が回らなくて、自分のことばっかりで…本当にごめんね。」
チェギョンが思いのほか喜んでくれたことが、何よりも嬉しい。
 
2人で身につける大切な指輪、やはり真新しい指輪が良いだろうかと自分自身悩んでいた。
 
でも、やっぱりチェギョンだ。
大切な人達から譲り受ける物を何よりも喜んでくれる。
 
頬を伝う涙を手のひらで拭いながら、笑うチェギョンを見つめて、シンはチェギョンが傍にいてくれる幸せを改めて感じた。
 
 
 
 
 
学校からの帰り、揃って東宮殿の車寄せに立った2人は、前もって知らせていたコン内官に出迎えられた。
 
「お久しぶりでございます、チェギョン様。」
「本当に。なんだかこんなに長い間、おじさんに会ってないのって、初めてですよね。」
「左様でございます。何かとご不便をおかけいたしますが、チェギョン様、…もう少しの辛抱でございます。」
「大丈夫、もう少しすれば今日みたいに一緒にここに帰ってくることができるんだもん。今までの13年を思えば、こんなのどうってことないですよ。」
そう言って笑うチェギョンを見下ろして、シンは僅かに微笑んでコン内官と視線を交わす。
 
 
「お支度が整いましたら、お声をおかけください。」
シンの着替えのため、自室へと入っていく2人にそうコン内官は声をかけてドアを閉める。久しぶりの東宮殿、見慣れているはずのこの場所はなんだか少し違って見えた。
それは自分という存在を受け入れるための準備が着々と行われているせいだろうか。
 
チェギョンはシンが衣裳部屋で着替えを済ませている間、シンの部屋から出て、自分の部屋となる皇太子妃の部屋のドアを開けた。
 
今まで生活感のあまりなかったこの部屋も、新しい主のために活気づいているようにも見えた。
 
ここが自分の新たな住まいになる。
慣れ親しんだ狭いあの自宅の部屋。
それに比べると信じられないほどの広さを誇るこの部屋。
 
嬉しいような、寂しいような。
そんな複雑な思いが入り交じる。
 
「寂しいか?」
ふいに頭の上からそんな声が聞こえて振り返ると、スラックスにドレスシャツ、そしてジャケットを羽織ったシンが真後ろに立っていた。
 
「びっくりした…。…『嬉しいか?』の間違いじゃない?」
「そうか?お前の大好きな家族から…、いつも仲良く肩を寄せ合っていたおじさん達からお前を引き離して、こんなだだっ広い部屋に来させるんだ、寂しいんじゃないかと思って。」
「………。」
 
この人はどうしてこうして自分の胸の内を読むのが上手いんだろう。
どう隠しても無駄なんだろうな、これから先も。
 
チェギョンが困ったようなそして泣きそうな、そんな表情で笑うことで、シンは自分が言ったことが当たっていることを確信する。
 
やっぱり…寂しいよな。
 
仲の良い家族を引き離し、そうそう会えない立場に立たせること、それが何よりも辛い。
 
「でも、ここにはシン君がいる。パパとママとチェジュンの温もりを感じることができないこの場所でも、だだっ広い部屋でも、この広い東宮殿にはシン君がいつもいる。それがなによりも嬉しいの。」
チェギョンらしいその言葉に、先ほどまで皇太子妃の部屋を見ていたチェギョンを見つめると、じっと自分を見上げる大きな瞳。
 
自分だって嬉しい。
チェギョンの両親に対しては申し訳ない想いが胸の内を占めるものの、それよりもチェギョンと共にここでこれからの人生を過ごせることが何よりも嬉しい。
 
「…シン君は違うの?」
そう言葉では尋ねるものの、チェギョンの瞳からは「一緒に過ごせるこれからが嬉しいよね」と言っているようで。
 
「俺だって…俺だって嬉しいよ。お前がここにいてくれることが。…今こうして一緒にいるだけでも嬉しいのに。」
何年と月日を共に過ごしても、一緒に過ごす時間が何よりも嬉しいと感じられることがとても幸せで。
いつまでも飽きることなく互いに恋をし続けることが、何よりも嬉しい。
 
「…そろそろ行くか。」
「うん、行こう!」
肩を並べて慈恵殿の皇太后の部屋まで、時折足を止めて回廊から見える照明に照らされた庭園を指差して言葉を交わしながらシンとチェギョンはゆっくりと2人の時間を楽しむ。
 
慈恵殿で自分達を迎える祖母である皇太后は、今からシンの口から告げられるその「願い」にどんな顔をするだろうか。
 
そんなことを考えながら進むシンの胸は僅かに緊張で鼓動が早まっていた。
 
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