「おはようございます。」
着替えを終え、自室のドアを開けたシンにいつも忠実な侍従長は、いつもの穏やかな笑みで主を迎えた。
「…あぁ…おはようございます。」
俯きがちに眉間を右手の人差指と親指で押さえながらそう挨拶を返す主に、侍従長であるコン内官は目の前の主が昨夜恐らく眠れなかったことを察する。
恐らく僅かな頭痛を感じておられるのだろう。
挨拶のため正殿に向かうシンの背中を見つめながらそう思った。
そして廊下で頭を下げてシンを迎えたチェ尚宮と、ちらっと視線があったとき、僅かに逸らせた視線でチェギョンとシンの間に何かがあったことを悟る。
「チェギョン様と何か?」
すれ違いざま、足を止めてそっと囁くと、僅かに頭を下げたまま
「詳しくは存じません。…殿下が今日明日とご不在なので、受験勉強をなさりたいからと、こちらには御出でにならないと…仰っておられました。」
そうチェ尚宮が告げた。
小さくなっていく主の背中を見つめながら、きっと言葉の足らない主のこと。
また2人の気持ちが小さくすれ違ったのだろうと小さくため息をついた。
コン内官がシンとチェギョンの間に何かあったかを気にする理由。
それは幼いころから常に見守ってきた2人だからという理由のほかに、少し気がかりなことがあった。
それは今日予定されている公務のひとつ、国際華芸術交流展の観覧。
できればこの公務だけは避けたかった。
それは、王族会のあるメンバーがどうしても皇太子であるシンに観覧してもらいたいと王族会の長老を通して申し出てきたからだ。
「どういたしましょうか。」
申し出を受けたその日、コン内官は皇帝であるヒョンの部屋を人知れず尋ねた。
「…長老を通して申し出てきたのだ、無視をするわけにはいかないだろう。」
「…ですが、陛下…。ハン・チェソン氏のご令嬢は…。」
「知っている、太子の妃候補と世間を騒がしているらしいな。私も何度もその雑誌などを目にした。この申し出に隠された意図も…なんとなしに分かっている。」
皇帝陛下であるヒョンもそのことが気がかりであるが、王族会でも力を持ったハン・チェソン自らの申し出を蹴るわけにもいかない。
チェギョンの存在を知っている長老も恐らく悩んだに違いない。
またいらぬ心配をさせ、キラキラと希望に輝くチェギョンの大きな瞳がまた曇るのかと思うと、ヒョンもコン内官も目を閉じてため息をつくことしかできない。
どうか何事も起きることなく…そう願っても、その願いを神様が聞き入れてくれることなどないと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。
パチン。
先ほどから何度となく背中から聞こえる、携帯電話を閉じる音。
コン内官は、ほんの少しだけ首を右斜め後ろに捻り、後部座席のシンの様子を伺うと、大きなため息とともにドアに肘をかけ、外を見つめるシンの姿がそこにはあった。
きっとチェギョンから電話の着信もメールの着信も一切ないのだろう。
そんな状態のまま、次の公務へと向かう。
「殿下…、次は…」
「分かっています、国際華芸術交流展でしょう。日本や中国からも参加があるんですよね。」
「…はい、左様でございます。」
「それなりに資料はちゃんと頭に入れています、余計な心配はしないでください。」
「申し訳ございません。」
本当に伝えたいことは伝えられぬまま、不機嫌そうなシンが一方的に会話を終わらせた。
こうなると内官である自分がシンに対して口を開くことはしばらくできない。
交流展が開催されている場所が近付くにつれ、コン内官の胸はチェギョンを思い、僅かに痛み始めた。
ゆっくりとシンを乗せた車が会場に入ってくると、待ってましたと言わんばかりのマスコミと皇太子を一目見ようと待っていた市民が一斉に車に向かって突進し始める。
シンが乗った車を先導していた車から降りた翊衛士の手により、なんとかシンの乗った車が止まるスペースと、シンが降り立ち会場の入り口玄関に向かう道は確保された。
翊衛士の手により開けられたドアから降りたシンに、一斉にカメラは向けられ、シャッターが切られる。
車中でのうんざりした表情から、幼少より教え込まれたプリンススマイルの仮面を顔に張り付け玄関に向かって一歩を踏み出した時。
玄関の前に立つ人物の存在に気付き、シンは足をとめた。
そんなシンの視線を追うように、周りにいたカメラマンや市民が一斉にその方向に視線を向けると。
胸元にレースをあしらい腰元の切り替えのリボンの下はプリーツスカートという、すらりとその長身を活かし、落ち着いたモカベージュ色のワンピースを纏ったシンと同世代と思われる女性が、シンに対してにこやかに微笑みかけて立っていた。
足を止めその女性を見上げたシンは、周りを囲んでいる翊衛士とシンの背中に立っているコン内官にしか分からないような不機嫌な顔を、一瞬仮面の下に覗かせた。
でもそれは本当に一瞬で、すぐにいつもの笑みを浮かべて、そっと自分の背中に立つコン内官に視線を送った。
それに気付いたコン内官が俯いたまま小さく頭を下げると、その仕草でこれは想定されていた出来事だとシンは気づく。
車中、コン内官が珍しく次の公務先の事を口にした事が思い出される、きっとそのときにこの事を伝えたかったに違いない。
自分の事だ。
自分が誰と噂になり、どういったことで週刊誌やテレビに取り上げられているか分かっている。
今、マスコミのカメラや市民から注目されどこか誇らしげに微笑む目の前の女性は、その噂となる人物の1人。
厄介な奴が現れたな…。
シンは気づかれない程度のため息を吐き、ゆっくりと足を前に踏み出した。
玄関に向かう階段を数段上がり、女性が立つその場に立つと、再び眩いばかりのフラッシュと耳につく歓声が上がった。
「殿下…!やはりハン・ジウン嬢がお妃候補の最有力でしょうか!」
「殿下!一言お願いします。」
叫ぶような記者たちの問いかけに無視を決め込んで、シンは相手に小さく会釈をした。
「殿下、お待ちしておりました。」
「ハン・ジウンさん…でしたね。」
「ええ、王族会ハン・チェソンの娘でございます。」
さり気なく自分の父の存在をアピールするところが癪に障る。
口の中で小さく舌打ちをし、シンは相変わらずにこやかな笑みを浮かべたまま、存じていますと返した。
「現在留学中の身ですが、たまたま帰国した際に殿下がこちらの交流展を観覧されると伺いました。私、ほんの僅かでございますが、華道もたしなんでおりまして、ぜひともこちらの交流展を拝見したくて参りましたの。ご一緒によろしいでしょうか?」
自分と一緒に入らずとも本当に興味があるのなら、1人でじっくりと見たいものだろう。
誰にも邪魔されず、静かに見たいものじゃないのか。
そう言いたくもなるが、釘を指すように先ほどジウンの口から父親の存在をアピールされたことと、周りをうるさく囲む市民やマスコミたち、その前で仮面を外す事も出来ずシンは仕方なく頷いた。
「ええ、さぁどうぞ。」
立場上、それなりのエスコートも叩きこまれている。
ここで皇太子が王族会の令嬢を無視して自分だけ先に入るとマスコミに何を書かれるか。
ジウンを促して玄関の扉をくぐりながら、シンは昨日から連絡を取っていない、チェギョンのことを想った。
今、チェギョンはどうしているだろうか、自分の居ない宮でチェ尚宮と共にお妃教育に励んでいるだろうか。
それとも…本当に宮には行かず、自宅で受験勉強でもしているだろうか。
もしそうだったら、休憩と言ってテレビをつけることはないだろうか。
自分ではない他の女性を促して、共に玄関の扉をくぐるこの場面を見て…チェギョンはどう思うだろうか。
シンはふと足を止め、ガラス扉の向こうで中の様子を伺おうとカメラを向けるマスコミに視線を向け、愛しい人の胸の内を思った。
昨日、笑顔で別れていたらこんなふうに不安になることはなかったはず。
それと同じようにチェギョンだって、この場面を見ても不安になることはないだろう。
どうしてもう一度あの後チェギョンに電話をしなかったんだろう。
そして、明日の夕方には宮に戻るからチェギョンに出迎えてほしいと、遠回しな言い方をせずに、真直ぐ伝えなかったんだろう。
今さら遅いと分かっていても、そう後悔せずにはいられなかった。
「また、噂になってしまいますわね。」
振り返ってマスコミに視線を送るシンの背中に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべるジウンがそう告げた。