チェギョンは東宮殿内のある部屋の扉をゆっくりと開けた。
熱気が籠ったこの部屋に、キュッキュッとシューズで床の上を踏み込む音が軽快に室内に響き渡る。
そろそろ終わる時間だと聞いた。
チェギョンはコン内官から受け取った、冷えたミネラルウォーターのペットボトルを手に、真っ白いユニフォームにマスクを被り、トレーナーを相手に軽快に動くシンを見つめた。
フェンシングは経験したことがないから、ルールなど分からない。
何度か説明を受けたが、興味がないためかその懇切丁寧にしてもらう説明も右から左の状態で。
知らないながらも知ったふりをするのが大変だ。
「今日はこれまでといたしましょう。」
そんな声が聞こえ、サーベルを下ろしたシンは小さく頷いて、大きく肩で息をしながらチェギョンの立つ方へ顔を向けた。
いつもであればコン内官が、終わるころを見計らってそこに立っているのに。
今日マスク越しに見えるその姿はまぎれもなくチェギョンで。
マスク越しだから相手に見えないと分かっていながらも、頬が緩むのを見られたくないシンは必死にそれを抑える。
「お疲れ様。」
微笑んで迎えてくれるチェギョンに頷きだけを返し、サーブルを差し出し、ゆっくりとマスクをとる。
汗により髪の毛が濡れ、額や顔に張り付く様が何とも絵になる。
うざったいとばかりにその張り付く髪の毛を散らそうと、頭を左右に振る仕草が男らしい。
日頃見ることのないその姿に、周りに飛び散る汗その一滴までも逃したくなくて、チェギョンは息をのみ食い入るように見つめた。
「…なんだよ。」
ふいにその視線に気付いたシンが、僅かに不機嫌そうに眉を寄せた。
「あ…べつに。」
慌てて視線を逸らそうとしたチェギョンの前に手が差し出される。
「…?」
その差し出された手に、そっと手を差し出すと
「おい!水!」
と払いのけられた。
「…はい。」
今さら新たな姿に見惚れてしまったチェギョンは、シンのその態度にやっぱり意地悪だ!と心の中で思いつつ、視線をシンに向けると、乾いた喉に冷えたミネラルウォーターを一気に流し込むシンの姿。
ごくごくと喉仏が揺れるのがはっきりと見て取れる。
カッコいい…。
素直に認めざるを得ないほど、その姿は素敵だった。
「さっきからなんだよ、じろじろ見やがって。」
「別に…。」
自分を見もせずに言われ、チェギョンは顔を逸らし熱くなる頬を見せまいとそっぽを向く。
今まで10年見続けてきた人なのに、どうしていまさら見惚れてしまうのだろう。
そりゃあれだけかっこよければ、誰も見惚れるわよ。
俯いたまま、心の中でそんなことを思っていると、ふと足元に影ができたことに気づく。
顔を上げると、目の前にまだ汗が乾いていない怪訝そうな顔をしたシンが自分を覗き込んでいた。
「うわ…っ!」
あまりにも近いその距離にチェギョンは思わず声を上げた。
「どうかしたのか?さっきから、お前変だぞ。」
「…別になんでもないよ。」
わずかに眉間にしわを寄せ、自分を見るシンの視線から顔を逸らし、口を尖らせる。
そんなチェギョンを見て、なんなんだ?一体と首をかしげながらシンはマスクを手に歩き出した。
「え?明日から公務でいないの?」
チェギョンの声がシンの部屋に響く。
フェンシングの練習を終え、シャワーを浴び終わったシンはタオルで髪を拭きながら、声を上げたチェギョンを軽く睨んだ。
「…あれ?」
ソファーに座り鋭い視線を向けられたことに、もしかして前に言われたのかしら?と不安がよぎる。
「あれ?じゃない。お前は本当に僕の話を聞いてないな。前にちゃんと伝えたはずだぞ、地方で公務があるから明日、明後日と不在にすると。」
「…聞いてた、覚えてる。」
そう言っても自分を見るその目は嘘ばっかりと言っているようで。
全く持ってその通りのため、その視線に耐えきれずチェギョンはゆっくりと顔を逸らせた。
その様子をじっと見つめていたシンは
「覚えてないくせに…。フェンシングでの知ったかぶりと一緒だな。」
と呆れたようなため息を吐いた。
「………。」
ばれてるんですね…。
チェギョンは図星をつかれ、だって…と口を尖らせる。
「…じゃぁ、明日、明後日と来てもいないってこと?」
「そういうことだ。」
「…なんだ、つまんない。」
「つまんないって…、来ればいいんじゃないか?お妃教育だってまだまだだろう。」
サイドテーブルから読みかけの本を手にし、パラパラとめくり始めるシンをチェギョンはじとっと睨む。
シン君がいないのにここに来て何が楽しいのよ。
そう胸の中で呟きながら。
「僕が居ようが居まいが関係ないだろう、お前はやるべきことを…。」
「…帰る。」
途端に機嫌を損ねたような言い方にシンはチラッとチェギョンを見上げると、やはりその言い方に現れたように不機嫌そうな顔。
「…おい?」
「地方の公務、頑張ってください。殿下。」
他人行儀な言い方に、ぺこりと頭を下げたチェギョン。
その態度に僅かに眉間に皺を寄せて睨むが、チェギョンはそんなシンのことなど見ることなく背を向け部屋を出ていった。
何で機嫌を損ねたか分からないが、恐らく自分の言動か何かだろう。
シンは小さくため息をついて本を閉じ、ソファーから立ち上がると、ゆっくりとドアノブを回し、扉を開けてそっとパビリオンを覗くと、スタスタと振り返ることなく廊下を歩くチェギョンの後姿、そしてその後ろを慌てて追うチェ尚宮の姿が見える。
相当機嫌が悪そうだ。
チェ尚宮のことなどお構いなしに歩くその姿がそれを物語る。
シンは小さくため息を吐き出して、そっとドアを閉めた。
ここに週に何度か通う理由はお妃教育。
確かにそのためである事は間違いない。
お妃教育に来たついでにシンの顔を見て帰る。
シンに会うのはついでなんだと思っても、何年も通ううち、チェギョンの中ではシンの顔を見るためにお妃教育に通う、そう変わりつつあった。
だからシンのいない宮に通ってもつまらない。
自分はそう思うのに、シンは自分がいてもいなくても関係ないだろうと言ってのけた。
なんだかそのことが無性に腹立たしかった。
「チェギョン様…!」
足早に東宮殿の廊下を歩き車寄せに辿り着いた時、小走りで駆け寄ってきたチェ尚宮が名前を呼んだ。
振り返った視線の先、チェ尚宮の姿しかそこにないことに僅かに落胆する。
もしかしたら、チェ尚宮の後ろをゆっくりと長身のその人が歩いてこっちに向かって来てくれるんじゃないか、そう期待したのに。
なのに、追いかけて来てくれることもせずに、恐らく自分のことなど気にすることなく、部屋で先ほど手にしていた本に目を這わせているだろうシンの事を思うと、なんだか負けた気がして悔しくて腹立たしくて、チェ尚宮から視線を逸らして、滲みそうな瞳を隠した。
「明日、明後日と殿下がいらっしゃらないそうですから、私も受験勉強に集中したいので、お妃教育お休みしますね。」
「畏まりました。」
運転手がドアを開けたのを見計らって、チェギョンはチェ尚宮に背を向けたままそう告げる。
「帰りますね」と笑顔で告げてくれなかった時点で、シンとの間に何かがあったのを察したチェ尚宮は、それ以上口を開くことなく小さく頭を下げた。
「それじゃ、失礼します。」
最後までこちらを振り返ることなく車に乗り込むチェギョンに、チェ尚宮は頭を下げて見送った。
そして車が門を通り過ぎた時、ゆっくりと頭を上げて、消えて行く車を見つめた。
自分の背にそびえたつ東宮殿の主とその許婚との間に何があったのか、そのことを考えて、チェ尚宮は小さくため息をついた。
深夜0時。
執務などを終えたシンは、ベッドに足を投げ出して、ヘッドボードに身体を預け読みかけだった本を手に取った。
しかし。
「ふぅ…。」
本に集中したくてもなかなか集中できない。
明日から少しの間会えないのに、不機嫌そうに帰っていったチェギョンの背中が先ほどからずっとちらつく。
シンは本をサイドテーブルに投げるように置くと、そこに置いてある置時計に視線を向ける。
まだチェギョンは起きているだろうか。
そっと枕の上に置いていた携帯電話を手にして、シンは押し慣れたボタンを押した。
一方チェギョンは、布団に入っても、宮での苛立ちがまだ胸にくすぶっているのか、なかなか眠りにつくことができない。
何度も寝がえりをうち、目を閉じるけれど、大きなため息とともに再び目を開ける。
先ほどからその繰り返し。
時刻は深夜0時。
いい加減眠りにつかないと、明日起きられない。
そう思えば思うほど、眠りは程遠い気がした。
その時、枕の傍に置いている携帯電話が振動を始め、着信を静かにチェギョンに知らせた。
こんな時間に電話をかけてくる相手は1人しかいない。
この携帯電話自体、1人しかかけてくることなどないのだから、画面を見て確認する必要などないけれど、チェギョンは携帯電話を手探りで探し、そっと目の前にかざした。
当然着信はシン。
再びあの時の苛立ちが蘇ってきたチェギョンは、その携帯電話をまくらの下に入れその上から顔を突っ伏した。
ブーン、ブーンと枕を通して携帯の振動が伝わる。
私は怒ってるんだから!
そう自分に言い聞かせて、携帯電話が振動を終えるのを待つが、こういう時に限ってシンは長く電話をかけてくる。
絶対に出ない!
でも、深夜の東宮殿、ベッドの上で携帯電話を耳に当て、自分が出るのを待つシンの姿を想像すると。
チェギョンは枕の下に手を入れて携帯電話を取り出し、急いでスライドさせたその時。
無情にもそれは切れてしまった。
「………。」
少しだけすれ違った2人。
今夜は眠れず、長い夜過ごす事になりそうだ。