「また、噂になってしまいますわね。」
振り返ってマスコミに視線を送るシンの背中に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべるジウンがそう告げた。
「噂…?」
ゆっくりと振り返ったシンの顔は、チェギョンを想う穏やかな顔から一転どこか冷ややかな表情へと変わっていく。
「私は全く構いませんわ、皇太子殿下の妃候補と噂されることが、とても嬉しいのですから。」
「………。」
吐き気がしそうだ…。
チェギョンと同じ年だと言うのに、うっすらと化粧を施して、艶やかなグロスを塗ったその唇が嫌らしくあがったような気がして、胸の奥底から苦々しい思いが沸き上がる。
「皇太子殿下と同じ年に生まれ、私は皇太子妃になる運命だと言われて育って参りました。現在はパリに留学中で、殿下となかなかお会いする機会はありませんが、私は殿下を支えられる存在になれると思っております。」
「…支える…。」
「はい、小学生のころからイギリスで英語を、そして中学に入学してからはパリでフランス語を…、他にもピアノやバイオリン、華道など…、皇太子妃に必要な教養は全て身につけているつもりです。ですから私は…皇太子妃に相応しいかと…。」
一歩距離を縮めて、そっとスーツの腕に添えるその手に、シンは視線を移した。
「…私を支えるのは、妃に必要な教養だけだと…?」
先ほどまでプリンススマイルがどこか冷ややかに見えるのは、目の錯覚なのだろうか。
そう思ったジウンは思わず、瞬きを繰り返し、ゆっくりと自分に視線を合わせるシンを見上げた。
「いいえ…、その他にも私は色々なことを…、最低限のマナーだって…。」
「お言葉ですが、私は将来の妃にそういった教養など求めてはおりません。」
「…え?」
まっすぐ見つめられるその瞳が、ゾクリとするほど冷たい。
ジウンは思わず、見つめられるその瞳の冷たさに、息を飲んだ。
「ご心配なく、私が英語もフランス語も堪能ですから、私の妃にはそんなもの必要ありません。私が通訳をすればいいのですから。」
「…で、でも、最低限必要なことですわ。」
「最低限…ですか。それは誰が決めたことですか?」
射抜くような冷たい視線に、思わず後ずさりをしたくなる。
今までこんなふうに冷たい視線で見つめられたことなど、生まれてこのかた一度もない。
王族ということ、皇太子妃の有力候補ということもあり、いつも自分に向けられる目は羨望に満ちていた。
初めて経験することにジウンはこの場から逃げ出したい気分になるが、皇太子妃になるチャンスだそう言われて送り出してくれた父の顔が頭から離れない。
「…そ…それは、…そのように父が申しておりました。皇太子妃になるには語学は必須だと…。だから私は…。」
「ほぉ…あなたのお父上が。皇太子妃になるには…ね。…確かに皇太子の妃、皇太子妃になるには必要なことかもしれませんね。」
「…そうですわよね。」
「でも今は私が皇太子だ。皇太子である私が望むのは…皇太子妃という存在ではない。イ・シンの妻としての存在。そしてその妻に望むことは…、私の全てを受け入れてくれる温かい腕です。」
「…殿下?」
「私はあなたが思っているような人間ではない、本当の僕を知るとあなたは逃げ出すでしょう。」
「…に、逃げ出すなんてこと絶対にありません。」
「そうですか、でしたら好きにすればいい。私も好きにしますから。」
そう告げるとシンは傍で、固唾を飲んで見守っていたコン内官に視線を送り、それを受けたコン内官は主催者達が待つ場所へ先導を始めた。
それについて歩き始めたシンのあとを、ようやくその冷たい視線から解放されたジウンが力の入らない足を何とか前に出して歩きだした。
主催者の案内で交流展に出品された作品を見て歩くシン。
その後ろを付かず離れずの距離で付いていくコン内官達、そしてその後ろをおたおたしながら付いて歩くジウンの姿がそこにあった。
なんとか自分を売り込みたい、幼少のころから身につけた華道の知識を見せつけたい。
そんな思いでシンの傍に張り付こうとするも、黒服の翊衛士に遮られ、傍に寄ることすらできないでいた。
そして、自分が口を開こうとしたその絶妙なタイミングで、自分が口にしようとした花の説明や活け方などをシンが必ず主催者に尋ねた。
恐らく華道など知るはずもないシンが、驚くほどの知識を持ち、凝った質問をしてくることに主催者達が舌を巻いたのと同様に、ジウンも自分の得意分野を奪われたような気分になり、おまけに口を開く隙すら与えられず、初めての屈辱にこの場にいるのが耐えられなくなってきた。
「なかなか素晴らしかったですね。」
俯いたまま、歩くジウンの頭から、そんなシンの声がかけられた。
虚ろな表情で自分を見上げるジウンの顔を見て、シンは仮面の下でほくそ笑んだ。
「同じ華道でも我が国と日本とでは活け方や表現の仕方がまた違って…。同じ花でも活け方で随分と花の表情が変わるものなのですね。」
「あ…ええ、本当に…。」
先ほど見た表情とは違い穏やかな笑みを浮かべるシンに、少しだけ安堵のため息を吐いて、ジウンもシンと同じように口元に笑みを浮かべた。
「私は華道に関しては恥ずかしいことに無知です。でも、こうして観覧させていただく限り、全く知りませんでは申し訳ない、だからできる限り調べて勉強して公務に望んでいる。」
「……。」
「あなたは幼いころから親元を離れ、語学やその他を身につけるため努力なさったのでしょう。その努力には感服します。皇太子妃として語学や教養は必要でしょう、できることに越したことはありません。それに語学は…皇太子妃に望む大切な要素の一つであると思います。だから、あなたのような人こそ、皇太子妃に相応しい、きっと胸を張ってその場に立てることでしょう。」
「…殿下…。」
シンのその言葉に、まるで自分を認められたような気になったジウンの顔が、嬉しそうな色を湛えた。
そんなジウンの顔を、シンは相変わらず冷ややかな表情で見つめる。
「でもそれは世間一般がそう望むこと。先ほども申しましたように、今の皇太子は私だ。私が望むのはそういったものではない。私にはそれが、私の妃に必要な要素だとは思えない。今の私に必要なのは…私が気づかないことを気づかせ、感謝の気持ちを教えてくれる、そんな人です。」
目の前にいない誰かを想ってか、ほんの少しだけシンの顔が穏やかに見えた。
「………。」
「ですから先ほど申し上げたように、妃には語学、華道、そのほかの妃としての教養など必要ない。」
穏やかな笑みが徐々にまた冷えたものに変わっていく。
それを、目を逸らす事などできずに見つめるジウンの顔も徐々に強張っていった。
「…むしろ、そんなものでしか勝負できない奴など、僕には必要ない。」
周りの空気が一瞬凍りついた気がした。
薄いシフォンのワンピースに包まれた腕に、鳥肌が立ったから。
何の感情も現さない冷え切った瞳はゆっくりとジウンから、その後ろに控えていたコン内官へと対象を変えた。
「行きましょう、コン内官。」
よく仰せになりました。
目があった瞬間シンはコン内官にそう言われた気がした。
なぜなら、彼の口元には笑みがあったから。
颯爽と玄関に向かって歩き始めた主の背中を頼もしそうに見つめ、コン内官は1人呆然と立ち尽くすジウンにチラリと視線を向けただけで、頭を下げることなどする事もなく主の背中を追いかけた。
「はぁ…。」
人込みをかき分けて乗り込んだ車中、シートに体全てを預けてシンは大きくため息をついた。
そして胸のポケットから携帯電話を取り出して、いつもの番号を引きだして発信のボタンを押した。
10回20回と呼び出し音だけがシンの耳に虚しく響く。
これだけ鳴らして気づかないはずはない。
きっと…、見たんだろうな。
そう思うと、傍にいて手を差し伸べることも抱きしめることもできない、今の距離が恨めしくなる。
唯一繋がることのできる電話、それさえも繋がらない。
チェギョン…、どうか不安にならないで。
どんな形でも、いつになっても、この想いを真直ぐに伝えるから。
だから、不安にならないで。
流れる景色の中、シンはただそう願った。
その後も福祉施設への慰問や博物館の観覧をいくつかこなし、シンはようやくその日の公務を終えて、夜遅くにホテルの部屋へと入った。
「お疲れ様でございました。」
軽い食事を済ませたシンに、明日の残りの公務の資料を手渡したコン内官がそう言って頭を下げた。
「あなたも疲れたでしょう、今日は早めに下がってもらって結構です。」
「ありがとうございます、そうさせていただきます。」
恭しく頭を下げたコン内官が背を向けて部屋を出ようとした時、ふと足を止めてソファーに座って資料をめくり始めたシンを振り返った。
「…どうしました?」
視界の端でそれを捉えたシンは、特に顔を上げることなく資料に目を向けたままそう尋ねると。
「チェギョン様ですが…。」
僅かに重そうにそう口を開くと、資料を追っていたシンの視線がゆっくりとコン内官に向けられた。