「本日宮には御出でにならなかったそうです、明日のお妃教育の時間等を尋ねるお電話もなかったと、チェ尚宮から連絡がございました…。」
「…そうですか。」
そう言って顔を逸らし、資料に視線を落とす姿にコン内官の胸が僅かに痛む。
今日の出来事といい、今きっとチェギョンに会いたいに違いない、シンのその想いが分かるだけにコン内官も辛かった。
「でしたら、明日も来ないつもりなのでしょう。受験勉強をしたいと言っていましたから、集中して勉強できる良い機会じゃないでしょうか。」
そう告げるとそれ以上の事は話したくないと言わんばかりに資料をめくり始めたシンに、小さくため息をついてコン内官は頭を下げて部屋を辞した。
今日も眠れない夜になるのだろうか。
そう心配するも、子供扱いを嫌がるシンのこと、これ以上口出しはできない。
静まり返った最上階のホテルの廊下、コン内官は扉の向こうで恐らく資料から顔を上げ窓の外を見つめチェギョンを想うシンの姿を想像し、再び大きなため息をついた。
コン内官が部屋を辞してから、何度となくチェギョンの携帯電話に電話をするも、その呼び出し音が途切れて愛しい声が耳に響くことはない。
部屋一面広がる窓ガラスから見える光り輝く夜景、でも今のシンにはそんな夜景は目に入らない。
窓ガラスに反射して映る室内を、ただ何処を見るわけでもなく見つめていた。
深夜1時、部屋のベッドの上で枕を抱えて寝転んでいたチェギョンに、再びシンからの着信を携帯電話が知らせる。
今日で何度目の電話だろうか。
チェギョンはゆっくりと起き上がり、机の上で振動する携帯電話を見つめた。
どうしてシンからの電話に飛びついて出ないんだろう。
そう自分自身に問いかけても、その答えは返ってこない。
「気にしてないよ…。」
そう言葉にしてもその声は弱々しく、自分で言った言葉にまた自分自身ヘコんでしまう。
昨日の夜、深夜にいつも以上に長く鳴り続けた携帯電話に、どうして素直に出なかったんだろう。
切れてしまってもすぐにかけ直せば、きっと笑って電話が切れていたはず。
そうすれば、今日の夕方のニュースで目にしたあの場面も「大丈夫だよ」って絵文字付きのメールを送ることができたのに。
きっと自分を気にしてかけてくれる電話にもメールにも、出ることも返信することもできずにいた。
気にしてないよってうまく言える自信がなかったから。
振動を続ける携帯電話をただ見つめ、チェギョンは小さくため息をついた。
うまく言えるだろうか。
今なら「気にしてないよ」と言えるだろうか。
チェギョンは腰を上げ、のろのろとした動きで振動を続ける携帯電話を手にした。
着信はもちろんシン。
すでになり始めて30秒は経っているだろう、こんなに長い時間シンが電話をかけること自体珍しいのに。
そのことからも自分を気遣ってくれているシンの気持ちが少しだけ嬉しかった。
一度大きく深呼吸をして、チェギョンはゆっくりと携帯電話をスライドさせた。
途切れた呼び出し音。
出ないだろうと思っていた手前、それが途切れたことにシンは思わず小さく息を吸い込んだ。
『…もしもし。』
いつもより少しだけ低いチェギョンの声。
もう寝ていたのだろうか。
「寝てたか?」
『ううん…、起きてた。…なんか眠れなくて。』
なんか眠れなくて。
その理由が、自分の公務先での出来事である事は明らかで。
シンは思わずため息を吐きだした。
『…疲れてるの?』
「いや…悪い。そうじゃない…。」
『………。』
電話越しに聞こえたため息に、チェギョンがまだ低い声で尋ねた。
それに対して、慌てて否定するも、その後会話が続かない。
突然あのことを切り出すと、チェギョンはどう思うだろうか。
もしかして公務先でのことをチェギョンが知らず、安易に口にしてしまったことで、また眠れない夜を過ごさせてしまうだろうか。
それでも、誰かほかの人から耳に入れられるより、自分の口から事実を知った方が幾分良いのではないだろうか。
そんな思いを巡らせていた中、チェギョンがゆっくりと口を開いた。
『…ニュース、…見ちゃった。』
「…え?」
『シン君の公務こと、夕方のニュースでやってたの。…ハン・ジウンさん…だっけ?』
受験勉強の休憩中、ちょっとだけとテレビをつけたその番組内で、タイミング良くというべきか、シンが国際華芸術交流展に到着して会場内に消えて行く様子を繰り返し何度も放送していた。
それはシンの公務についての内容ではなく、明らかにシンと共に消えた皇太子候補として噂されているハン・ジウンをお妃最有力として特集した内容だった。
向かいあって少しだけ言葉を交わし、シンのエスコートで会場内に消えて行く2人。
まるで将来は決まったようなものだと言わんばかりのコメントに、思わず喉元から熱いものが込み上げてきそうで口元を両手で抑え込んでその場にへたり込んでしまった。
「チェギョン…。」
『分かってる、大丈夫。大丈夫よ…シン君。私…全然、気にしてないから…。』
大丈夫、気にしてない。
そう言っている言葉がどこか頼りなく、そして弱々しくシンには感じられた。
「チェギョン…。」
愛しいという想いをこめて名前を呼ぶと、しばらくの沈黙の後、シュンと小さく鼻をすする音が聞こえた。
どこが大丈夫なんだ。
どこが気にしてないんだ。
不安にさせてしまう僕も悪いが、こういう時こそすぐに伝えてほしいのに。
真直ぐその気持ちを伝えてほしいのに。
『…ごめ…っ、シンく…』
掠れ始めた涙で滲むその声に、シンはやはりと小さくため息をついた。
「僕の方こそごめん、ちゃんと昨日もう一度電話をすれば良かった。…お前が出てくれるまで、何度も、何度も、電話をすれば良かった…。そうすれば、こんなにも不安にならなかっただろう?」
『……っく…。』
「昨日、お前が東宮殿から帰るとき、ちゃんと追いかけて、明後日の夕方には帰るからチェギョンに出迎えてほしいと、だから僕がいない間も宮に来いと、ちゃんと伝えればよかった。」
だから自分がいない間も宮に来てお妃教育をすればいいと言ったのか。
あれはシンなりの自分に対してのメッセージだったのかもしれない。
それに気付くことなく、「お前はお前のやるべきことをしろ」と表面的な言葉しか捉えず、不機嫌になってしまった。
自分がシンの想いに気づかず、腹を立ててしまった。
『シン君…ごめん…私…気づかなくて…、いつもいつも…自分の事ばかりで…。』
「何で謝る?…言葉が足りない僕が悪いのに。…本当にごめんな、こんな僕で。」
電話越しだと分かっていても、チェギョンはシンに見えていないと分かっていながらも大きく首を左右に振った。
『……そんなことない、そんなことないよぉ…。』
きっと電話の向こうのチェギョンは大きな瞳から涙をこぼしながら首を振っているだろう。
その姿が瞳を閉じた向こうに見えた気がした。
「チェギョン…。」
『シン君…、シン君、あのね。』
「…ん?」
『宮に行くのは…お妃教育のため。でも、…でも本当はね、シン君に会いに行くために宮に行ってるんだよ。…シン君に会いたいから、宮に行ってるの。…お妃教育のためじゃないんだよ。』
「………。」
『ずっと、ずっと言いたかったの。お妃教育がない日も、シン君に会いたいから宮に行きたい…。…毎日会いたい…。』
言葉に詰まるのは、今度はシンの方だった。
自分が不在の時もお妃教育があるのだから宮に来い、昨日自分はチェギョンに対しそう告げた。
何のために宮に通っているのか、それは自分に会うためだと言ってくれたチェギョン。
告げた言葉の裏に違う意味を込めていても、チェギョンはその言葉にきっと苛立ったに違いない。
自分の気持ちを何も分かってくれていない、そう思ったに違いない。
シンは滲みそうになる視界を遮る様に、固く目を閉じた。
今口を開くと声がかすれて震えてしまいそうだった。
浅はかな自分の言動に腹が立ったと同時に、チェギョンの気持ちがとても嬉しかった。
『…毎日…会いたいよ…。』
涙で滲むその声を聞きながら、シンは込み上げる感情を抑えるように大きく息を吸い込んで、そっと瞳を開けた。
「…僕も会いたい。毎日会いたかった、でも…お前の負担になるんじゃないか…そう思ったから言えなかった。」
『会えないことが…負担だよ。』
ほんの少しでいい。
毎日顔を見ることができて、言葉を交わせたらそれでいい。
「毎日宮に来て。…遠慮することなど、ないだろう。」
シンの穏やかな声音に、シュンと何度も鼻をすすり、少しだけ間を置いてチェギョンが口を開いた。
『…毎日行ったら、毎日お妃教育させるの?』
「…そんなことない。」
『だって…私は英語もできない、フランス語だって…。今日みたいにシン君と華道の展覧会に行ったってお花のことなんて何一つ分からない。…皆に誇れるようなものは私には何もないもの…。』
きっとハン・ジウンのことを気にしての言葉だろう。
お妃候補の最有力として、生い立ちから今に至るまで全ての経歴など調べ上げ、いかに皇太子妃に相応しいかと説いたのだろう。
そんな番組を見て、その存在を気にするなというほうが難しい。
シンは口元に笑みを浮かべ、口を開いた。