一人は20歳の頃から付き合いのある親友と言って良い顧問税理士。
もう一人は商売仲間でもある九州久留米の実業家だ。
税理士の友人は東日本大震災の一ヶ月半後に自殺した。
定期訪問日前日に事務員さんから電話があり所長は亡くなったと聞いた時、自殺だと直感した。
震災後あたりからSOSを出していたのだ。
気ずいていたのに何もして上げらなかった。
もう一人の友人は、物静かで優しい頼り甲斐のある兄貴分であった。
旅行中、心臓発作で倒れ一週間闘病したのちに旅立って行った。
困った時の相談には、やな顔ひとつせず的確にアドバイスをしてくれた。
何ひとつお返しも出来ずじまいのまま逝ってしまった。
心が痛いままである。
若い時からいろいろな人に心が痛む行いをしてきた。
ふとした瞬間にフラッシュバックの様に思い出す。
すまない思いでいっぱいになる。
先日ある人から心が痛む行いをしてしまったと告白された。
よくある事であるが一本気で真面目な彼にとっては堪えられないほどの事らしい。
なぜ人の信頼に応えられなかったり、過去に人を傷つけてしまった事が現在の自分を苦しめるのだろうか。
人間は社会的な生物として進化してきた。
一人では生きていけない動物だ。
他者に喜ばれる事によって心が満たされ、協力し合って共に生きて行く事に充実感を覚える。
他者を傷つけたり、掟を破る行為をすると集団より排除され生存出来なくなる。
この事が他者の役に立つ行いや、感謝される言葉に満たされた気持ちになり、反対に傷つけた行いや掟破りが何時までも心に刺さった棘になるのかも知れない。
人のに役に立ち感謝されたい、これが本心である。
他者を傷つけ、掟破る行為には心が痛む。
これは、その事によって集団より排除される、すなわち生存出来なくなる恐怖が、長い進化の中で適者生存、淘汰歴史の末取得したものである。
最近、イスラム過激派ボコ・ハラムが分娩中の母子を異教徒という理由で射殺したという記事を読んだ。
彼らは自分たちが100パーセント正しいと信じてる。
自分たちの宗教に従わない者になんら価値を認めない。
寛容という言葉を知らない。
多かれ少なかれ宗教にはそういった傾向がある。
私が宗教的なもの(スピリチュアル、霊能力、ある種の健康法)をあまり好きではないのは、こういった心の自然な良心に反し、理屈や洗脳された教義などで、人間として心の叫びを踏み躙る事が多々あるからだ。
歳を重ねてきた。
残り少ない人生、自然な良心の声に耳を傾け生きて行きたいと思う。