ちょっと久々。^^;
アシュラフがイスラエルに囚われて、けっこう時間が経ってしまった。
ちょこちょこ時間が合えば、スカイプやってた彼は、日本で震災が起きた時には日本を心配し、ヴィットーリオが殺害された時には「ごめんよー」と謝りながらヴィットーリオのポスターに何度もキスをしていた。
パレスティナの彼らの口癖は「いつ戻ってくるの?」だけど、アシュラフはいつ戻ってくるのだろう?
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(出版と普及のために)
An American-Palestinian Reflection on 9/11
By Prof. Mazin Qumsiyeh
http://popular-resistance.blogspot.com/2011/09/american-palestinian-reflection-on-911.html
一人のアメリカ人・パレスチナ人の9.11に関する意見
2011年9月11日から10年経つけれど、私たちはまだ戦争や紛争へと導く同じ政策を続けるのか、それとも人権を主張し人権侵害者へ責任を追及するのかという選択肢を持っています。
9月といえば、1970年9月にヨルダンで起きたパレスチナ人の大虐殺から、73年9月11日チリでピノチェト将軍を就任させクーデターを起こさせたCIAの関与や、1982年9月15日にイスラエル軍によるパレスチナ難民キャンプで起きたサブラ・シャティーラ大虐殺、そして2001年9月11日の攻撃まで、さまざまな残虐行為の記憶がよみがえります。
これらの悲劇は、明らかに日付の偶然の一致を越えて絡み合い、それぞれが何百という一般の犠牲者たちの命を奪った。
4つの事件のうち最初の2つが起きた時、私は亡き父と一緒にいて、TVでそれらの事件のニュースを聞いたり見たりする父の悲痛は、いまだ私の記憶に焼きついています。
1970年9月半ば、一部のパレスチナ人グループがヨルダンのハシミテ王国支配を脅すやり方で行動したので、フセイン王は厳戒令を宣言し、難民キャンプに彼の戦車を送り込んだ。
ヨルダンからPLOを撤退させることは、何百というパレスチナ人の大虐殺という「付随的被害(やむを得ない被害)←イスラエルや米国がよく使う用語」を意味した。
2年後、民主主義的に選ばれたサルバドル・アジェンデ社会主義政権に対して、ピノチェトという名の右翼独裁者を与党に置くことにCIAのクーデターは成功した。
1973年9月11日、政権が倒され、アジェンデは暗殺された。
米国が支持したチリの人々に対する恐怖政治は、何千人もの命を奪い、何千人もの拷問を行い、行方不明者を出した。
10年後、米国に支援されたイスラエル軍が1982年6月レバノンからPLOを撤退させるために侵攻しました。イスラエル侵略軍は都市や難民キャンプを叩きのめし、何千ものレバノン人やパレスチナ人市民を殺しました。
ワシントンにいるイスラエル支持者たちによって決められた取引の下、パレスチナ難民を傷つけないという約束と引き換えに、PLOは1982年9月1日にレバノンから追放された。
米国の約束は守られず、イスラエルは更なる暴力行為を犯すために米国の兵器や外交援助を得ました。
情け容赦ないシャロン国防相は、ブルドーザーとしてイスラエルでは知られており(←彼の前に邪魔なものは何も立ちはだからなかったら)、彼はイスラエル侵略軍を指揮しました。
1982年9月11日、彼はサブラとシャティーラ難民キャンプに2000人の「テロリスト」がいると発表し、傭兵を放ち、身の毛のよだつ行為を行った。
9月15日にキャンプへやってきた150人のファランギスト殺人者たちはイスラエルの金や武器を受け取っただけでなく、直射グリーンライトも受け取った。難民キャンプはイスラエル兵に取り囲まれ、イスラエルの投光照明は夜間を通じた虐殺の継続を可能にした。
40時間ずっと、女性たちはマシンガンに撃たれ、子供たちは喉を切られ、年寄りは死ぬまでメッタ打ちされた。
犠牲者の数は、推定750人(イスラエルの統計)~2500人(赤十字の統計)にわたった。
2001年9月11日、私はニューヨーク近郊に住んでいました。
その恐怖を何よりも感じました。たくさんの友人や親せきがニューヨーク市にいて、彼らや国家全体がとても心配でした。
その攻撃で、さらに多くのアラブ人とイスラム教徒が殺されました。
すぐさまアラブ人やイスラム教徒を非難し、イスラエルの植民活動を強化するための攻撃を用いるために、シオニストの軍事作戦は進められ、実行された。
およそ2000人のパレスチナ民間人がイスラエル軍によって、911に続く2年間で殺されました。(そしてパレスチナ人グループはイスラエルの報復で500人以上が殺されました。)
のちにその事件の調査委員会は多くの事実を隠ぺいしました。
犯罪調査官の取り調べで最も重要なもの・・・それは本当の動機です。
イスラエルのアパルトヘイト政策を支持する米国の政策は、触れてはならないテーマであり、多くはそうであり続けるであろう。
当局者は議論をもみ消し、米国市民が大敗するよりも消費者であり続けるよう強いている。
実際、ブッシュは911事件後、スピーチで米国市民にショッピングでも行って、事件に関しては彼と彼の政権に任せなさいと言っている。
人々は実際、聞かされていない事があると直感し、情報源を探しました。
2001年以前からパレスチナの人権のためにやっている私たちの行動は、911事件以降、良くも悪くもスポットライトの中にある事を意味していた。
恐ろしい911からわずか6カ月の間で、私は40回以上の講演が与えられ、50回以上メディアのインタビューで姿を現しました。
米国で暮らしていた時にも増して、マジで米国市民の優しさとイスラエルばかりを心配する人々の裏切りやいやらしさを思い知りました。
米国での私の暮らしについては、近く出版する本で、これらの事に関していくらか述べるつもりです。
普通の米国人が持つ優しさや好奇心や、政治的なシオニストたち連中によって私たちにもたらされた911攻撃についても。
私たちはシオニストからの迷惑メール、コンピューターハッキング、メール詐欺、FBI調査を受け、身体的および言葉の攻撃、(テロリストだの反ユダヤだのと)私たちの悪口の書いた手紙がメディア、政治家、そして大学の同僚までたくさん送られた。
私たちはそれを乗り越えるだけでなく、より決意を強くした。
その多くは攻撃者にとって裏目に出て、私たちはアメリカ国民の間でより多くの同情を得ました。
2001年9月11日から10年経った今もほら、私たちにまだ選択する余地がある。
米国とイスラエルの誤算と愚かさのおかげで、イランは地域大国としてこれまで以上に強くなっている。
イスラエルのお友達である独裁政権は民衆の反乱によって(エジプトやチュニジアのように)倒されるか、(イエメンのように)まさに倒されようとしています。
いわゆる「穏健な」支持者といわれる者以外は、弱体化され続けるか、自分たちのポジション(ヨルダンやラマッラーのパレスチナ当局)を再評価しなければならない。
米国の政策が自分たちに友好的でない独裁者を取り除くことで物事のバランスをとろうとしましたが、結果は全然そうじゃありませんでした。(そしてそこにいる人たちはまだまだ決意するかもしれません。)
続く・・・