広辞苑で「張る」をひくと「勝負ごとに賭物をする」、用例として「相場を張る」などと載っています。

 

昨日セガン&メトの終演後、クラ友と飲んでいるときに、クラ友が「どれだけ(コンサートに)張るか・・ですよね」とつぶやきました。

 

つぶやきのきっかけは、先日私が投稿したチョ・ソンジンが今のところ今年のベストとして、終演後の聴衆の熱狂ぶりを記した投稿です。

クラ友は「行きたかったなあ・・」と何度も洩らしたあとで、先の「張る」発言をしたわけです。

 

たしかにコンサートもCDも「賭け」の要素はあります。

ことにコンサートは再現不可能だし(録画収録等はべつとして)値もはるので、結構な大博打です。

 

でも張らないと時間を戻すことはできないので、後でそれがどんな素晴らしいコンサートであったかをレヴュー等で読んでも、その素晴らしさを想像はできても、実体験として味わうことはできません。

 

2024年6月のチョ・ソンジンのコンサートがどれほど特別なものであったとしても、

仮に2026年にチョが来日したら、2024年の評判を聞きつけてさらに多くの人が「張る」のかもしれませんが、2024年のような奇跡が保証されるわけではありません。

でも、張らないと、起きるかもしれないし起きないかもしれない奇跡の蚊帳の外におかれてしまうことになります。

 

クラ友に「チョ・ソンジン、秋にラトル&バイエルンでブラ―ムス聴けるから、まあいいじゃん」と投げると(私もクラ友もバイエルンのサントリーは両日押さえています)「そうじゃないんですよ。チョのリサイタルを聴きたかったんですよ」と子供のようなことを言います。音楽への渇望がピュアだから子供のように「無理なものは無理」なのに「聴きたかったなぁ」となってしまうんです。

 

音楽が大好きで人生の欠かせない一部になっていない人にお薦めするつもりはありませんが、音楽が生きていくうえでとても大切なものになっている人には「迷ったら張ってください」と言いたいです。

私が金もないのに無理して40年前にショルティ&シカゴや小澤&ボストンに張ったのは結果、大勝ちという結果になり(博打のように金銭換算できるものではなくプライスレスの大勝)生涯の宝になっています。40年前だのに文化会館の5階のサイド席からのショルティの指揮姿やアドルフ・ハーゼスの第1楽章冒頭のトランペットが目の前2メートルで吹いているように聴こえたことなどしっかり覚えています。全て大切な私の宝物です。

 

コンサートに張っていいことはもう一つ。

聴いた当日、もし勝てば(大当たりだったら)聴いているときも幸せです。

もっと凄いのは先のショルティや小澤さんのように、聴いているときも幸せですが、何十年経ってもその幸せが続いているんです。

これってお金がらみの博打では味わうことができない幸福です。

博打の金なんて勝ったときは嬉しいかもしれないけど、すぐに溶けて記憶にも残りません。

 

今夜はセガン&メットでバルトークです。

10年、20年経っても変わることのない幸福な瞬間に立ち会えることを祈っています。

 

余談。。。

クラ友は今年の松本の小澤征爾フェスに初参加します。

「今年は沖澤さんがフェスデヴューでいわば第2章のはじまりだから、メモリアルな年なので絶対外すわけにはいかない」と申してます。

いいコンサートに張ったと思います。

 

追記

昨夜飲んだクラ友とはべつのクラ友からメールが届いていました。

メトは火曜のバルトークと昨日水曜のマラ5の連チャンだったそうです。

火曜のバルトークは凄まじい名演だったようです。

火曜が素晴らしすぎたからなのか、昨日のマラ5は途中で腕時計で今何時かなっということを初めてやって拍手そこそこに退席したそうです。

↑昨夜のマラ5の後のカーテンコール

 

こういうことあるんですよね。

何がいけないのかよくわからないけどとにかく響かないコンサート。

CDで私が何がいけないのかさっぱり分からないけど響かなかったのは

アバド&ポリーニのシューマンのピアノ協奏曲。

期待していたのに、あれれ・・・でした。