昨夜、本当に久しぶりにリヒテルの21番を取り出して聴いてみました。

メシアンのお祭りのような音楽を聴いたあと、クールダウンしたかったのかもしれません。

 

1972年の録音ですから、もう半世紀の時を生きてきた「不滅」と言っても過言ではない遺産です。

 

大変失礼なことを書くことを覚悟して書きますが、1楽章が始まったとき「えッ、リヒテルこんな下手だった・・・」と思いました。

あまりに朴訥とした語り口に、最近の指廻りのいいピアニストたちが弾く1楽章のスタートに馴れていたのかもしれません。流麗な演奏の対極の語り口。

 

私は4月20日に投稿したウゴルスキとウゴルスカヤという父と娘のピアニストについて書いたとき、ウゴルスカヤの1楽章は23分50秒で、最近の多くの録音が20分そこそこであるのにくらべると大変じっくりと歌い込んでおり心魅かれるといったことを書きましたがリヒテルは24分32秒でした。

ブログを始めたことで何十年も見ることすらなかったCDのタイム表示を(だって、タイム表示なんて音楽を聴くうえで無関係だから)比較等の必要性から見ることになりウゴルスカヤは相当ゆっくりだな・・と思っていましたが、リヒテルは比ではありませんでした。

 

シューベルトは、美しいメロディを書く作曲家ですが、そこには単なる美しさだけではなく「怖さ」もあるのだということは、しばしば指摘されることで、未完成もそうですが、21番も怖さがあります。それは冒頭の低音部のトリルが黒雲のようだといったわかりやすいことではなく、「どうにもならないこと」とそれに対する諦念といった複雑な怖さです。

私はこの怖さは40歳になるまでは気付きませんでした。齢をとって自分の周辺のみならず社会で生起するどうにもならないことをたくさん経験していく中で感じ取れるようになりました。

シューベルトは31年のあまりに短い生涯の晩年に様々な想いが交錯したのでしょうが、どう逆立ちしても他人の心の中はのぞけません。私たちはシューベルトの音楽から感じ取ったものを自分の心の中に投影するだけです。

 

思いつきのすっごい分かりやすいたとえですみません。

ビゼーのファランドールを聴く時にその人の人生経験はほとんど影響を与えることはないと思うのです。ただただ熱狂!

でもシューベルトの21番はその人の経験してきたこと全てがもろに影響を与えるように思えます。

 

私が中学生の頃は、天国的に長い曲ということで全然ポピュラーな楽曲ではなかった21番が、いまや、たくさんの人にとってとても大切な音楽になりました。

なにしろレコ芸の名盤百選みたいな企画でモーツアルトのピアノ協奏曲で採り上げられていたのは26番ですから。「戴冠式」という邦題があったからのようです。

半世紀で聴く側もそれなりに進化したということかもしれません。

だからこそ、私はこれから10年、20年経ったとき、21番が自分の心にどう響くのかに興味があります。

 

昨日、セカンドハウス(花の庭)から東京に戻る途中のホームセンターで仕入れたセージ類です。

既にいくつか購入して花の庭に植えこみましたが、ポットから出したときの根張りに感動しました。さっすがP&W。

定植後の成長もすこぶるいいのでもう少し欲しいなと思って立ち寄ったらラスト4つでした。迷わず残り4つ全てゲット!