カーチュン・ウォン&日本フィル マーラー交響曲第9番をサントリーホールで。

 

指揮者が指揮台に立ち拍手が終わり、ホールに緊張感が張り詰める。

指揮者が棒を構える。

緊張はピークに達する。

そして指揮者の棒が動き、マーラー9番のとても繊細な1楽章が始まる。

 

そこに客席のどこかから全く緊張感のない私語・・・

理解不能。

演奏が始まったら音はたてない。

音が出る前の緊張感が張り詰めた会場で、子供でも空気が読める子なら「今、おしゃべりしてはいけない」くらいのことは感じ取ることができるはず。

大の大人が本当に情けない。

 

最初の2分ほどは、理解不能な出来事を脳が処理すべく動いてしまい音楽に入れない。

言語という脳で処理する作業ではなく、心を全開放して音楽を受け止めるためにここに来たのになぁ・・・

あまりにあり得ない出来事だったので、私の空耳かとすら思ったほど。

終演後に妻に聞いたら妻も聞いてました。

人に迷惑をかけることは本当にやめましょう。

 

そうはいいつつも、カーチュンと日フィルの創る音楽はぐいぐいと私の心を支配してくれ、数分後には完全に音楽に入ることができました。

カーチュンは暗譜ながら、譜面を見ながら振っているのと見まごうほどの精密な指示がビシバシ飛び交う見事な指揮を披露してくれました。

 

私にスコア(総譜)を教えてくれた中学校の音楽教師に「譜面見ないで指揮する人がいるけど、あれってメロディとか全部覚えているってことですか」と質問したら返ってきた答えは驚愕以外のなにものでもありませんでした。

「おまえが今手に持ってるスコア・・何持ってんだ??チャイコフスキーの5番か・・暗譜で指揮してる指揮者はその楽譜を全部書けるってことだよ」

私は「えええー」と言って本当に後ろにたたらを踏みました。

 

私はカーチュンの指揮を見ながら、50年も前の音楽教師との会話を思い出していました。「指揮者はその楽譜を全部書けるってことだよ」という教師の言が嘘ではないということをカーチュンが体現していたからです。

 

スタートでケチがついたものの1楽章は押したり引いたりを繰り返す音の波を堪能して終了。

 

2楽章は個人的には、9番で1番落ちる楽章だと思っていましたが、今日の2楽章は本当に面白かったです。

カーチュンって特異なことはやらないのに(変わったことをやって耳を惹きつけるといった姑息なことはやらない)、よく聴き知った楽曲を初めて聴いた楽曲のように感じさせてくれる指揮者です。

 

3楽章。この楽章は私にとってベンチマークとなるあまりに高水準の演奏があるので、どうしてもそれと比較してしまいます。

それは2008年のフランクフルト放送交響楽団とサントリーでやったマーラー9番。

この3楽章の最後の一撃の衝撃は凄まじく、私の脳裏には「震撼」という言葉がよぎると同時に刻み込まれました。

どうしても、それと比較してしまいます。

カーチュンの最後の追い込みは相当の熱量を放ってはいたものの、ヤルヴィのそれには及びませんでした。

 

そして4楽章。

今日、ホールに参集した方々がおそらく一番楽しみにしていた楽章だと思います。

3楽章を終えていったん指揮台を降りたカーチュンは指揮棒を床におき、2分か3分のインターバルをおいてから4楽章を始めました。

例えば、ブラームス4番の1楽章の入りの部分、各リスナーには自分の好みの入りがあり、それとズレると、その時点でなかなか共感できなくなるということはないですか。

私はマーラー9番の4楽章の入りの部分はある意味勝負が決まってしまうとても大切な箇所で、ここをどう演奏するかというのはとても重要なポイントとなります。

 

カーチュンは、とーっても息の長い歌を聴かせてくれました。

私の両眼からはたちまち頬を伝わる涙があふれました。

 

一昨日観た役所広司さん主演の映画「PERFECT DAY」のパンフの中で役所さんが「泣くこと」について次のように語っておられました。

「人は悲しいから泣くだけではない、嬉しいから泣くこともある。名状しがたい思いを抱き泣くこともある」

私の涙はこの3番目の涙でした。

数年前にサロネンがフィルハーモニアでマーラー9番を振った時、私はチケット押さえ済みでしたが、友人のクラ友がいけなくなってしまい、急遽、私の知り合いのクラシック初心者の女性にチケットを譲ることになりました。

彼女が終演後「最後の楽章。理由は全然わからないけど涙が止まりませんでした」と話していましたが、9番の4楽章の優れた演奏は人に理由の分からない涙を流させるまさに名状しがたい(言葉にできない、説明できない)思いを抱かせる稀有な音楽だと思います。

 

終結部、カーチュンは左右に拡げた両手を少しずつ胸の前に運び、最後は合掌するような姿で、そう仏像の前で手を合わせて佇む姿そのままの姿で微動だにしませんでした。音楽も宙に溶けて無音になりました。

昨日金曜は30秒ほどの沈黙の時間が流れたそうですが、今日のそれは2分か3分は優に続きました。

誰一人物音を立てませんでした。

カーチュンが合掌をといて腕を降ろしても拍手は起きません。

まだカーチュンの背中にテンションが感じられるからです。

そのテンションがふっと緩んだ瞬間にブラボーの嵐がホールに溢れました。

 

日本フィルの皆様も本当に素晴らしかったです。

皆様全員が全身全霊をかけた演奏をなさったこと、しっかり受け止めさせていただきました。

オケのメンバーの皆様はとても幸せな時間を過ごされたことと思います。

皆様とともに私も幸せな場にいさせていただいたことに感謝しております。

 

去年、長野のホクト文化ホールで、ネルソンズがサイトウキネンを振るマーラー9番を聴きました。

終演後、妻に「去年のサイトウキネンとどっちがよかった?」と聞くと「サイトウキネンの方がよかった。もちろん、今日のマーラーもとてもよかったよ。今まで聴いたことがないような、とてつもなく美しいマーラーだった。去年のサイトウキネンはもっと複雑な様々な想いが交錯するとても深みのあるマーラーだった」と返ってきました。

私は「サイトウキネンのマーラー9番は20年くらい前に東京文化会館で小澤征爾さんが振ったのを聴いたのね。だから、僕は、意識しなくてもそれと比較してしまう。実はネルソンズのマーラーを聴きながら「小澤さんはこんなもんじゃなかった」といったことを考えていた。だからネルソンズのマーラーは去年、君が感動してたから言わなかったけど、本当はサイトウキネンのポテンシャルはこんなもんじゃない・・というのが本音。だから、僕は今日のマーラーとネルソンズのマーラーをもう一回聴かせてあげると言われたら今日のマーラーを選ぶと思う」と返しました。

 

上には上があり、30年以上前に聴いたアバド&ベルリンのマーラー9番、その後も小澤&サイトウキネン、ラトル&ベルリン、ヤルヴィ&フランクフルト、ヤンソンス&バイエルン、サロネン&フィルハーモニアといった超名演が私の中にはインプットされています(仮にこれらを第1グループとします)。

インバル&フランクフルト、メータ&イスラエルフィル、シノーポリ&フィルハーモニア、バレンボイム&ベルリン国立歌劇場管弦楽団、ブロムシュテット&N響も聴いていますが、先に記した6つの演奏には及びません(これらを第2グループとします)。

でも記憶の圏外に行ってしまった演奏はもっとたくさんあります。

 

今日の演奏が、先の第1グループに入るのか、第2グループに入るのかと問われたら

第2グループです。

カーチュン&日フィルにはもっともっと高みを目指してもらいたいし、それはかなえられることだと思っています。

厚労省の出している男性の平均余命は81歳なので、再演が20年先になってしまうと、私がそれに立ち会うことができる可能性は低くなります。

彼らのマーラーをまた聴きたいなぁと切に思います。

 

今日は、セカンドハウスに首都高から東北自動車道ルートで帰りました。

途中から妻に運転を代わったので、私は助手席から風景写真を撮ってました。

那須の山々が見えるようになり・・

家に帰ると滑り込みで夕景を眺めることもできました・・・

分かりますか?

センター少し上にあるのは三日月です。

心に残る素晴らしい音楽を聴いた最後に素晴らしい自然に接せることができ今日も

「PERFECT DAY」となりました。

 

※追記

「去年聴いたネルソンズ&サイトウキネンのマーラー9番」について触れた箇所がありますが、一昨年の誤りでした。

去年はジョン・ウィリアムスが来日し、サイトウキネンのチケット倍率は20倍近くにもなり私はあえなく脱落しました。

ネルソンズのマーラー9番も、もう2年近く前になるんですね・・・時の流れのはやさを感じます。