ヴィム・ヴェンダースの「PERFECT DAY」を観てきました。

夕方、少し時間が空いたので、夜の新幹線の乗車時刻までの隙間時間に無理矢理、映画の時間をぶっ込みました。

菊川のミニシアターStrangerに着いたのが上映5分前でした。

終映後、バタバタと東京駅に移動して新幹線移動しましたが、車中では映画の余韻に包まれていました。

っで、翌朝、出先でこれを書いています。

 

この劇場では、先月、ヴィクトリ・エリセ監督の「瞳をとじて」を2度繰り返して観たばかりで、同映画については4月に「伏線回収」「瞳をとじて」というお題で投稿しました。

「瞳をとじて」は、友人の「映画に説明を求めるような人には全く理解できない映画。今年も始まったばかりだけど今のところ私の今年のベスト。きっと気に入ると思います」というメールをきっかけに、169分という長尺に私は当初尻込みしていたのに観ました。結果、繰り返して観ることになりました。いい映画でした。

 

奇しくも本日(今となっては昨日)観た「PERFECT  DAY」のパンフに次のような記述がありました。

「起承転結や、伏線の回収にとらわれていたら大切なものを見失う。それはただの作為でしかない。安っぽい作為で心を動かすことはできない」

 

私が「瞳をとじて」を観た頃からずっと考え続けたいたことをズバリ言い当てられた思いがしました。

私は自身の投稿「伏線回収」で「各人の感覚に委ねられた『あそびの部分』があるからこそ脳(≒ロジカル)ではなく心が動き出すのだと思います」と記しました。

まさに「伏線の回収にとらわれていたら大切なものを見失う」ということです。

 

とてもいい映画でした。

私の毎日ととても似てるなぁと思いました。

朝、起きて花の世話をして、仕事をして、仕事中は音楽を聴いて、仕事の合間に街並みをスマホで撮影して、夜は(主人公のように銭湯ではないけれど)ジムのサウナに行って家に帰れば音楽を聴いて読書して寝る。

翌日もその翌日もその繰り返し。

実際「昨日と同じことをしてるなぁ」と感じることはとても多いです。

週末のセカンドハウスでの生活を除けば平日の私の日常は、映画の主人公の日常ととても重なっていました。

主人公が几帳面に記録して積み上げる写真が私にとっては最近始めたこのブログに相当します。

気がつけば、主人公のように毎日同じことを繰り返して30年以上が経ちました。

「えっ、もう30年も経ってるの」というくらいあっという間の時間の流れでした。

 

繰り返される日々ですが、映画のパンフの言葉を借りれば(繰り返される日々ではあるけれど)まさに「いつもすべてが新しいのだ」・・・

 

最後に・・・

映画の中で最も敬愛する写真家ロバート・メイプルソープの作品がチラっと出てくるシーンがあり熱くなりました・・・

メイプルソープの大きな額装が東京の家と仕事場に壁にあります。

 

劇場を出た交差点からの風景。

以前もこのアングルで撮ったものを貼りました。

定点観測のようにこの劇場で映画を観たらこの交差点写真を貼ることにしようと思います。