4月11日のトリフォノフのモーッアルトについて「これについて書くと長くなるので日を改めて」と以前のブログに書きました。

 

モーッアルトのピアノソナタの魅力を最初に教えてくれたのは、内田光子さんです。

内田さんの演奏に触れるまでは、私はモーッアルトのシンプルな音の配列の魅力に気付くことができませんでした。

 

ピアノソナタの魅力に憑りつかれたのは、中2か中3のときです。

バックハウスのレコードのベートーヴェン全集が1万5000円で発売され、誕生日か何かにこじつけて親に頼み込んで買ってもらったのが始まりです。

変な話ですが、あのレコードには盤を取り出したときに独特に匂いがしました。わかるわかる・・という人はきっといらっしゃると思います。

その匂いも含めて、まあ嬉しかったです。

当時の私は、月光とワルトシュタインと熱情と31番と32番しか知らなかったので(31と32はアシュケナージのレコードでした)、知らないベートーヴェンの曲をたくさん聴けることだけで心躍りました。

 

ちょっと寄り道すると、中学生のとき、アシュケナージの32番を聴いたとき(当然、人生初の32番です)、聴き始める前にとても緊張しました。敬愛するベートーヴェンの最後のピアノソナタに自分はこれから初めて向き合うんだ。心して聴かねば!

32番がどのように始まり、どのように終わるかを知ってしまった今は、絶対に味わえない幸福な時間を過ごしたものだと思います。

凄い集中力で全曲を聴き、2楽章の終わりを迎えたとき「ああ・・・ベートーヴェンはこんな風に現世と別れをつげたんだなぁ・・・」と中学生ながら、とてもしみじみした気持ちになったことをよく覚えています。

妻にこの話をすると「やっぱり中学生の頃から変だったんだね」と言われます。

 

閑話休題。

バックハウスのレコードは本当によく聴きました。

当時は、それしか持っていないということもありますが、繰り返し繰り返し熱心に聴いたものだと思います。

今は、評判がいいと、取り敢えずクリックして手元に置いておくということをやるのでベートーヴェンのソナタ全集は優に10セットをこえますが、中学生の頃の真摯な鑑賞態度とは程遠いことを自覚しています。

当時は音楽への渇望が今より遥かにありました。

 

ベートーヴェン話が長くなりましたが、私の10代は堅牢な構築物ともいえるベートーヴェンどっぷりだったわけです。

そんな私には、モーッアルトのよさを感じ取るには時間がかかりました。

あの「軽さ」を心地よいと感じる感性がありませんでした。

 

それを軽々と心の領空侵犯をしたのが内田光子さんのそれでした。

素のままで弾いているようでありながら、内田節とでもいうのでしょうか、ごく自然に内田さんのスパイスがふりかけられており、なによりも奏者のモーッアルト愛が随所から新芽が吹くように溢れている様がとてつもなく魅力的でした。

お決まりのコースではありますが、テイトと組んだ協奏曲も全て好きでした。

その後、ピリスやバレンボイムのモーッアルトも知るところとなり、いずれもとても好きです。ピリスは清流のきらめきを、バレンボイムにはすくすく育つ若木のような清新さを感じます。

内田・ピリス・バレンボイムの全集は、とても順番をつけられませんが、この三者に共通するのは、あくまで「モーツアルトありき」という点です。

「俺が俺が」は皆無で、陳腐な表現ですが、少年モーッアルトが嬉々として弾いているように感じられるところが共通項です。

 

そんな私には「俺が俺が」のモーッアルトは・・・ちょっとね・・・という存在でした。

ところが、私のモーッアルトピアノソナタ遍歴に楔を打ち込む凄いディスクが登場しました。

先のお三方とは全くタイプの異なる演奏です。

ファジル・サイの全集です。

名前を聞いただけで「アウト」という人もたくさんいると思います。

「曲によっては彼に合う曲もあるかもしれないけど、モーッアルトはどうかな??」という人の気持ちはわかります。サイがトルコ行進曲でおちゃらけた前科も皆の知るところですから。

 

私はコロナ禍より少し前にロードバイクの練習中に落車して救急車で病院に運び込まれ、結構な骨折でそれなりに入院しました。そのときに病室にずっと流れていたのがサイのモーッアルトでした。

「入院中に、ああいうの疲れませんか??」

当然に予想される声です。

サイのモーッアルトは「俺が俺が」系であることは間違いありません。後にレヴューを読むと「グールド以来の衝撃」といった声もありました。

グールドとは方向性は異なりますが(ざっくり言うと、グールドは遅い、サイは速い)、まあ個性的という意味では分からんでもない評です。

サイは、ご自身の表現を入れ込んでいます(音符変更といった御法度はありません)。入れ込んでいますが、モーッアルトをいささかも壊すようなところはありません。とても歌っています(実際にグールドみたいに歌っているところもありますが、ここでいう歌は、声に出す歌ではなく「フレージング」という意味での歌です)。

私は、奏者の解釈が相当程度入るモーッアルトであっても、モーッアルトを十分に尊重した解釈であったサイを受け入れることができました。

 

藤田真央さんの全集が話題です。

藤田さんの大ファンの妻がすぐさま抱え込んでしまったため、私はそれについて語るほど聴き込めていません。

ですが、藤田さんにはまっている妻にブラインドで「これ聴いてみて」と任意に取り出したサイの全集の一枚を聴いてもらいました。

聴き終えた妻は一言・・・「藤田君敗けた」ともらしました。

のびやかに幸せそうに歌う、自由奔放なサイのモーッアルト。

私の好みのタイプとは全然異なるモーッアルトですが、このセットは好きです。

 

はい、もともとはトリフォノフのモーッアルトの話でした。

サントリーで初めて聴いた彼のモーッアルトは・・・これはコンサートはプログラミングの影響が大なり小なりあるということに連なりますが、声高に語ることが一度もない極めて慎ましく自制されたラモーの後に、開放されたかのように思いのままにメロディを紡ぐトリフォノフのモーッアルトは素敵でした。系列からすると「俺が俺が系」だと思いますが、彼の演奏は、内田・ピリス・バレンボイムのようにこちらが無心になれるモーッアルトではないものの楽しめました。

ただ、なんと言っても、この夜の白眉はラモーとベートーヴェンでした。

 

10年前に録音されたカーネギーのライブ盤も届き、聴きました。

「こんな素晴らしいCDをスルーしていたなんて・・なんともったいないことをしてたんだろう」

・・・そう感じました。

 

昨日は、麻布台ヒルズの展望台フリー入場の最終日だそうで、情報をキャッチしたスタッフから「行きましょう、行きましょう」と言われ行ってきました。私の仕事場はサントリー徒歩圏内なので麻布台ヒルズは散歩がてら出向けます。

4月半ばだのに初夏を思わせる日の東京の街はとても綺麗でした。

偶然ですが、雲がタワーを囲むように列をなしてます。

その上方にポッカリあいたスペースに青い空・・・