ブルータスという雑誌で、ブザンソン国際指揮者コンクールの優勝者対談として、山田和樹さんと沖澤のどかさんの対談が載っていることをクラ友から教えてもらいました。その中で、山田さんがメータのことを次のように語っています。
僕は指揮が一番美しいのはズービン・メータだと思います。とても流麗で自然なのです。棒の先まで自分の息が通っているから、オケは演奏しやすいと思います。それこそ強制しないのですね。何も特殊なことはしない。
単純に言うと図形を描いているだけなのですが、それでも素晴らしいのは、オケの掌握能力が異様に高いからでしょうね。でも、彼の若い頃の映像を観ると今のようにはできておらず、長い年月をかけて自分のスタイルが作られていく。その何十年もかかるプロセスに自分もいられること自体が幸せです。
私にとってメータは、可もなく不可もなく・・という存在でした(過去形)。
ウィーンフィルともイスラエルフィルとも来日し、演目を覚えているものもありますが、内容は記憶に残っていません。
2018年にヤンソンスがバイエルン放送響と来日することになっていましたが、ヤンソンスの体調が芳しくなくメータが振ることになりました。
既にヤンソンス指揮でチケットは発売済みで、私も購入済みでした。
私は、食を通じて知己を得ていたツィメルマンと、その数年前にワインを飲みながら音楽談義(シューベルト21番の4楽章について)していた際に、ヤンソンスの体調と体調を心配する理由をツィメルマンから聞いていたので、メータの代演が発表されたとき「ああ、遂にそのときがきたんだ」と思いました。
メータの代演については、私はヤンソンス&バイエルンを楽しみにチケットを購入していたので、正直なところ「メータか・・・微妙だなぁ・・・」という感じでした。
ホールに現れたメータは杖をついてました。歩行を介助する方もいました。
その足取りに会場は「えーっ、大丈夫ですか??」といった空気になりました。
指揮も座ってのものです。
私はこの日のチラシを額装しています。
実はチラシを額装しているアーティストはこのチラシともう一名のみです。これに加えてもう一人額装を考えているのは、昨年暮れの水戸芸術館でシマノフスキを弾いたときのツィメルマンのチラシです。が、これらは例外中の例外で、基本、チラシは捨てています。
なぜ、メータのチラシを後生大事にとっているのか??
前半のシューベルトは何も覚えていませんが、後半の「春の祭典」が別格級に凄かったからです。
ラトルの春祭が凄い・・とかマケラの春祭が凄い・・とか、春祭の凄い演奏は世にあまたあります。ただ、その凄さは、基本的に切れ味の鋭さという尺度がとても重要ながポイントになります。もちろん切れ味が全てではなく、音塊の持つ重さといった点もポイントになると思います。「ずしん」というあの感じ。
メータの春祭は、例えばブレーズの春祭の切れ味をレーザーメスとすると、
鉈です。鉈(ナタ)。
鬱蒼と茂った春の草木を鉈でなぎ倒すような演奏でした。
切れ味メッチャ悪いです。
でも草木はのきなみぶっ倒されていきます。
破壊力ハンパないです。
なにしろ鉈(ナタ)ですから。
重量級の鉈を振り回し、ずしんとした音塊がホール中に放射されました。
こんな演奏、半世紀にわたり春祭を聴いてますが初めてでした。
メータが着席した時点で「今日は何も期待できないな。とりわけ春祭をこんな体調でどうするの??」と正直思いました。
ところが、ところがです。座っているにもかかわらず、ほとばしる気迫たるや凄まじいものがありました。
もともと細かな指揮をする人ではありませんでしたが、身体がきつくなった部分は全て気概でカバーしていました。カバーという言葉も少し違う気がします。気概で全てを押し倒していくような指揮でした。その気概は空回りすることなくオーケストラ100名を巨大な渦に巻き込むようでした。
私にとって、メータは優れた指揮者の一人という位置付けでした。来日すれば、万難を排しても、とまでは言わずとも、まあ大外れはないから行っておくか(オケも必ずファーストクラスですし)といった指揮者でした。
座って指揮するようになってからのメータは別人だ・・・とこの日を境に変わりました。
私にとってメータのリボーンであるとともに、後にも先にも二度と聴くことができない春祭を聴けた日の記念碑的な意味合いでメータのこの日のチラシを額装にすることにしました
そんなわけで、最近リリースされたメータのベートーヴェン交響曲全集のBlu-rayもその到着を心待ちにしていました。
一月以上前に到着していますが、まだ英雄の全曲すら聴けてません。
とても聴き続けられなかったからです。
先週末にふと取り出したケント・ナガノ&モントリオールはたちまち全曲を聴きとおしたというのに・・・
楽しみにしていたメータのベートーヴェンは、よく言えば、まーるくて、ちょっと重めのベートーヴェンです。悪く言えば(私の本音を言えば)、もっさりしていてとても聴き続けられる代物ではありませんでした。
これと同様のことは何年か前に経験したことがあります。
子供の頃は、影の巨匠的な位置付けで、カラヤンのようなスター性はないが、いぶし銀のような演奏をする指揮者とインプットされていたオイゲン・ヨッフムのベートーヴェンです。
先のインプットは、レコードからのインプットではなく、レコ芸の文字情報からのインプットです。その頃の10代の私にヨッフムのレコードなど買えるはずもありません。優先順位の高いアバドやベームのレコードを買ったらもうお小遣いはないので。
それが、今やボックスセットで一枚あたり数百円で買える、それが良いのか悪いのかよくわからない時代になりました。
「よーし、憧れのヨッフムのベートーヴェンをセットで買うぞ」と入手したものの、英雄の途中で脱落しました(私は全集なら必ず英雄から聴きます)。ヤルヴィが基準となっている妻も「これ、無理・・」と早々に脱落しました。
私には、ヨッフムのベートーヴェンは、どうにももっさりした演奏に聴こえてしまいました。
もっとも、そう感じるのは2024年の今、そう聴こえるというだけの話です。
2030年には違って聴こえるかもしれません。これまでも、そういうことは何度も経験してきました。
先のケント・ナガノのベートーヴェンも初聴のときは刺さらなかったのに、今では「こんなにフィットするベートーヴェンそうはない」と大変気に入ってます。
まあ、こういう経験をできるのもクラシック音楽の大きな愉しみなのだと思います。
だから、メータのべ―ト―ヴェン全集も一度は全曲きちんと向き合ってみようと思います。
お昼はソロで寿司を食べに行きました。
4月4日に親友と酒を酌み交わした寿司屋です。
板さんと高知の牧野植物園の話をしながら楽しい時間を過ごしました。
帰りに弁慶橋の上で葉桜を撮りました。
4月5日のポリーニの投稿の末尾に同じ場所での桜満開写真を貼ってあります。
季節は確実に進んでいます。
13時前のランチ帰りの人々が行きかう時間帯なのに、一瞬、街から人も車も消えました。