40年ほど前に、六本木のシネ・ヴィヴァンで「ミツバチのささやき」(監督:ビクトリ・エリセ)を観ました。

人生ベストの映画とする人も多いそうですが、私もそのうちの1人です。

後に「エル・スール」とセットのBlu-rayも出て、そちらも押さえましたが、ラストシーンの劇場で観た「夜の神秘的な美しさ」は家で味わうことはできませんでした。

 

ビクトリ・エリセが久方ぶりに「瞳をとじて」という映画を撮り、2月に公開されました。ミツバチで主演を演じたアナ・トレントが主演だそうです。

プレスの写真を見ると、子役のときの穏やかで静かなオーラが50歳を過ぎた今でも変わることなく発されていました。

「相変わらず素敵な人だなあ・・」素直にそう感じました。

では、この情報を知るや劇場に走ったかというと・・・ブレーキがかかりました。

上映時間が169分だったからです。

 

昨日、クラ友がショスタコの弦楽四重奏の6時間にもおよぶマラソンコンサートに行ったことを記しましたが、ショスタコ弦四の2番がどれほど魅力あふれる曲であるか、実際に演奏されることが超レアであるか・・を知った今でも、仮にこのマラソンコンサートの存在を事前に知っていたとして、私は行ったかというと「否」です。

6時間は正直きつい・・

 

50歳になるまでは、映画や音楽の鑑賞スケジュールがどれほど密でも、そこは全く問題ありませんでした。

素晴らしい映画や音楽に接していられる至福を味わえることこそが生きている意味、これを実現できるなら死んでもいい、といった「健康のためなら死んでもいい」的なアンビバレントな感覚がなんの違和感もなく私の中にはありました。

 

ここ最近、きついんです。

オペラですらきついです。

ワーグナーはもう完全に無理。

秋にパッパーノがトゥーランドットをやりますが、プッチーニですら無理です。

だから行きません。

カルブルラン&読響のメシアンのアッシッジの聖フランチェスコも大変評価が高かったので、実演には接することはできませんでしたがCDは購入しました。

4時間ほどあるそうです。

2017年の公演のCDを2024年になっても聴けてません。

長さの壁です。

 

まあ、生命体である以上、成長期があれば減衰期もあるわけで、私の場合、もう減衰期に入っているのかもしれません。

減衰期に入ったら愉しみも減衰するかというとそんなことは全くなく、ワーグナーのCDを取り出すことはこれから滅多にないでしょうが、4月8日に触れたエマーソン弦四の解散記念CDなど、これから何度も取り出すことでしょう。

オペラも夏に沖澤さんが松本で振るジャンニ・スキッキは60分もありません。

60分を集中して愉しみきるだろうなぁ、と今から容易に想像がつきます。

「瞳をとじて」もBlu-rayが出たら購入して2日にわけて観ることになるでしょう。

映画を勝手に分断して観るなど、50になる前の私なら「邪道の極み」と唾棄したことを今では普通にやると思います。

 

実は50になった頃から人間ドックで聴力の異常をずっと指摘されています。

例の「音が聴こえたらブザーのボタンを押してください」テストです。

若い頃と同じように快調にボタンを押して「よっし、異常なしだろう」と思ったら判定はC判定。

もう10年C判定です。

耳鼻科に行ったら高音に聴こえない領域があるそうです。

先生に聞きました。

「私が20代の頃に聴いていたオーケストラの音と、今聴こえている音は違っているんですか」

「全然違ってますよ。少しづつ変わっていくからあなたは気付きませんけどね。もし今、お若い頃のオーケストラの音を聴いたら(全然違うっと)びっくりなさいますよ」

ということでした。

 

私にとって怖いのは可聴領域の幅が狭まることではありません。

若い頃とは違う音が聴こえているのでしょうが、今でもオケのサウンドは夢のようです。

医学的には聴こえなくなっているのでしょうが、私的には十分聴こえています。

私にとって怖いのは、いつの日かシューベルトを聴いても「なんで、こんな音楽に夢中になっていたんだろう。全然つまんない」・・・と感じるといった心が衰えることです。

でも、実際には、そんなこと悩む暇もなく、音楽を聴いたり、花を育てて日々幸せを感じ、自然に感謝して暮らしております。

 

昨日の日帰り九州は、行きは前線の雨で飛行機の窓の外は何も見えませんでしたが、

帰りは夕映えが綺麗でした。