40年ちょっと前、学生時代を下北沢で暮らしました。

今やとても大きなお店になったレコファンが下北沢の小さなビルの2階にオープンしたのは私が二十歳になる少し前のことです。

当時はまだカセットテープなども中古品の扱いがあり、マーラー交響曲第6番「悲劇的」として販売されているカセットを購入して聴いてみたらシューベルトの8番(当時は9番のザ・グレート)だった・・といった笑い話もありました。

 

レコファンから歩いて50メートルほどのところに1階がケーキ屋、2階がジャズ喫茶という不思議な店がありました(入口は別々、2階は外階段)。

お店の名前は、ケーキ屋もジャズ喫茶も同じで「シェルブール」。おそらく60を超えていたと思われるシルバーグレイの端正な佇まいのマスターがカウンターのみのジャズ喫茶(実際は喫茶というよりカウンターバー)を仕切っていらっしゃいました。若い頃のビル・エヴァンスに年齢をプラス30歳くらいといった雰囲気のマスターでした。

アンプはマッキントッシュ、スピーカーはアルティック。カウンターの向かいにある壁面はジャズのレコードで埋め尽くされていました。

 

数年前に下北沢を歩きましたが当然のことながらもうありませんでした。

ネット検索したら懐かしいマッチの写真が載っていました。

かれこれ40年も経つんだなあ・・・本当に素敵な空間でした。

この店の重心の低い音に魅かれて学生時代から卒業後も結構な頻度で通っていました。

私が20代後半の頃、お客さんがはねてマスター二人だけになったときに「僕、実はクラシックも大好きなんですよ」とマスターに話すと、マスターは壁面のレコード棚を眺めながら「家にはこれと同じくらいのクラシックのレコードがあるんですよ」と返されました。

そこからはクラシック談義です。

「録音が悪いのが気になるのはほんの最初だけ。演奏がよければ音が悪くても引き込まれてしまう。全然気になりません。フルトヴェングラーがそうでしょ」とマスターがおっしゃったとき「まさにそうだ」と思ったことをよく覚えています。

マスターが「例えば蓄音機」と言って奥から朝顔のついた蓄音機を出してきて、竹針でSP盤を聴かせていただきました。解像度とか周波数といった尺度を持ち出せばダメな音になるのでしょうが、昭和の終わりに深夜マスターと聴いたSP盤の音は、SP盤を子供の頃に聴いたわけでもないのにとても懐かしい音でした。

 

ちょうどパリ菅の来日が発表された頃「マスター、今度パリ菅が来日しますよね。一度、聴いてみたいんだけど指揮者がバレンボイムってところがねえ」と私が話すと「どうしてバレンボイムだめなんですか」とマスター。小学生の頃からクラシックを聴き、レコード芸術も読んでいた私はバレンボイムをレコ芸の広告写真でよく知っていましたが、レコードは一枚も持っていませんでした。全く不合理な話ですが、小学生か中学生の頃に「なんだかこの人、嫌な感じ」と写真だけで思い込んでしまい、それが大人になっても続いていました。今では存命の指揮者・ピアニストの中で最高峰と信奉しているというのに。

マスターに「なんだかあの人好きになれないんですよね」と返したら、マスターは「バレンボイムのことはひとまず措いて、とにかくパリ菅は行ってごらんなさい。私は聴いたことがあるけど、あのオーケストラの響きは素晴らしいですよ。あれはレコードでは伝わらないから」と遠い昔を思い出すような目をして私にパリ菅を強く強く推してくれました。

「行ってごらんなさい」というマスターの言い方がなんとも素敵でした。。

 

サントリーホール当日。

前半はワーグナーのパルジファルから。

当時の私にはこの淡々とした音楽のよさは分かりませんでした。

パリ菅の魅力もパルジファルでは伝わってきませんでした。

後半はシューベルトの8番(当時は9番)。

 

こちらは流転するめくるめく時の流れが大河のように眼前に展開されるようで一瞬でひきこまれました。なんのことはないワーグナーは曲を知らないから楽しくなかっただけのことでした。よく知っているシューベルトは、全てのフレーズが「えーっ、実演ではこんなに綺麗なんだ。カッコいいんだ」と燦然と輝いていました。「こんな金管の音、聴いたことない」なんてことが頭をよぎりながら夢中で聴き入りました。

気がつけば、私はパリ菅以上にバレンボイムのさまざまな動きに目を奪われていました。バレンボイムの動きとパリ菅の音の変化の連動はほとんどマジックのようでした。

終楽章の一番力を溜め込むところでバレンボイムはびっくりするくらいのガニ股でしゃがみ込むかと思うと一気に伸び上がり、その瞬間オーケストラは全開放。

凄まじいカタルシスに包まれました。

どのくらいのガニ股だったかというと、ラジオ体操第一の最初の体操のあの感じです。35年くらい経っているのに、映像としてしっかり刻み込まれています。ピアニシモが欲しいときにしゃがむ指揮者はたくさんいらっしゃいますが、ガニ股でガッツリ座った指揮者はあの日のバレンボイムが最初で最後(今のところ)です。

マスターに推されてパリ菅に行き、サントリーホールを後にした私の頭の中はバレンボイムのことだけ。「なんだ、この人は。こんな凄い人が世の中にはいるんだ」そんなことが頭をずっと駆け巡っていました。

当時は、今のように押しも押されぬ大巨匠という感じではなく、中堅の筆頭株といった感じでしたが、もうこの日から寝ても覚めてもバレンボイムというくらいバレンボイムに夢中になりました。

 

バレンボイムが「これが最後の訪日」と言ったブルックナー交響曲の全曲演奏会。もちろん全て行きました。最後でなくても行ったと思います(ちなみに私のベストは5番でした)。

ところがその後ピアニストとして来日してくれました。

ベートーヴェンの1番から始まるコンサートがバレンボイムの勘違いで30番から32番のプログラムになってしまったあの日も聴きました。翌日も同じプロでしたが2日目はもっと素晴らしかったです。

ドレスデンとの来日が発表されたときは「なんだ、もう来ないって言ってたのにオケでも来てくれるんだ。嬉しいな」と思ったのも束の間、体調の問題でティーレマンに代わってしまいました。

ベートーヴェンのプロを間違えてしまったことを休憩の際に気付いたバレンボイムは、後半の32番を弾く前に「必ずまた日本に来ます」とアナウンスしてくれました。敢えて「約束してくれました」とは書きません。健康が許すのであれば・・で結構です。再び実演に触れられる日が来ることを待っております。