私がアメブロを始めた頃からアメブロを見てくださっている読者の方は、私のこれまでを知ってくださっていると思いますが、
たまたま見た方や最近、私のブログを読んでくださっている方は、私についてご存じないと思うので改めて私のストーリーを書いています。1回目は、私の子供時代について書きました。
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今回は、高校時代から薬剤師になるまでを書いてみます。
私が学んだのは、福島県郡山の安積女子高等学校(現在は安積黎明高等学校)です。
高校入学後は、将来について漠然とした考えしか浮かばず...
フワフワしていたら、ヤンチャな友人達と仲良くなり、学校はサボってばかりの日々。
今思えばよく留年しなかったのが不思議というくらい...
成績は423人中421番、後ろの2人は欠席という、最下位。
答案用紙に先生から「真面目に答えなさい」と書かれたこともありました。
当然ですが、学校では、周りは私を避けるし、先生は問題児を見える目でした。
高校1年から2年生の夏までは、魂が抜けたような感じで、「どうでもいい」と周りにも自分自身にも思ってました。
しかし、高校2年生の夏休みになんとなく大人になった時のことを考えていたら...
「このままどうでもよくて何もしなかったら...あれ、どうやってご飯食べていくんだろう」
と単純に怖くなり...
「勉強しよう!!!」
と思い立ち、その日から1年生の教科書からコツコツと勉強しました。
もともと好きではあった数学と化学はみるみる分かるようになるのが面白く、さらに一生懸命に勉強しました。そして夏休み明けのテストで化学が学年1位になったのを覚えています。
すると、周りの私への対応がガラッと変わりました。
その時、人の評価ってこういうものなんだ...と複雑な気持ちになりました。でも、友達とも先生とも仲良くできるようになった高校生活は楽しかったです。
大学は、父の薦めもあり東北薬科大学(現在は、東北医科薬科大学)に進みました。
(大学院の頃)
そして、大学の時が一番勉強しました。
大学院へ進み、体を壊すまで頑張ったのですが、肝機能がグンと落ち、2ヶ月ほど療養が必要となり、療養中に両親に「偉くならなくていい、生きててほしいから研究はやめて欲しい」
と言われ...
療養後は、研究室を辞めて実家のある矢吹町へ帰り、その後、須賀川市にある市立病院の薬局で働きました。私が薬剤師として働き始めた頃は、医薬分業前、どの病院も院内に薬局がありました。
医薬分業になり、薬を取り巻く環境は変わりましたね。医薬分業が患者さんにとって本当に良いものか複雑な気持ちになることもあります。
病院内に薬局があった頃は、医師と看護師、技師さんたちとのコミュニケーションから、薬剤師も患者さんの病状や治療経過を共有することができました。医師の診療意図も十分に分かる環境のもと、患者さんへ服薬指導ができていました。
現在は、医薬分業により、患者さんはいろいろな薬局へ処方箋を持っていきます。中には、経験の浅い薬剤師さんもいますし、病気や薬についてあまり知らない薬剤師さんもいます。
薬は正しく使って効果が出るものです。
薬剤師が間違えて服薬指導しては、どうにもなりません。医薬分業である以上、薬剤師はいつもでも勉強が必要だと思います。
...と、私のストーリーから話は外れましたが、
研究職から体調を壊し、薬局で薬剤師として働くようになったおかげで現在があると考えると、すべては必要なことだったのかなと思います。
次回は、結婚から離婚までをお話します。
続く...
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