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オフィシャルアメブロとなり、もう3-4年経ちますが、たまたま私のブログを見た方は、「だれ?」となると思うので…

改めて私のストーリーを書いていきます。
 
 
 
 
 
私は、福島県にある小さな町「矢吹町」で生まれました。6歳年上の兄と両親の4人家族。
父は日大東北附属高校で化学の教師をしていました。183cmもある長身で地元では、当時、渡哲也さんに似ていると噂のスーツが似合う伊達男でした。
 
 
 
↑矢吹町の大池公園(矢吹町HPより)
 
 
 
そんな父は、家ではとても厳しく、
私は、ビクビクしていて引っ込み思案な子供でした。

(赤ちゃんの頃…時代を感じます😅)
 
 
 
 
 
 
引っ込み思案な感じは小学校へ入学しても続き、そのせいで発達障害だと周囲からは思われていました。小学校4年生のとき、担任が主導となった酷い虐めを受けました。担任が主導となっているから隠蔽され、両親に言っても信じてもらえず、子供ながら生きる気力がなくなっていました。
 
 
 
 
 
 
ある日、学校帰りに数人の同級生が私のランドセルを蹴り上げながら私の後ろを歩き、私が泣きながら無抵抗にトボトボと歩くというところに母が通りかがり、事態は変わります。校長、担任、両親で話し合いが持たれ、虐めの全てが明るみになり、担任は謝り、二度としませんと言ったそうですが、両親は、命の危険さえあると感じ私を転校させました。
 
 
 
 
 
 
転校先の学校は、ザベリオ学園という幼稚園、小学校、中学まである私立。虐めの経緯を父が話し特別に転入が許可となりました。
大人になってから聞いたことですが、実は、転入時に受けたテストがあまりにも出来が悪く、ザベリオ学園での勉強にはついていけないと判断されたそうですが、カトリックのミッションスクールなので慈愛の精神から、いじめから守ってあげなくてはと受け入れてくれたそうです。教育者だった父は、流石に「出来が悪い」ということがショックだったらしく、そこからスパルタで父に勉強の特訓を受けました。
 
 
 
 
転向した年の夏休みは、毎日、父の監視する中、正座で勉強をしました。最後には、いつも確認問題をするのですが、10問中3問以上間違えていたら、父は激怒し、叩かれることもよくありました。泣きながら勉強したことを覚えています。
そのおかげで、転入時は進級できないだろうといわれていたザベリオ学園の中学に進級することができました。
 
 
 
 
父のスパルタ教育の他に勉強でとても感謝している恩師がいます。
それは、ザベリオ学園小学校の時に英語を教えてくださったミッシェル先生です。
 
 
 
 
ザベリオ学園では、当時、幼稚園から英語教育がありました。
転校したのは5年生の時でしたが、英語は外国人のシスターが教え、中学2−3年生の英語の授業のようでした。
初めての英語の授業で私はアルファベットさえまともに書けないし、読めない。
黒板に先生が描く英語を隣の机の子に「あの続け字も書くの?」と聞いたら、
「筆記体っていうんだよ。覚えたほうがいいよ」と言われて...本当にカルチャーショックでした。
 
 
 
 
そんな私をミッシェル先生が放課後、隣接する修道院へ連れて行ってくれて、
マンツーマンで英語を教えてくれました。そして今でも覚えているのは、アルファベットを書く練習をしている私に
「素晴らしい!多くの生徒は小文字のqとpを間違えるのに、あなたは間違えない。ほんとに素晴らしいです」
子供だった私は、ミッシェル先生のその言葉がとても嬉しく、英語を勉強するモチベーションになりました。
 
 
 
 
それから僅か1−2ヶ月でみんなと同じように英語の音読も短いスキットもできるようになり、
ある日、ミッシェル先生が授業中に私を指名し教科書の英文を音読しました。
転入時、アルファベットも読めなかった私が、スラスラと音読できることにクラスメイトも驚き、
私もとても自信がつきました。
 
 
 
 
振り返ってみると私が最初に味わった勉強での『成功体験』だったと思います。
そのおかげで私は勉強が面白くなり、地元では進学校と言われた安積女子高校へ入学しました。
 
 
 
 
続く...





大人のカロリミット
 




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