学校内でのいじめ問題の主要な登場人物は

「加害生徒(いじめた側)」「被害生徒(いじめられた側)」「教師」の3者で

いじめ問題が起きるたびに、加害側が悪いのか被害側が悪いのか、教師は何をしていたのかなどと意見が交わされる。

 

そして被害生徒が問題を苦に自殺した場合、大人たちからは

「簡単に命を絶ってはいけない」「逃げてもよかったのに」などの声が並ぶ中

「やり返すべきだった」という意見も少なからず聞かれる。

 

ところが、被害生徒が加害側に復讐した場合

「暴力に訴えてはいけない」だの「正当な手段でやり返すべき」だの言う声が多く聞かれる。

 

そしてなるほど、最近では自ら暴力や復讐行為に及ぶのではなく「警察に通報して刑事事件とする」

という解決策が主流のようだ。

 

 

大人たちは、国家防衛における抑止力として暴力を肯定する一方で

子供たちには自己防衛のための暴力を否定し、監督し矯正できる分別のある大人たちに任せるように誘導しているのだ。

 

これは国家間における警察に相当する、全世界規模の「分別ある大人集団」が存在しない以上仕方がないのかもしれない。

 

 

さて

 

いじめ問題における「教師」の立場は、分別ある大人たちの一人として

問題を仲裁し、両者を監督・指導できる中立した立場でなければならない。

 

問題の原因や、事件の始終もわからぬまま、いじめ憎しの観点から一方的に被害者側の肩を持ったりしてはいけない

というのは、よくわかる。

そのため、いじめ問題における教師の発言の歯切れの悪さは

加害生徒、被害生徒、その他無関係の生徒に影響が及ばない配慮を尽くした発言であり、そういった趣旨のもと行動しているからなのだ。

 

ところが

とある不届きな教師は加害生徒側に立ち、被害生徒の責任を追及して自己責任であると断じ

加害生徒の代弁者として保護者やその他生徒たちと向き合い、被害生徒を心理的にも物理的にも追い詰めていった。

ついには被害生徒の母親でさえも、加害側の意見を持つようになった。

警察に相談しても、「分別ある大人」である教師によって事実は捻じ曲げられ、不都合な現実は無いものとされた。

 

 

いよいよ逃げ場を失い、死に場所を求めた被害生徒は

加害生徒にも母親にも復讐せず、加害側の代弁者としてふるまい続けた「分別ある」教師に対して

暴力という手段で復讐を果たす。

たった一人で。ほかの誰も傷つけることなく。

 

 

この事件に対して大人たち、とりわけ「識者」と呼ばれる、発言力ある智嚢たちは

「暴力に訴えてはいけない」「最低の行為だ」「このような行為は許されるべきではない」

という言葉でもって被害生徒を断罪するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

国家元首をはじめ、国を動かす国政に関わる人たち(いわゆる政治家)は、国民を導く「分別ある」大人であり、指導者である。

 

その指導者が、特定の団体と懇意になり、協力関係となって広告塔として表に立ったお陰で

その団体によって苦しみ、人生を崩壊させられたひとりの被害者に復讐された。

 

同じように協力し広告塔となった他の指導者たちは、この復讐者である被害者に対して断罪すると同時に

特定の団体を、そのような団体だとは「知らなかった」などと言う。

(この期に及んで「知らなかった」というはすなわち、「知っていれば関与しなかった」ということであり、その団体の不法性や関係することの問題を十分認識しているということである。)

(であれば、「知った」今からでも、毅然とした対策・措置をとるべきなのに、そうしないのはどういうことなのか?)

 

 

 

この、復讐行為に及んだ被害者を英雄視する必要はない。

ただ「最低の暴力行為だ」と断罪するのは違う。

弱者が持つ、抑止力としての暴力が正当に、真っ当な相手に対して行使されただけだ。

 

斃れた指導者も、広告塔として立った責任を取ったに過ぎない。

団体に属する人が犠牲にならずに済んでよかったと納得するしかない。これが自己責任であり、広告塔としての役割なのだ。

そして団体は、これを大いに利用するだろう。

 

 

 

これらの悉くを疑問に思わず、むしろチャンスと考え自分たちの思想や私利を優先して発言し行動する大人たちを

事なかれ主義に徹底し、問題をぼやかして直視せず、荒立つ波風を鎮静化させることに終始する大人たちを

無視し、事実をはぐらかしてなかったことのように振る舞う大人たちを

私は異常に思い、軽蔑する。

 

だから私は、社会不適合者なのだ。

 

 

いじめ問題において、前述した不届きな教師がどういう立ち位置になるのか

識者の方々に訊いてみたいものだ。