ようやく観ました。
映画『セッション』でございます。
先に話してしまいます。面白かったと。
筋書については、いくらでも調べようがありますから
自分が書いても仕方ない。だから書きませんね。
私がこの映画に熱くなったのは、
必要以上に熱くなってしまったのは、
主人公の気分が、心持ちが、ひどく手前のそれに
似ていたからでございます。(音楽とは関係ないこと)
やるほど辛くなる、犠牲が増える、動機も解らなくなってくる、
周囲には理解されない、認めてもらえない、
良い話の後に決まって悪い事情が巡ってくる、
際限なく試される、(これ嫌なもんだよ)
それでもやり続けてしまう主人公の神経やら境遇が、
ワタクシの事情と重なってね、
「そうだよ! それでもやり続けちまうんだよ、こいつも俺も!」
と画面に向かって叫んだ。いや、そんなことはしなかった。
↓ 一応、予告編を載せておきますね。一応ね。
「ラストが凄いんだぞ。映画史を云々」と
予告編でも謳っておりますが、
そうやって先に明かされていると案外感心しないものです。
「驚愕のラストが!」「あなたも騙される」「深淵なる…」
こういう宣伝が、あらゆる映画において、
撒き散らされているけれども、実際に観てみると
「なにが驚愕だ、深淵だ、下らねえ!」
となってしまう屈折した自分です。
ところが『セッション』
ラストに追い込んでくると承知していても
ひどく興奮させてもらっちゃった。
ラストを三度、観返しまして、やはり三度とも昂ぶりました。
何やら日本人のジャズの先生が
この映画にご立腹で批判原稿をぶち上げたとか聞いております。
ジャズのルーツがどうだとか、
白人がジャズを追及するっていうのは違うだとか、
これについて自分が思ったのは、
「評論家なんてのは創作物にぶら下がったタカリ屋のファック野郎」
これでした。加えて
「気分と偏見で新人斬り放題、商売絡むと拍手喝采のくそったれ共が」
こんなことも思いました。
日本の創作物っていうのは
殊に古くからあるものに関しては、
保守的というのかしら。
異端が通用しにくい環境にあります。
(最近、こういう話を聞いて、暗い事情に遭って、ひどく思い知り、
多少、偏見めいてしまっているのは解っておりますがね)
解りいいところで、
丸ごと英語の歌詞で曲を作っていた日本のバンドさんが
デヴューしたら日本語を歌うようになっていたというようなこと、
見かけませんか?
とにかく
オモシロけりゃなんでもいいじゃない、そう思うんです。
そういう自由がなけりゃ駄目だと思うんです。
『セッション』は面白かったよ。