2021.2

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第68章 善い鬼と悪い鬼の区別の巻

               

                                  

 ところで、昔から「怖いもの、恐れられるもの」の象徴として扱われてきた鬼ですが、

例えば、鳥取県伯耆町(旧・日野郡溝口町)では、村を守った「強い物」として鬼を崇めていたり、青森県の岩木山では鬼の善行に感謝して、神社の「神」として鬼を祀っているなど、これらのほかにも日本の各地には鬼を善的に捉え、また、畏敬の念で見ている例が少なくない。鬼が悪霊を追い払い、人に幸福をもたらしてくれる存在と考えている例も少なからず見られる。

 

 ここでストリップわらしこと、ちん吉くんが登場。

「鬼というと悪い鬼ばかり目につくが、実際は善い鬼もたくさんいるんだよ。心の優しい鬼や人間に福をもたらしてくれる鬼は昔から存在していた。」

 秋田出身のちん吉くんは、前に「三吉鬼」の話をしてくれた。

三吉鬼(さんきちおに)は秋田県に伝わる妖怪で、江戸時代の文学者・只野真葛の「むかしばなし」に記述されています。大酒飲みで、人里に降りてきては呑み屋に現れ酒を飲み、お金も払わず出ていきます。しかし、夜になると呑み代の10倍ほどの値打ちがある薪を置いていくのです。また、1人では動かせない重い荷物を動かす時や大きな仕事がある時は、酒樽を供え三吉鬼に願をかけると、一夜のうちにその仕事が終わっていたこともあるそうです。こんな民の願いを叶えてくれる鬼もいたわけだ。

「秋田には、もうひとつ有名な鬼がいる。それは『なまはげ』だ!」

なまはげ」は秋田県の男鹿半島で毎年行なわれる伝統的な民俗行事です。大晦日の夜、なまはげに扮した集落の青年たちは恐ろしい鬼のお面をかぶり、髪を振り乱しながら「泣く子はいねがー」と叫びながら子どもたちに迫り、地域の家々を巡ります。恐怖に固まり泣き叫ぶ子供も続出する行事ですが、実はこの「なまはげ」は、村内安全に五穀豊穣、大漁満足、悪疫除去を祈る神の使者「神鬼」の化身なのです。なまはげが家々のドアを叩き、わざと大きな音を立てて荒々しく登場するのは悪いものを祓い落とすためで、家中を歩き回って「ケデ」と呼ばれる衣装の藁を落としていくのも、無病息災のご利益がある縁起物だからです。地域の人たちにとっては来訪神として一年の厄を祓い、新年を迎え祝福するありがたい鬼なのです。

 

「他にも、優しい心を持った『田植え鬼』というのもいるよ。」

新潟県の民話で「まんが日本昔ばなし」にもなった「田植え鬼」。ある庄屋が節分の日に豆をまいていると、鬼が現れました。しかし、その鬼は他の家でも豆をぶつけられたのか、あちこちアザだらけで目に涙を浮かべています。不憫に思った庄屋は酒とご馳走で鬼をもてなしました。それからというもの、毎年田植えの時期になると植えた覚えのない苗が田んぼに植えられ大豊作になるという不思議な出来事が起こります。

田植えの正体を突き止めようと、庄屋は夜中に田んぼ近くの木に隠れ、様子を伺います。その正体はなんとあのときの鬼でした。鬼は庄屋に気づくと慌てて逃げ出しそれ以来、やって来ることはありませんでした。心優しい庄屋と義理堅い鬼のなんとも心温まるお話です。

 

そして、「最後にどうしても紹介したい話がある。ぼくが最も好きな童話『泣いた赤鬼』だ。」

泣いた赤鬼』は、浜田廣介作の児童文学である。浜田の代表作で、学校教科書にも採用された。初出は『おにのさうだん』の表題で1933年『カシコイ小学二年生』8月号から連載。初版は1935年7月に刊行された『ひろすけひらかな童話』岡村書店に所収。

 

あらすじはこうだ。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。

そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。

しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。

赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。

一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。

しかし、これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。

そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。

 

だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。

しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。

それは「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙であった。

赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。・・・

 

絵本「泣いた赤鬼」を読んでいるだけで、鬼の心優しさに感動させられます。だからといって単に善い鬼もいるんだよ!という短絡的な結論だけではないような気がします。

鬼には鬼の世界があるように思えます。鬼として生きている世界があるのです。その点は人間とそんなに変わらないのです。

最近の漫画『鬼滅の刃』と『約束のネバーランド』は、両方の主人公ともに、単に鬼退治するだけではなく、鬼には鬼の世界があることに気づきます。鬼にも当然に家族がいて養わなければならないし、共同体があり皆で協力し合って生活していかなければなりません。鬼としては食料として人間を食べる事情も致し方ないわけです。それを理解しないで一方的に鬼退治することに主人公は疑念を抱きます。そして、鬼と人間が共存する道を模索します。このことが物語としての深みを持ちます。ここが非常に重要なポイントです。

たしかに妖怪も鬼も人間にとって異界の存在です。しかし、単に「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯するもの」と考えるべきではないように感じられてなりません。

今われわれはコロナ禍に苦しんでいます。コロナは人間の生命を脅かす恐ろしい存在です。ウイルスは未知の世界であり、まさしく異界の存在です。だから鬼として退治するのか。いや、我々の意識には‘withコロナ’の思想が芽生えてきています。コロナを悪として根絶せしめるだけでなく、コロナと共存して生きていく道を模索しているのです。

 

最後に、ストリップわらしこと、ちん吉くんがぽつりとこう言った。

「人間は鬼を勝手に作っておいて、赤鬼だ青鬼だ黒鬼だなんて区別したがる。それは人間のことを白人だ黒人だと言っているようなもの。それにどんな意味があるというのか。だから、善い鬼か悪い鬼かなんて区分しても意味なんて無いのさ。」

 

                                    おしまい