2021.2

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第66章 赤い鬼と青い鬼 の巻

               

                                   

 ちんぽ三兄弟の鬼談義が終わらない。

「鬼には、赤い鬼や青い鬼など色々な鬼がいるよな。あれは‘赤いきつね’と‘緑のたぬき’みたいに意味があるのかな?」

「鬼の顔や身体の皮膚は赤青緑などさまざまな色をしていて、『赤鬼』『青鬼』などと呼ばれている。節分の豆まきでは色の違う5種類の鬼に豆をぶつけるというの知っていたかな。実はそれぞれの色には意味が込められているんだ。

 さっきも話したが、鬼は仏教に強く影響されている。この色は仏教の5つの煩悩と関係しているんだ。以下に詳しく話すね。」(下記の内容は、ネット記事の「オマツリジャパン編集部」「仏教ウェブ講座」を参照・転記させて頂きました。)

 

 

5種類の鬼は、仏教で言うところの「煩悩」に当てはめられています。煩悩とは、悟りを開く道を妨げる、人の心に住む邪念のようなもので、全部で108種類あると言われています。その中でも特に「瞑想修行を妨げる5つの煩悩」である「五蓋(ごがい)」と言われる「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」「惛沈・睡眠(こんじん・すいめん)」「疑惑(ぎわく)」を5種類が鬼に当てはめられています。

節分の豆まきでは、自分が断ち切りたい欲の色をした鬼に豆をぶつけることで、煩悩に打ち勝てると言われています。鬼の色によって変わる煩悩の種類と詳しい意味は次の通りです。

 

赤鬼>

赤い色の鬼は「貪欲(とんよく)」を意味します。まるで喉が渇いて水を欲しがるように心から何かを望んだり、あるものにとらわれ執着したりすることなどを意味します。

 

<青鬼>

青色の鬼は「瞋恚(しんに)」を意味します。瞋恚とは怒りや恨み、憎しみといった人間の憎悪の感情の事を指します。

 

<黄鬼(白鬼)>

黄色、または白色の鬼は「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」を示します。これは心が昂ぶり落ち着かない様子や、平静な心を失っている状態のことです。それにより冷静な判断が出来ず後悔する事を意味します。

 

<緑鬼>

緑色の鬼は「惛沈・睡眠(こんじん・すいめん)」を意味します。やるべきことをやらずにいたり、ダラダラと眠っていたりという怠けた心を意味します。

 

<黒鬼>

「疑惑(ぎわく)」を意味する黒色の鬼は他人や自分自身、仏教の教えなどを「疑う心」を意味します。

 

 仏教では、生前に貪欲であった者は、死後に餓鬼道に落ち、餓鬼になるとされている(小泉八雲「食人鬼 (小説)」)。やっぱ貪欲な人が多いから、赤鬼がもっともポピュラーな鬼になるのかな。

 

仏教では、六道の中の餓鬼道の衆生も鬼といわれますが、現在のイメージの鬼は、地獄の獄卒です。

地獄の獄卒というのは、六道の中でも最も苦しみの激しい世界である地獄を牢獄にたとえて、罪を犯した囚人を管理する係です。

『往生要集』では、牛頭(ごず)・馬頭(めず)という、牛の頭をした鬼、馬の頭をした鬼や、羅刹という鬼が地獄の獄卒として描かれています。

生きているときに殺生罪を造り、等活地獄に堕ちた囚人を金棒で打ちのめしたり、刀で魚をさばくように切り裂きます。

さらに、偸盗罪も造って黒縄地獄に落ちた罪人に対して、獄卒の鬼は熱い鉄の縄で罪人の身体に線をつけ、それにしたがって、斧やのこぎりで切り刻みます。

それに加えて不倫などの邪淫の罪を造って衆合地獄に落ちた囚人に対しては、両側から迫ってきて押しつぶす苦しい場所へ追い立てたり、火をふく刀で罪人を切り刻みます。

そして、「これは他人の造った悪の報いではなく、まさしく自業自得であるぞ」と叱りつけ、責め立てます。

さらにお酒を飲んで、叫喚地獄に落ちた罪人に対して獄卒の鬼は、火の中に入れたり出したりします。

さらに嘘をついて、大叫喚地獄に落ちた罪人に獄卒の鬼は、「周りの火はお前の言った嘘だ。嘘は火のように人を焼く」と言って舌を抜きます。

このように、地獄で罪人を苦しめるのが仏教に説かれる鬼です。

 

では、このような地獄の鬼たちは、一体何を表しているのでしょうか?

鬼は、地下何万メートルに地獄があって、そこに住んでいる生き物ということではありません。地獄に堕ちるというのは、空間的に落ちるのではなく、苦しい状態におちいる、ということです。受験地獄や借金地獄といえば、自分が生みだした苦しい状態です。

 

赤鬼や青鬼、黒鬼というのは、たとえです。何をたとえられているかというと、青鬼というのは、どこまでも浸していく水の色で限りない欲の心を表しています。赤鬼は、燃え盛る火の色で、カーッと燃え上がる怒りの心を表しています。黒鬼は、腹黒いといわれるように、怨みやねたみの醜い愚痴の心を表しています。

地獄という境涯は、私の欲や怒りや愚痴の心が作り出したもので、それらの心をたとえた鬼たちが、自らを責め立てる、苦しみの世界ということです。

 

さて、鬼はどこに住んでいるの?

仏教は法鏡といわれるように、真実の自己を照らし出す鏡のようなものです。仏教を聞くと、今まで知らなかった自分の姿が知らされてきます。まだ仏教を聞いていないときは、自分の心の中に何か美しいものがあるように思っています。ところが仏教を聞いていきますと、今まで知らなかった、欲や怒りや愚痴の心が知らされて来ます。

そして、私たちの心の奥底はどうなっているかというと、こういう歌があります。

「みな人の 心の底の奥の院 探してみれば 本尊は鬼」

「奥の院」とは、普段人には見せない所です。私たちの心の奥底を、建物の奥の院にたとえられています。「奥の院」といえば、お寺でいえば本堂ですから、安置されているのは本尊です。尊いものが安置されているものと思います。

ところが仏教を聞いて、私たちの心の奥底が知らされてみると、私たちの心の奥底に住んでいるのは、鬼だった、ということです。

 

「おに」というのは、「遠仁」とも書きます。「仁に遠い」ということです。

「仁」とは、人のことで、人としてあるべき慈悲の心です。ところが、その慈悲の心から遠い、無慈悲なものが「遠仁」です。

自分さえよければ他人はどうなってもかまわない我利我利亡者です。

 

つまるところ、仏教を聞いて行くと知らされてくるのは、自分の心の中に住んでいる鬼なのです。

 

                                   おしまい