今日は「未完の完」という話をします。この言葉を聞いたことがない人は、未完(おわらず) と完(おわり) が並んでいて変な言葉と思うでしょうが、しばらくお付き合いください。

 

 

 先日、ある新人さんのステージを拝見した。まだ2週目でステージに慣れていないせいか、動きにゆとりがなく、けっして上手な踊りとはいえない。でも一生懸命に踊っている健気な姿に感動して、かつ彼女の素直そうな雰囲気にすごく惹かれるものがあった。

 ポラのとき、「私はポラ写りが悪くて申し訳ありません。表に貼ってあるポスターの写真もひどいでしょ。本当にごめんなさいね」という感じで、やたら謙遜さが目立つ。だいたいこの業界に入ってくる方は容姿には人並み以上の自信があるはず。だから彼女の態度にはむしろ新鮮な好感を覚えた。

 デビューしたての新人は、周りのベテランのお姐さんを見ては自信をなくすことが多いと思う。いくら容姿に自信があっても周りのお姐さんはすごく綺麗だし、踊りを見てはとても敵わないと感じることだろう。では、だから新人はダメかというと決してそんなことはない。

 新人の魅力というのは「荒削りの魅力」。慣れないステージでドキドキしながら踊っているが、観ている私までもがドキドキしてしまう。一生懸命に頑張っている姿に感動するんだなぁ。喩えが悪いかもしれないが、幼いわが子が幼稚園のお遊戯会で踊っているのを観ている親の気持ちみたいな。幼子は親に観て貰うのが嬉しくてたまらない。踊りが上手かろうが下手だろうが我子が一番と思う親心。そんな感じなんだな。

 だから、新人さんは上手く踊る必要はない。今のままをそのまま見せるだけでいい。それだけでお客は十分満足する。

 

 その新人さんのすぐ後に、5年目のベテランの踊り子さんが登場。こちらは流石に「洗練されたステージ」を魅せてくれた。

「荒削りの魅力」と「洗練された魅力」というが、根本にあるのは「自分の持ち味」をどう表現するかである。後者は、練習量や経験年数に裏打ちされた年季の美しさ、自信、ゆとりある落ち着きが出てくるために、持ち味の演出が巧みに加工されている。一方、新人は洗練できていない分だけ「自分の持ち味」が生のままストレートに出てくる。それが初々しい味となって表現される。つまり、ステージとは持ち味の表現/醸成なのだ。

 

 どんなにベテランの踊り子さんでも、完成度が限りなく高いステージはあったとしても、おそらく完成されたステージというものはない。

 また、そう思ってはいけない。仮にステージが完成したと考えてしまうと、完成したその日から衰退と陳腐化が始まってしまう。

 以前、いつも素敵なステージを見せてくれる若林美保さんに、レパートリーが多く全て完璧な出し物だねと絶賛したところ、「私は満足していないの。まだまだしたい事がたくさんあるので、今はそのしたい事をしてゆきたいと思っています。私はよくばりなので(笑)」という返事が返ってきて凄く感心させられた。彼女のように完成度の高いステージを出している方でも彼女の中では全く完成されていないんだ。次はここを直そう、次はこうしよう、次はこれに挑戦しよう、・・常に前向きにステージに取り組む姿勢こそが彼女の元気の源なんだと感じさせられた。

 

 人間には、不可能という言葉がないように、完成という言葉もない。人間は誰でも、完成を目指そうとはするが完成されることがない。つねに「未完」の状態なのだ。未完であるものは「未だ完(おわ)らず」という言葉通り衰微がない。つねに新しい何かを生み出し続けているクリエイティブな状態なのだ。

 だから、未完であることを恥じることはない。いわんや「踊りが下手だから」「ポラ写りが悪い」など卑下することなどもっての外である。人間は未完成であるが故に、自らと自らの技術をより高い完成度を目指して磨き続けるのである。

それが「未完の完」ということだ。

 

 

平成21年10月                          仙台ロックにて     

 

 

 

PS.チャップリンの名言から

「プロなどこの世には存在しない、皆一生アマで終わるんだ」

チャップリンの映画「ライムライト」、そのラスト近くで老喜劇役者が死ぬ前に言うセリフ。プロ中のプロであるチャップリンの言葉だからこそ重い。