今回は、TSの踊り子・時咲さくらさんの、シアター上野でのH28年9月結の公演模様を「浮世絵的美人画」(その2「お葉」)と題して語ります。

 

 

 さっそく、演目「お葉」について述べたい。

「この作品は2016年6中初出しです!!! 大正時代のモデルさんお葉。画家の竹久夢二と伊藤晴雨、三人の物語です。お葉さんはモテモテな女性です!!」たまたま私が6月中の大阪晃生に遠征したときに初出しだったんだね。晃生で話が弾んだのも当然。「着物の演目観てくれてめっちゃ嬉しいです。」そのせいか、この作品には強い縁を感ずるよ。

 

大正時代の音楽が聞こえる。「待てど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ・・・」これは竹久夢二が作詞した「宵待草」というヒット曲。

おときさんが、渋い紫色の着物姿で登場。着物の色は一見地味に見えるが、花柄の中にキラキラ光るものがあり、帯は赤く華やかで、後ろに金とオレンジで派手やかに結んでいる。このコーディネートはシックでありながらモダンさを感じさせる。これこそが大正時代のおしゃれ感覚だね。

頭には落ち着いた花飾りをし、白足袋でしなりと歩く。

まさに浮世絵的な美人画になっている。おときさんの求める大正ロマンには浮世絵の伝統が色濃く反映されている。

風呂敷に包んだスケッチブックを手に抱えている。「演目のスケッチブックは、伊藤晴雨と竹久夢二って意味なの。踊ってる私はお葉。二人を誘っているの。艶っぽく描いてほしくて踊ります。」

徐々に帯を解いていく。

たまらなく艶っぽい。お葉の複数の男性との恋に乱れ狂う情念の炎が見える。吉田兄弟の三味線の音が妖艶なまでに炎をかき立てる。曲名が「陽炎」というのもいいね。

おときさんはお葉になりきっている。ベッドショーでは頭やら身体が盆からはみ出るほど熱演している(笑)。

最後に荒井由実の名曲「朝陽の中で微笑んで」が流れたときにはぞくぞくっとしたよ。お葉の話を知ってから、この曲を聴くとなんか涙が出てきそうになる。

ほんと選曲が凄くいいね。教えてもらったので列記しておく。曲1.宵待草 2.カリソメ女(椎名林檎) 3.陽炎(吉田兄弟) 4.あの夏へ(ジブリ映画「千と千尋の神隠し」より) 5.朝陽の中で微笑んで(ハイファイセット)

 

どうして、おときさんはお葉を演じようと思ったのだろう。すごく気になった。おときさんに確認したら丁寧に手紙で教えてくれた。

「たまたま・・・大正ロマンについてネットで調べていたら、お葉がヒットして、三人の関係に興味をもち、この演目をつくりました!!!」「私が着ている着物は大正ロマンのもの。大正は15年。この間オシャレに生きている女性を表現したくなって、そうしたらお葉が出てきたのー。お葉ってとっても素敵な女性だったのですね。あとは、艶を演目で出したくて・・今回自分にぴったりはまった感じです。」

 

 私も、すぐにネットで、お葉、伊藤晴雨、竹久夢二と検索。竹久夢二は名前だけ知っていたが、詳しいことは知らなかったので彼らの生き様がかなりショッキングだった。調べたことをご紹介しよう。

 

<お葉の生涯>

 そもそも、「お葉」という名前は竹久夢二が付けたもので、それまでは「お兼」と呼ばれる。

 本名は永井兼代(かねよ)。お兼は、明治37年(1904)3月1日、秋田県に生まれた。えっ!3月1日って、おときさんのデビュー日じゃない!おときさんと縁があるんだね。私とおときさんが出会ったのもデビュー日の3月1日だよ。

 お兼は妾の子だったので秋田に居づらくなって、大正5年12歳のときに母と二人で上京。母は納豆売り、お兼は人形工場で働くも生活が苦しく、たまたまお兼は宮崎モデル紹介所にスカウトされモデルをやるようになる。当時、男性労働者の日給25銭のところ(ちなみに女工は6銭)、ヌードモデルなら倍の50銭が稼げた。東京美術学校では、お兼がモデルをやると教室が満杯になるほどの人気があったという。お兼は秋田美人のルックスに加え、既に13歳で魅力的なヌードをしていたわけだ。ストリップにスカウトしたいくらいだね(笑)。秋田美人といえば、今なら歌手の藤あや子さんや女優の壇蜜さんを思い浮かべればいいんじゃないかな。納得するでしょ!

 お兼は、美術学校のモデルを務める傍ら、この学校の西洋画科教授の藤島武二のモデルとしてアトリエに通うようになる。当時、50歳の藤島教授は13歳のお兼を「モデルを育てる」という意識で自分の娘のように面倒をみたという。だから肉体関係はない。

 ところが、この紹介所を介して「責め絵」を描く伊藤晴雨のモデルになる。「責め絵」ってSMだよー☆ お兼は「瓜実顔で高島田に結わせ、縛って写生するのに絶対にいい容貌と体格をもっていた」と晴雨は書いている。お兼は13~15歳の三年間、晴雨のモデルとして、また愛人として過ごした。

 お兼は若いけど、もう普通の娘じゃなくなってるね。東京美術学校の画学生達と浮き世を流しており、「嘘つきお兼」と呼ばれるほどの魔性の女になっている。この頃のエピソードとして、東京美術学校に土田という彫刻家の教授がいて、お兼は彼のモデルも務めていた。彼は女癖が悪いことで評判になっていて、嫉妬深い妻がいた。お兼が彼のアトリエに入ると、彫刻家の妻が隣室で聞き耳を立てて、少しでも物音がすると形相を変えて飛び込んできた。そんな嫉妬に狂った妻を見て楽しんでいたというから、お兼自身なかなかの玉である。

 この頃、お兼は妊娠したが、誰の子か分からないままに胎児を流産させた。このため、しばらく病気ということでモデルの仕事に行かない日を過ごした。

 大正8年(1919)の春、15歳になったお兼は、ようやくやる気を取り戻して美術学校に通い始めたとき、顔見知りの久本信男に会い、竹久夢二を紹介されたのである。

 

 お兼は、竹久夢二との運命的出会いをする。

 当時、夢二は愛する人・彦乃を失いショックから立ち直れずにいた。このままでは彼の才能が潰れると心配した友人の久本がお兼をモデルとして紹介した。初めてお兼を見た夢二は正気が蘇ったようにポーズをとらせ筆を走らせた。夢二を見つめながら次から次へとポーズを変えるお兼を凝視しながら、これまでの無気力が嘘のように夢二の筆が進んでいった。

 夢二はお兼を「妖精のような可憐さと早くも成熟した女性的な魔力をもった」女性として描き続け、「夢二式美人画」の源泉になっていった。

 お兼は夢二のモデルを務めながら、次第に夢二の部屋に泊まるようになり男女の仲になる。夢二はお兼を「お葉」に改名させる。お葉も素直に受け入れる。最初のうち、夢二はお葉と一緒になるつもりでいたようだ。

 夢二はお葉をモデルにした「黒船屋」というタイトルの最高傑作を描くなど、この頃、絵が売れに売れた。

 お葉は、夢二と結婚して子供を生み、幸せな生活を願ったが、夢二の方は籍を入れようとはせず、子供も欲しくなかったため、二人の間で喧嘩が絶えなかったという。

 夢二は、お葉と彼女の母親の三人で生活を始めた。しかし、彼は次第に居心地の悪さを感じ、しょっちゅう地方にスケッチ旅行に出かけた。

 夢二が留守にしていた間に、お葉は書生と家出をした事件もあった。しかし、すぐにお葉は戻ってきた。「どこに行っていたのか」という夢二の問いに、お葉は「お願い、聞かないで」と言って泣き崩れるばかりであった。このお葉の家出は、相変わらず続いていた夢二の浮気癖に対する不満の現れで、夢二の気を引きたい一心であったと言われる。

 お葉の結婚したい気持ちを察していた夢二だが、一方でお葉の過去をきっぱりと忘れることもできず結婚を躊躇していた。

 そんな中、夢二に新たな女性、山田順子(ゆきこ)が現われる。彼女は女流小説家で、作家・徳田秋声の愛人。夢二が徳田の依頼で本の装丁を頼まれたことで知り合った。順子はお葉より三歳年上で同じ秋田の同郷。

 夢二41歳、お葉21歳、順子24歳。

 夢二と順子はお葉の目を盗んで浮気する。二人で順子の故郷・秋田の本荘などにも旅行している。

 お葉は、順子が同郷であったことは勿論、男の気を引くように唇に鮮やかな赤を塗り、けばけばしい羽織を装い、自分の美貌を誇示するような多弁な話しぶりに嫌気をさしていた。順子との浮気を許すことができず、とうとうお葉は夢二と別れる決心をする。

 こうして大正8年(1919)4月から14年(1925)までの六年余りに及んだ二人の同棲生活にピリオドが打たれた。

 

 その後、夢二の元を去った22歳のお葉は、前にお世話になった藤島武二のモデルになっている。そのときの絵が題名「芳恵(ほうけい)」。そこには収穫の女神を象った横顔女性が描かれているが、豊穣を司るにはあまりにか弱く、暗く塞ぎ込んだ表情で、およそ芳恵をもたらす女神の像としてはふさわしくない。

 お葉はこの絵を見て「自分の全てを描き切られてしまった」と、作品のモデルになることをこの絵を機に辞めた。当時60歳近かった武二は、失恋し疲れ切った生身のお葉を描くことで「見なさい、この疲れ切り、陰にまみれた女こそが今までのお前が歩んできた姿だ。醜悪な偽りに満ちた生活からさっさと足を洗い、恵みに満ちた豊穣のような真の人生を歩みなさい」とお葉にエールを送ったのだろう。武二はお葉の真の父親的な存在だったんだね。

 

 昭和6年(1931)4月、お葉は紹介により医者の有福精一と結婚した。有福はお葉より三歳年上。子供は生まれなかったが、仲の良い夫婦として日々を送り、久しく世間から遠ざかった。

 一方、お葉が結婚した6年の5月に、夢二は新天地を求めてアメリカに渡った後、ドイツ・オーストリア・フランス・スイスなどを訪れ、各地で個展を開いたが、どこも不振であった。8年に落胆して帰国し、今度はすぐ台湾に渡るが、そこで体調を崩して帰国し、結核を患い、9年に49歳11ヶ月の生涯を終えた。

 それから40年という長い歳月が流れた昭和52年に、有福精一と結婚したお葉は、名古屋で開催された「藤島武二回顧展」に夫を伴って久しぶりに人々の前に姿を見せた。お葉は、展示されている「芳恵(ほうけい)」の絵を見ながら、精一に「これが私がモデルになって藤島先生が描いて下さった作品です」と笑みを浮かべながら話していたという。

 それから三年後の昭和55年(1980)にお葉は76歳で亡くなった。静岡県富士市の光照院富士山奏徳寺に夫とともに眠っている。

 

 

 おときさんが話題にしている「お葉をめぐる伊藤晴雨と竹久夢二の愛憎劇」についてはネット検索では目にしなかったが想像に難くない。お葉を若い夢二に奪われた晴雨の気持ちは計り知れない。一方、なかなか結婚しようとしない夢二であったが、お葉は自分になくてはならない存在と強く認識していた。その証拠に、お葉が家出したときに、お葉が晴雨のところに戻ったかと思い、「お葉を返してくれ」と晴雨に懇願したという。

 2002年、竹久夢二生誕120周年作品として松竹映画『およう』が公開されている。監督は関本郁夫。原作は団鬼六の『外道の群れ』。この映画で「お葉をめぐる伊藤晴雨と竹久夢二の愛憎劇」に触れているので是非一度拝見したいところ。竹久夢二役には世界的バレエダンサーとして圧倒的な女性ファンを獲得している熊川哲也、伊藤晴雨役には日本映画を代表する俳優の竹中直人。藤島武二役には名優・里見浩太朗。お葉役にはつかこうへい劇団の秘蔵っ子・渋谷亜希が抜擢。配役も豪華。

 

お葉の人生をまとめながら、まずは彼女の人生が12歳から22歳という10年間、余りにも若い時期に人生のトピックスというべき全てが凝縮されているように感じた。モデルとして希有な資質をもっていたお葉は、稀代の画家である伊藤晴雨や竹久夢二たちとの出会いでその才能を十二分に発揮できたと言える。

若い頃のお葉は、ほんとストリッパーにしたいタイプだね。偉い画家の先生たちをこれだけ夢中にさせる裸体というものを是非に拝んでみたいもの。また、美術学校を満杯にするくらいだから劇場だって満席にするはずだしね。

 ただ、本当のストリップ・ファンだったら、モデルに手を出したりしないなぁ。そういう意味では、伊藤晴雨や竹久夢二はストリップに観劇に来るタイプではない。あっ! 伊藤晴雨はSMショーなんかでアドバイザーになるかもね(笑)

 ストリップの父を自認する私だったら、藤島武二みたいになりたいな。モデルの最後を絵画で悟らせるなんてかっこいいと思う。

 

 お葉は12歳から22歳という10年間を、異なる三人の画家たちのモデルになる。才能ある彼らの創作エネルギーを掻立て、彼らの真骨頂を発現させたお葉は並のモデルではない。しかも三人の画風は全く指向が異なる。伊藤晴雨の責め絵、竹久夢二の抒情的美人画「黒船屋」「黒猫を抱く女」「青いきもの」など、そして藤島武二のイタリアルネサンス的手法による装飾絵画「芳恵」などの中に、お葉はその永遠なるイメージをとどめることになる。

モデルとしてだけでなく私生活でも、伊藤晴雨や竹久夢二という凄い画家に翻弄された波瀾万丈の10代を送ったお葉であったが、実は、心から平穏な生活を望んでいたんだね。結末を見てしまうとホッとするところもある。お葉も、稀代の画家である伊藤晴雨や竹久夢二たちとの出会いでそのモデルとしての才能を十二分に発揮できたからこそ、22歳で燃え尽きた。後半の人生はその結果なんだろうな。

 改めて、モデルのお葉さんと同じく、踊り子さんも皆さん、自分の人生を踏まえて舞台に立っているんだなと感ずる。

 おときさんは、伊藤晴雨や竹久夢二という男たちを夢中にさせた、お葉という女性に憧れている。だからストリッパーとして艶を磨きたいと。その気持ちはよく分かるし大賛成。

おときさんも、踊り子人生を駆け抜けたら、いずれは一人の女性として結婚して田舎の福島あたりで平穏な生活もいいかもよ! と勧めてみるのが藤島武二流かな。(笑)

おときさんは、お葉さんの人生を振り返り、どう感じるかな?

 

 

以上、お葉さんの人生を眺めてみた。今、私の興味は引き続き、竹久夢二や伊藤晴雨の世界に走り出して止まらなくなった。

私が求めるストリップ道に通じるものがありそう。彼らは絵画を通して女性を表現した。私は文章で(レポートや童話・詩)で女性美を表現したい。「ストリップ劇場は浮世絵的な美人画の宝庫である。」その欲求が止まらず、こうしてストリップ劇場に足を運んでいる。

長くなるので、竹久夢二や伊藤晴雨の世界については別のレポートにしたい。

本観劇レポートもかなり長くなったね。おときさんのお陰で、ステージを楽しむだけでなく、新しい知識も増え、こうして深い思索もできて、私としては有意義な時間を過ごせました。心から感謝しています。

 

平成28年9月                         シアター上野にて