今回は、安藤アゲハさんの観劇レポート。
今回、アゲハさんの新作「チャップリン」を拝見して大感激したのでレポートしたくなった。一回目のステージを拝見し、すぐに手書きで感想を書いて彼女に渡した。
ステージ登場時、暗いステージに後ろ向きに立っていたアゲハさんがパッと前を向いた瞬間、私はその姿に目が釘付けになった。
黒いタキシードに、黒い山高帽をかぶり、白粉を塗ったような白い顔、鼻の下にちょび髭。チャップリンだーっ!! そのインパクトが強烈だった。
にこ~っと笑って、軽快なダンスを始める。表情がいいうえに、ダンスそのものが素晴らしい。タップダンスを彷彿する最高のステップ。よほど練習したんだろうと努力の跡が窺えた。
チャップリンといえば、以前見た若林美保さんのステージを思い出した。ステッキをもって演じていた。たしかにチャップリンはよほどの技巧派でないと演じきれないと思う。アゲハさんのチャップリンは美保さんとはまた違った味で素晴らしい。
最初の1曲目のインパクト度だけでも、この作品は成功している。
2曲目は上着を脱いで軽快に踊る。白いワイシャツにサスペンダー付きの黒いズボン。
次のベッドには、白い刺繍に縁取られた黒いシュミーズで入っていく。幻想的なムードが漂う。チャップリンのもつ影の部分を演じている気分になった。感動的なエンディング。まるでチャップリン映画の定番である「背中を向けて一人寂しく去っていくラストシーン」を彷彿させられた。
拍手喝采!!
応援している踊り子さんがこれだけの作品を出してくると本当に応援し甲斐がある。デビューから1年半とまだ芸暦は長くないが、これまでのアゲハさんの努力がすべて凝縮された結晶である。贔屓目に見ても今回の作品は、これまで観たストリップのステージとして最高ランクの作品に仕上がっていると評価したい。
以上の私の感想に対して、アゲハさんが喜んでくれた。
「感想ありがとう!! すごく嬉しいよ。チャップリンね、ぼくもすごく気に入っている作品なの。おもちゃみたいな動きをしたくて、チャップリンのDVD見たよー!! アレ、すごいよね。古いモノなのにめっちゃウケてしまったよ!! で、どうしても入り込んでしまい、女の子ということを忘れるw ストリップとしてどうなの?って思ってたけど、感想聞いてホッとしています。」
チャップリンの魅力にはまった様子がよく窺われる。おもちゃみたいな動きというのはパントマイム芸だね。チャップリンのDVDを何回も何回も繰り返し見たんだろうな。そのぐらいしなければ今回の作品はできない。
ストリップとしてどうかという疑問ですが、ストリップも立派な芸道だから出し物に垣根はありません。芸として素晴らしいものはストリップにも通じます。これは間違いありません。だからこそ、ストリップも奥が深いのです。
ちなみに、もうひとつ蛇足的ではあるが‘色彩’の感想を付け加えた。
この作品は白と黒のモノトーンのイメージがよく似合っている。最初のタキシードとベッドのシュミーズ。ちなみに前の劇場にリニューアルのベッド着を忘れてきたらしく3回目のステージにようやく届いて着ていた。これも黒系。ということで今回の作品は白黒が基調色になっている。
いうまでもなく、チャップリンが出演した作品はモノクロのサイレント映画がほとんど。(カラーは晩年の最後の作品『伯爵夫人』のみ。)
些細なことではあるが、アゲハさんの作品には白と黒以外の色が一部使われている。最初のタキシードで赤い蝶ネクタイ。これはワンポイント。蝶はアゲハに通じる。ここまではなるほどと思ったが、黒い背広の後ろに花がぶら下がっている。これは一体どういう意味か分からなかった。意味がなければ外した方がよくないかなと思ったほど。
これに対してアゲハさんからのコメントがあった。「お花はね、コミカル、そして明るい気持ちになるステージ!ってことで、モーニング風にぼくがコサージュから作ったんだよ。たいがいの劇場のバックが黒だから・・というのもありまして。」 なるほど、アゲハ風アレンジの想いが伝わってきた。
チャップリンは偉大な人物。前にTV『知ってるつもり』で彼の人物伝を見たことがあるが、単に素晴らしい役者というだけではなく、人間として素晴らしい人物と評価されている。チャップリンは「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」と言う。ひとつひとつの出来事は辛く悲しいことが多いが、死ぬときに人生とは素晴らしいものだったと言えたらいいなぁと思う。
こうした彼の人生観を理解し、いかにこの作品に反映できるかが演技者の課題かなと感じた。このことは感想には書かず、単に「私自身、チャップリンのことを少し勉強してみる気になったよ。」と書くに留めた。アゲハさんから「太郎さんに負けないようにぼくもチャップリン勉強しなきゃっっ!!」という言葉に、私の言外の想いを感じ取った彼女の勘の良さに感心させられた。
「本当にありがとう!これからもいい作品をつくるよ!!」
私の感想が踊り子さんの創作意欲を掻き立てる効果があったら私としても最高の喜びだ。
平成21年7月 浜劇にて
【参考】チャップリンについて、インターネットで調べてみた。
以下、一部紹介する。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「チャップリン」(1889年~1977年)
「喜劇王」の異名を持つイギリスの映画俳優&映画監督。
多くの素晴らしいサイレント映画を生み出し、作品のどれもが今なお、高い人気を誇っている映画界のスーパースター。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品にふれることは容易である。また、バスター・キートンとハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。独裁者アドルフ・ヒトラーを皮肉った映画『独裁者』で有名だが、そのモデルとなったヒトラーと誕生年月が同じ1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。
●幼少期
イギリス・ロンドン出身。チャップリンの幼少期は過酷なもので、両親はミュージック・ホールの芸人だったが、1歳のときに離婚。その11年後、父チャールズ・チャップリンはアルコール中毒によって死去し、母ハンナ・ヒルも精神病にかかったため、孤児院で暮らす日々が続いた。彼自身も幼いころからミュージック・ホールでパントマイム劇などを演じて、一家の家計を支える。10歳の時には、プロのダンス集団の一座に入り腕を磨いていったそうだ。
●役柄
チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたちのちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。この独特の扮装と役柄は、1914年の2作目『ヴェニスの子供自動車競走』で初めて登場している(チャップリン本人も最初受けるとは思わなかったという)。以後、このTrampは滑稽味の中にもペーソスをたたえたキャラクターに進化し、ハートフルな要素も加味されて、弱者・貧者(プロレタリア)の立場から、資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至る。
●作風
初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも、心優しさよりはコミカルさと非道さを売りにしていた。一介の貧困階層の市民として当時の世相や政府を風刺したものが多く、笑いの中に思想的でアナーキーなものを追求する作風が多い(女性の尻を追い、それを取り巻く連中と争い、偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターン)。1917年の『勇敢』『移民』あたりから、底辺に生きる人々への憐憫の情が表れはじめ、1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさをユーモアをもって描き、初の長編になる『キッド(1921)』、アラスカを舞台にした『黄金狂時代(1925)』でその芸術も至高の極みへと達した。また背中を向けて一人寂しく去っていくラストシーンは、初期の『失恋(1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出された言われる。以後、美しいものへの憧憬と放浪者のまなざしが社会の歪みへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。献身的で一途な愛を描いた『街の灯(1931)』『ライムライト(1952)』、大不況下にあえぐ労働者の実態を通し、幸福の在り処を問う『モダン・タイムス(1936)』、反戦メッセージを含む異色のブラックコメディ『殺人狂時代(1947)』、革命により国を追われた『ニューヨークの王様(1957)』など。
●ペーソス
チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が若いときに見たシーンがある。屠殺場へ送られる羊が逃げ出したのを見た、という話である。もちろん周囲の人間はこれを追っかけるのであるが、羊も必死で逃げるから、人間も羊もあちこちぶつかったり、ひっくり返ったりしていた。それを周囲の人間は腹を抱えて笑った中、彼は「あの羊は泣いているんだ…」と感じたという。
また“永遠の放浪者”のモデルとされる男は、いつも足を引きずりながら荷車を押していた。チャップリンの母親は、通りを行く人々の人生をパントマイムで示し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたのである。
映画の中では、笑いの起爆剤として使われるこのドタ靴には悲しい思い出がある。年の暮れに食べるものもない。慈善鍋のスープをスラム地区の人たちに無償で施すため、教会の人が鐘を鳴らしてやってきた。病気の母に「チャーリー、早く鍋を持って取りに行って」と促され、靴はなく雪の中を裸足で行くしかない。「そこにある私の靴をはいて」と母が言う。大きなボロ靴をはいて、小さな足を引きずってスープを貰いに駆け出した。
これら幼少期のエピソードは、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影される。劇団の巡業で渡米する際も、母親の入国許可は下りなかった。ハリウッドで成功してから母ハンナをイギリスから呼び寄せ、海岸の一軒家に面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦をつけて住まわせた。しかし最後まで息子の成功を理解できぬまま、1929年に亡くなった。病床を訪れたチャップリンは、もう彼女は生活の気苦労は何もなかったはずなのに、何か心配事が起こるのではないかと不安な表情を浮かべていた、と後年回想している。