楠かほさん(道劇所属)について、2020年3月頭の渋谷道頓堀劇場での公演模様を、新作を題材にして、「時をかけるおじさん(笑)」という題名で語りたい。
今週も一個出し。というか、三週連続での新作発表に度肝を抜かれた。昨年12月頭の演目「ラブソティー」、今年1月頭の2周年作「東京ガール」、そして今回の新作。以前の新作発表ペースに比べるとすごく意欲的だ。まるで踊り子魂が爆発した感じだね。それだけ今の自分を表現したいという強い現れだ。
前作の「東京ガール」では男性曲を使ったりして従来の自分の殻を打ち破ろうとしたチャレンジ作だったが、今回は女性曲だけの従来の優しい繊細な路線に戻った。では、いつもの手嶌葵さんが登場するのかと聴いていたら、全く聞き覚えの無い歌声が続いた。はて、誰かな? すぐにかほさんから曲名を教えてもらった。なんと原田知世さんだった。
一曲目はマライア・キャリーの代表曲「Hero」なのだが、その後の三曲は原田知世の曲が並ぶ。まさしく今回のHero役は原田知世さんなのだ。
かほさんのコメント「原田知世さんにハマってます。声がきれい♡」を見て、ハッと思った。かほさんが原田知世さんに見えてきた。原田知世さんの透明感のあるイメージはかほさんそのものだと。
ということで、今回の観劇レポートは原田知世さんを中心にして語ることになる。(笑)
なにはともあれ、最初に楠かほさんの新作ステージ模様から紹介します。
いつものように清楚な出で立ちで現れる。花の刺繍入りの白いドレスだ。白い首輪。胸元と長袖は透け透けの薄い生地になっている。袖口は開き気味で、白い手袋をしている。頭には白二つ・ピンク一つの花飾りを右側に添える。銀のハイヒールを履いて、音楽に合わせて軽やかに踊る。
一曲目は、マライア・キャリーの代表曲「Hero」(ボサノヴァバージョン)。1993年の作品。聞き覚えのあるメロディで一気にかほさんの世界に入っていく。歌詞の意味は「あなたは私のヒーロー。ヒーローはみんなの心のなかに生きている。諦めなければ誰もがヒーローになれるの。」という内容。
音楽が終わり、一旦暗転し、着替える。
今度は、白いワンピースの軽装。頭は同じ。肩出しで、衣装を吊るした肩紐を首の後ろで結ぶ。白い衣装は金の刺繍入りで豪華。スカートはミニでふわふわして四層になっている。
音楽に合わせて裸足で踊る。バレエのポーズを綺麗に決める。驚く私に「バレエは好きで少し習っていたコトがあります。」とのコメント。今更ながら、かほさんが踊り子を続けている理由が分かった気がした。
二曲目は、原田知世の「空と糸-talking on air-」。作詞:LINDA HENNRIC 作曲:鈴木慶一。NTTドコモ「ケータイ家族」CM曲。
歌い出し♪「 Out across a deep blue sky Five white birds go flying by Wing to wing, so high and free Together like a fa...」を聴いて私はてっきり洋楽だと思ってしまった次第。ここから原田知世さんの曲が最後まで続く。
音楽が終わり、また暗くなり、着替える。赤くライトアップされる。
白いブラに白いミニスカートの軽装。白く長い蔓状のポイを巻く。音楽に合わせ踊る。
三曲目も、原田知世の「 Marmalade」 (マーマレード)。作詞: 原田知世・天辰京子、作曲: ヴァルゲイル・シグルドソン。
歌い出し♪「When night is gone, when light still shines.」これまた英語の歌詞。
そのまま盆に移動。白いブラを取り、白いミニスカートを脱ぐ。下には白いガーターとピンクのパンティ。パンティを脱いで右太ももに巻く。
ラスト曲も、原田知世の「銀河絵日記」。作詞:高橋久美子 作曲:伊藤ゴロー。元チャットモンチーの高橋久美子氏が手掛けた宮沢賢治「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたファンタジックな世界観の歌詞と、アルバムのプロデュースも務めた伊藤ゴロー氏によるシンプルかつ美しいメロディラインが融合したナンバー。中でも、「辿り着くだけが旅じゃない」や「消えてゆくから愛を知る」といった人生の哲学すら感じさせる味わい深い歌詞が惹きつける。
敬愛している宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がモチーフと知り、私はこの歌を聴きこんだ。たまらなくキレイな歌詞だ・・・童話「銀河鉄道の夜」は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
「ジョバンニ 夜汽車にゆられて ライン川を眺めてる 君とまた旅をしてみたい 帰りの予定も決めずに
草原に寝転がって見た星空 宇宙が掴めそうだったね 自分を抜け出して初めて 自分があることを知ったの
エメラルドの夜の中 言葉はいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 消えてゆくから美しい
ジョバンニ 名前のない星に 私の名前つけたよね 好きな子の話だけしてたいね 叶うかどうかは別として
銀河みたいだよ 都会のネオンだってさ 一つ一つが奇跡の灯火 自分であることを迷わないで 遠く離れてても一緒さ
半熟の朝の中 思いはいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 辿り着くだけが旅じゃない
ときどき うしろ振り返って 君がくれた花を愛でる 冬休み手をつないで歩いた どこまでも続く銀河
エメラルドの夜の中 言葉はいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 消えてゆくから愛を知る
真っ白の日記帳に 私の銀河描きましょう ひとつ ふたつ みっつ よつ 辿り着くだけが旅じゃない」
原田知世自身も、「50代になって初めての作品で、早くも代表曲ができた」と太鼓判を押している「銀河絵日記」。ミュージックビデオは、初のアニメーションとのコラボレーションで、イラストレーター前田ひさえ氏の作品と実写の原田が共存したものになっている。
ふと、私も毎日ストリップ通いして「ストリップ絵日記」を作っているのだと気づく。童話を書いて、踊り子さんにイラストを描いてもらう。私と踊り子さんの共同コラボこそが「ストリップ絵日記」なのだと。50代の原田知世さんに負けずに私は60代で「ストリップ絵日記」を作っていることが誇らしくなる。
音楽を聴きこんでいくうちに、どんどん「原田知世」という人に引き込まれていく…きれいでとっても素敵な歌声だ!
これまでもヒット曲「時をかける少女」などを聴いて、か細い彼女の歌はプロではないと感じていた。あくまで女優の傍らとしてやっているのだと思っていたからだ。ところが、かほさんのステージを機に、私の原田知世観は一変した。間違いなく、原田知世は女優であり歌手でもある。彼女のことをもっともっと知りたくなる。
振り返れば、もう四十年前になる、私の大学時代。松田聖子や中森明菜がアイドル歌手として全盛を極める中、突如カドカワ映画から若き薬師丸ひろ子と原田知世がツートップとして頭角を現し、また二人の歌が松田聖子や中森明菜たちに負けじと人気を博した。
原田知世さんと言えば、スクリーンデビュー作の『時をかける少女』(1983年)を思い出す。彼女は、「角川三人娘(薬師丸ひろ子・渡辺典子・原田知世)」の末っ娘としてアイドル的な人気を得る。当時、私の大学時代の学友も、薬師丸ひろ子派と原田知世派で人気を二分していた。かくいう私は映画「野生の証明」(1978年公開)を観た影響で、どちらかといえば薬師丸ひろ子派になっていた。で正直ながら、原田知世の映画『時をかける少女』は観ていなかった。
ちなみに、筒井康隆原作のヤングアダルト向けSF小説『時をかける少女』(1967年3月鶴書房盛光社刊行)といえば、1983年公開の原田知世主演、大林宣彦監督による実写映画『時をかける少女』、2006年公開の細田守監督によるアニメ映画が有名だが、私にとっては1972年のテレビドラマ『タイムトラベラー』が強烈な印象を残した。本作品はNHK「少年ドラマシリーズ」の第1作で、1972年1月1日から1972年2月5日まで放映された。当時小学校六年だった私はリアルタイムで観て強烈に感動した。一番印象に残ったキーワードは「ラベンダーの香り」だった。
とにかく、原田知世さんのプロフィールを見てみよう。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)
原田 知世(はらだ ともよ、1967年11月28日 – 現在52歳)は、日本の女優、歌手。長崎県長崎市出身。ショーン・ハラダ所属。原田貴和子は実姉。バンド・pupaではボーカルを担当。
<経歴>
出身地の長崎にて、2歳の頃より姉の貴和子とともに鳳洋子に師事してバレエを習う。
⇒おやっ! かほさんと同じだね!!!!
1982年、中学3年生の時に映画『伊賀忍法帖』のヒロインを一般公募する「角川映画大型新人女優募集」に応募。映画『魔界転生』を観て真田広之のファンになり、『伊賀忍法帖』の主人公を演じる真田に会えるかもしれないという動機からだった。当時14歳で、応募資格の「15歳以上」を満たしていなかったが、九州地区予選でプロデューサーの角川春樹の目に留まり、応募総数57,480人の中から本戦進出18名に選ばれる。4月の最終審査で特別賞を受賞し(グランプリは渡辺典子)、角川春樹事務所の専属女優となる。
14歳で芸能界入りしてからはデビュー直後からテレビドラマや映画でヒロインを演じ、スクリーンデビュー作の『時をかける少女』(1983年)では日本アカデミー賞ほか各映画賞の新人賞を受賞。薬師丸ひろ子に次ぐ大型新人として話題になり、「角川三人娘(薬師丸ひろ子・渡辺典子・原田知世)」の末っ娘としてアイドル的な人気を得る。高校進学後も学業の傍ら主演映画を撮影し、『愛情物語』(1984年)『天国にいちばん近い島』(1984年)、『早春物語』(1985年)を公開。歌手としても松任谷由実が提供した『時をかける少女』などの映画主題歌を歌い、「ザ・ベストテン」や「NHK紅白歌合戦」などの歌番組に出演する。
1986年に角川春樹事務所から独立。同じく角川春樹事務所に所属していた二歳上の実姉・原田貴和子と一緒にショーン・ハラダを設立し移籍する。その後、ホイチョイ・プロダクション原作の『私をスキーに連れてって』(1987年)、『彼女が水着にきがえたら』(1989年)でトレンディ映画のヒロインを演じた。また、後藤次利のプロデュースでオリジナル曲をリリースする。
1990年代以降は本格的に歌手活動に取り組み、鈴木慶一やゴンチチ、羽毛田丈史、伊藤ゴローらとのコラボレーションによる数々のアルバムを制作。スウェディッシュ・ポップブームの立役者トーレ・ヨハンソンをプロデューサーに迎えたアルバム『I could be free』(1997年)で新たなファンを獲得し、オール・スウェディシュ・メンバーとの国内ツアーなどを行った。2007年には高橋幸宏らとバンド「pupa」を結成。オリコンチャートによると、原田のシングルの累計売上は2010年までに194万枚、アルバムは2005年までに81万枚を記録している。
女優業では透明感のある清廉なイメージを保ちつつ、NHK連続テレビ小説『おひさま』(2011年)、『半分、青い。』(2018年)などで母親役を演じている。ドラマ『紙の月』(2014年)、『運命に、似た恋』(2016年)では若い恋人との出逢いに揺れる中年女性を演じた。
私生活では、2005年5月にイラストレーターのエドツワキと結婚したが、2013年12月に離婚した。
原田知世さんのことをネットで検索し、歌を片っ端から聴いてみた。やはり聴き慣れているせいもあり映画の主題歌「時をかける少女」が一番いいなと思えた。今聴いても全然古くない。改めてユーミンの凄さを思い知った気分。
私には、原田知世といえば清純派女優であり、歌手としてのイメージはあまりない。正直、歌がうまいとは思っていなかった。ヒット曲「時をかける少女」は映画の主題歌なので、たまたま主演の原田知世が歌ったのだろうくらいに思っていた。しかし、かほさんが言うように「原田知世さんの声は優しくて癒される」。これはかほさんが好きな手嶌葵さんに通じる。原田知世さんが歌手としても一級品であることを初めて認識させられた。
歌声も若いが、その外見は昔と全く変わらないほどに若い。10代の頃からアイドルとして活躍し、どの時代も安定した人気を維持してきた原田知世。52歳になった現在もCMや雑誌に引っ張りだこで、好感度の高さには定評がある。たしかに52歳でこんなにかわいい女性を見たことがない。こんな老け方をするなんて女性の理想だよね。そして、このことは、かほさんにそのまま通じる気がしてきた。
今週初日にこの新作を観て、原田知世の歌を聴いたのを機に、原田知世主演の映画『時をかける少女』を無性に観てみたくなった。私は自分の青春時代に、とても大切な忘れ物をしている気分になったのだ。
すぐに近くのTSUTAYAに走った。絶対に在庫があるだろうと思った。TSUTAYAの中に入って検索機で場所を確認し棚の前に立った。一本だけだが、あったあった・・と思い気や、えっ!? レンタル中!!!! いったい誰が今更こんな映画を観るのだろうか!? 不思議な気持ちになった。
ともあれ、二日後にもう一度TSUTAYAに行ったら返却されていた。ほっ、よかったー今週中にかほさんにレポートできるよんー
すぐに映画を観る。原田知世のかわいさに浸っていたら、あっという間の104分だった。
またDVDに添付されていた大林亘彦監督のインタビューが印象的だった。これを見たら、大林監督は間違いなく原田知世に惚れていたのが分かる。
ネット検索すると、この映画の後日談(エピソード)がたくさん載っていた。先ほどの大林監督のインタビューを裏付ける話だった。ひとつ紹介したい。
この映画の制作者である角川春樹は「本当は自分が結婚したいくらいだけど、年齢の差で無理だから、息子の嫁にしたい」というほど原田に惚れ込んでおり、「彼女に1本だけ映画をプレゼントして引退させようと思う」と大林監督は伝えられたという。本作の制作費1億5千万円は角川春樹のポケットマネーだった。角川と大林は本作1本を原田にプレゼントして映画界から辞めさせようと本気で考えていたようだ。これほどに、大のおじさん二人が完全に原田知世に惚れ込んでいたわけだ。
たしかに原田知世のような純真な少女はいない。とくに都会にはね。だから映画のロケ地を広島県尾道市にしたらしい。
では彼女の若さが魅力なのだろうか。そうではない。
原田知世さんは現在52歳になる。今でも少女のようにかわいい。原田知世出演のCMを見たことがあるだろうか。味の素AGFのコーヒー『ブレンディ』のCMに1995年から起用されており、原田知世さんがブレンディのコーヒーを飲んでくつろぐ姿がすごく人気。原田知世さんのやわらかな表情に、私の心はキュンとなる。
週刊女性PRIMEが実施したランキング企画「美熟女グランプリ」では、原田知世が天海祐希に次ぐ二位にランクイン。
思えば、昔憧れていたアイドルを久しぶりにTVなどで拝見し、その変わりように唖然として「俺の青春を返せ!」と叫びたくなることは多々ある。ほとんどのアイドルは今までのイメージを壊して新しい自分に挑戦し、だいたい失敗する。かくいう薬師丸ひろ子も最近の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で母親役を演じ、あえて日本の「おふくろさん」となった。原田知世が永遠の少女であるのと実に対照的だ。原田知世は自分のイメージに合わない役柄はきっぱり断るらしい。
彼女のイメージとは、かわいさ、透明感、清潔感、清純さ。「時を経ても褪せないかわいさ」こそ、原田知世の最大の魅力なのである。まさしく原田知世は永遠の少女なのである。「リアル時をかける少女」「“時かけ”エイジレス」などと称されている。うまい表現である。
一体、この魅力はどこから出てくるのだろうか。(50歳になる直前のインタビューから)彼女のコメントを拾ってみる。
「年を重ねることは悪いことではなく、その年齢にしかない自分らしさがあるので、いつも今がいちばん幸せだと思っています。」
「14歳でとても幸せなデビューをして、気がついたら、たくさんの作品に出演させていただいてきました。
忙しさに追われるなか、20代から自分探しを始め、25歳からは大好きな音楽を本格的に始めました。そうして女優とは違う自分を見つめ直すことができ、等身大になれるようになり、それが実ってきたのが30代だと思います。ファンの方は私を丸ごと応援してくださる方ばかりだったのですが、女優の部分ではなく、音楽だけを聴いてくださる方も増えました。年下の方と交流する機会が増えたのも、このころからです。
40代は、実りの時期ですね。芝居と音楽の両方がうまくかみ合うようになって、心地よく走れるようになった感じがします。もうすぐ40代も終わりますが、充実していたな、と感じています。」
彼女がドラマの収録に向かう姿勢を示した言葉がある。撮影期間中はどのシーンも演じる喜びを感じながら、日々を過ごしたという。
「ワンシーン、ワンカットでも逃したくないと思っていたんです。台本は何回も読み、セリフを録音して何度も聴きました。物語の流れを自分なりに箇条書きにして、主人公の感情を考えたりする作業も細かくやりました。
そして、臆することなく、今ある自分を全部出しきりたいと、夢中で演じました。」
また、原田知世さんについて、産経新聞(2018年12月7日付)では、次のように書かれている。・・・
時をかける少女は、今「時」や「時の流れ」を強く意識している。35周年という区切りを迎えたことに加え、「半分、青い」で61歳で病没する和子を演じ、「61歳って、あと10年しかない。時間には限りがあるのだ」との思いを強めたからだ。去年50歳になったのも理由の一つだ。
「これから先、どう生きるのか」と自問した。「一瞬一瞬を楽しみながら暮らそう」と決めた。・・・
「一瞬一瞬を楽しみながら」時を過ごす。簡単そうに思えて、実は難しい生きかた。そんな素敵な考えがあるからこそ、原田知世さんはいつまでも美しく、可愛らしいままなのですね。
そして、インタビューでこうも言っている。
「今の私があるのは両親や家族の愛、そして人との出会いのおかげだと思います。人生を振り返っても、絶妙のタイミングで、とても素敵な出会いがありました。魅力的な人や作品との素敵な出会いで、次の道を開いていただいたからこそ、ここまでこられたんだと実感しています」
最後は感謝の気持ちですね。やはり内面の気持ちが優しくて澄んでいるからこそ、この若々しい透明感が我々の心を掴んでくるのだと思う。こんな素敵な女性がいるんですね。私はしみじみ原田知世と同じ時代を生きてこれて幸せだと思える。
以上、駆け足で原田知世さんのことを述べた。彼女のことを調べながら、自分と重ねながら、かほさんのことを想いながら、さまざまに思うことが出てきて、到底ここでは書ききれない。追って、童話(自叙伝?)「時をかけるおじさん」を執筆したくなったよ。本当に書くよー楽しみにしててー(笑)
いまさらであるが、私は「あなたは薬師丸ひろ子派ですか、それとも原田知世派ですか」という質問には迷わずに「原田知世派です」と即答する。いや、楠かほ派というのが正解かな(笑)
最後に、本作のタイトルについて。
「タイトル名・・・実はまだ決まっておりません。募集!」
今回の作品は原田知世なくして語れない。そして、原田知世と言えば、やはりデビュー作(出世作)の「時をかける少女」。そして「時をかける少女」の中で、私が一番印象的なのは「ラベンダーの香り」と先に話しましたね。タイトル候補として「ラベンダー」をあげたい。
2020年3月 渋谷道劇にて
ストリップ小説『夢列車に乗って 〔副題〕時をかけるおじさん』
~楠かほさんの新作を記念して~
1. ある踊り子との出会い
私はストリップ通いを趣味とするしがない初老のおじさん。ストリップ通いを呆れられ家族にも逃げられる始末。もう60歳を越えたので仕事もしていない。自由気ままではあるが女に不自由しているので毎日ストリップ通いをしているというありさまだ。
ある日、かわいい踊り子に出会う。若い感じはしない。年齢不詳。若くはなくても若々しくてかわいいのである。
この顔、前にどこかで見たことがありそうだが思い出せない。それにしても品のある優しい笑顔だ。
音楽に合わせて、ゆっくり優雅に踊る。最初、英語の歌詞なのでてっきり洋楽だと思っていたら、日本人の歌手だと分かった。同じ声が続き、三曲目が日本語の歌詞だったので日本人だと気づいたわけ。
あっ! そう、この声は原田知世だ。ずいぶん昔、ユーミンが提供した「時をかける少女」を歌ってた原田知世の声だ。
あっ! そういえば顔も原田知世だ。
私の知っている原田知世は1983年公開映画「時をかける少女」のスクリーンの顔。今は2020年だから、あれから37年が経過している。当時15歳だった原田知世ももう52歳になっているはず。目の前の踊り子が原田知世としても、これだけ若いはずがないな。
しかし、当時の面影が残っている。というより、この少女のような透明感は当時のまま。
「彼女は本当に原田知世なのか!?」 私は気が動転し、頭が混乱した。
2. 学生時代にタイムスリップ
私は大切なことを学生時代に忘れてきたような気がした。それは何か?
ふと目が覚めたら、そこは学生時代の友人のアパートだった。カレンターの日付は1983年とある。22歳の自分がそこにいた。
私は今、友人のアパートに遊びに来ていた。部屋の壁には原田知世の等身大のポスターが貼られている。彼は原田知世の大ファンだった。
「原田知世、本当にかわいいよなぁ~。スクリーンデビューの『時をかける少女』(当時原田知世は高校1年の15歳。) 最高だったよー!」と友人がしみじみ言う。横にいる私に同意を求める目つき。
彼は本日封切りの映画を一人で観てきたばかり。たしか私は映画に誘われたが用事があるからと断っていた。
当時、私は同じ角川事務所専属の薬師丸ひろ子のファンだった。5年前に封切りされた「野生の証明」(当時薬師丸ひろ子は中学1年生で13歳)以来、角川女優としては薬師丸ひろ子を押していた。薬師丸ひろ子は原田知世の三歳年上になる。そういう立場上、新人の原田知世に傾くわけにはいかなかった。
そのため、私はあれだけ有名な映画「時をかける少女」を未だに観ていなかった。
3. 映画「時をかける少女」という忘れ物
私の意識は劇場に戻っていた。いま目の前にいるのは、原田知世か。
ちょうど彼女のステージが終わったところだ。
彼女と出会った衝撃は大きかった。60歳にもなっているのに一目で恋に落ちた気分。忘れかけた青春の何かを思い出したようでもあり、同時に青春の何かを忘れている気持ちに駆られた。
「あっ! そうだ! 映画『時をかける少女』を観ないといけない!」
私はすぐに近くのTSUTAYAに走った。絶対に在庫があるだろうと思った。TSUTAYAの中に入って検索機で場所を確認し棚の前に立った。一本だけだが、あったあった・・と思い気や、えっ!? レンタル中!!!! いったい誰が今更こんな映画を観るのだろうか!? 一瞬、不思議な気持ちになった。
二日後にもう一度TSUTAYAに行ったら返却されていた。ほっ、よかったー
すぐにDVDを借りて映画を観る。往年の原田知世のかわいさに浸っていたら、あっという間の104分だった。
観終わって、ため息をつく。俺はなんで学生時代に原田知世ファンにならなかったんだろうと今更ながら後悔の念が襲ってきた。
またDVDに付録として添付されていた大林亘彦監督のインタビューが印象的だった。これを見たら、大林監督は間違いなく原田知世に惚れていたのが分かる。
この映画の後日談(エピソード)がある。
この映画の制作者である角川春樹は「本当は自分が結婚したいくらいだけど、年齢の差で無理だから、息子の嫁にしたい」というほど原田に惚れ込んでおり、「彼女に1本だけ映画をプレゼントして引退させようと思う」と大林監督に伝えたという。本作の制作費1億5千万円は角川春樹のポケットマネーだった。角川と大林は本作1本を原田にプレゼントして映画界から辞めさせようと本気で考えていたようだ。これほどに、大のおじさん二人が完全に原田知世に惚れ込んでいたわけだ。この映画公開のとき、角川春樹41歳、大林亘彦45歳。まだ若いじゃん。DVDの大林監督は髭面なので一見老けてみえるが、今60歳の私よりずっと年齢が若いのに驚く。私でさえ15歳の原田知世に一目ぼれするのだから、この二人が惚れ込むのは当然だと理解できる。
たしかに15歳当時の原田知世のような純真な少女はいないよな。とくに都会にはね。だから映画のロケ地をあえて広島県尾道市にしたらしい。
4. 歌手としての原田知世
ともかく、私はまた彼女に会いたくて劇場に行った。
ステージ上の彼女は、原田知世である自分の歌をバックにして、踊っている。
プロフィールにあったように、バレエ経験があるため、身体の切れはシャープだ。
そもそも原田知世と言えば、女優だ。たしかに映画の主題歌を歌って、ヒットした曲はある。しかし、か細い声で、とてもプロの歌手には叶わない。だから、私はプロフィールの後半にあった歌手としての原田知世の実績は知らなかったので驚いた。
ある時期から、彼女は女優を辞めて歌手になっていた。
その転機は映画「早春物語」であった。ここで監督・澤井信一郎の厳しい演技指導を受けた彼女は、薬師丸がそれで女優として更に飛躍したのと対照的に、女優としての壁にぶつかってしまった。演出が求める役割ができない自分、その要求を拒否したくて仕方ない自分。「―――こんななら、女優なんてやりたくない」その思いが結果、歌手業へと彼女を傾倒させることになる。
原田知世はもともと歌が大好きだった。たしかに映画のお陰で、彼女が歌う主題歌はそれなりにヒットした。しかし、か細い声だったので、プロの歌手としては今ひとつだった。
しかし、彼女の人を惹きつける魅力が優れたミュージシャンの心を動かしていった。プロフィールにもあったように、鈴木慶一やゴンチチ、羽毛田丈史、伊藤ゴローら優れたミュージシャンとのコラボレーションによる数々のアルバムを制作した。YMOの高橋幸宏らとバンド「pupa」を結成して彼女はボーカルを務めた。
彼女はこう言っている。「忙しさに追われるなか、20代から自分探しを始め、25歳からは大好きな音楽を本格的に始めました。そうして女優とは違う自分を見つめ直すことができ、等身大になれるようになり、それが実ってきたのが30代だと思います。」
その後、プライベートでは37歳で結婚し、8年後、離婚したとは聞いていた。子供はいない。しかし、それからの消息はプツッとなくなった。
なぜ、今、原田知世はストリップ劇場にいるのだろうか。往年の大女優が落ちぶれてストリッパーになったというのか。それとも女優、歌手と続き、さらなる表現者としてストリップに挑戦しているのか。
いや、待てよ、そもそも本当に目の前の彼女は原田知世なのだろうか。
5. サラリーマン生活にタイムスリップ
そんなことを考えていたら、私は35歳の自分にタイムスリップした。
私は小さい頃から勉強はできた。というより、生後すぐに小児麻痺にかかり、左側の手足の機能に障害が残った。身体が不自由なため、他の子供たちと同じく遊びまわることができず、その分、読書をしたり勉強する子供だった。
お陰で、中学・高校と常にトップの成績で通した。中学三年のときに県の新聞社主催の共通試験で上位50人が新聞に名前が掲載された。私は県内18番だった。それから私は地元では「10年に一人の秀才」と言われるようになる。
成績は良かったものの、ただ私には将来の夢はなかった。成績の優秀な者はたいがい理系に進み医学部を目指す。ところが当時の担任は私の身体を慮ってか私を文系にした。だから大学は就職に有利な法学部を選んだ。
一流大学を出て、一流の会社に就職した。
会社では経理の仕事を主に担当した。数学が得意だったので数字に強いと思われたらしい。本当は数字よりも文章の方が好きだったが・・・というより、会社での一番大切な仕事は人間関係だった気がする。会社に入った時点でも、私にはまだ特にやりたいことが明確に見つかっていなかった。
私は自慢できる容姿ではないが、一流大学出、一流会社勤務ということで、田舎で見合いをして綺麗な女性と結婚できた。順調に昇格して収入も上がる。三人の子宝に恵まれ、マイホームも取得。絵に描いたように幸せなサラリーマン生活を送ってきた。
忙しいサラリーマン生活。二時間もかかる通勤時間のせいか、たしかに疲れもあったことだろう。いつしか、これが本当に自分が求めていたものだったのかと自問自答するようになる。
私は音楽が好きだった。テノールというのかな、私はけっこう高い声が出たので小学校の演奏会ではよく前に出て歌わされていた。しかし、手足が不自由なこともあり楽器をおぼえなかった。たいがい音楽の好きな子供はギターなんかを弾きだすものだが、私は勉強ばかりやっていた。そして誰に聴かせるわけでもなく一人で歌謡曲を歌っていた。音域としては当時アイドルであった野口五郎の歌も平気で歌えた。
そんな私が大学時代にカラオケにはまる。
友人が連れて行ってくれたカラオケハウスでステージに上がって歌ったら、一発で初段に認定された。ボトルが無料で一本贈呈。友人が驚いていた。「おまえ、めちゃくちゃ歌が上手いよ!」
私は自分が歌がうまいのは知っていた。しかし、身体も不自由だし人前で歌おうとは思っていなかった。それがカラオケの普及で、私の趣味が活きだした。会社でも私のカラオケ好きは有名になった。自分が上司になってからは、若い連中をよくカラオケに誘った。もちろん女性社員も同伴。恒例の私のカラオケ道場と称された。部下の手前いつもお金は私が払った。
私の声はロックバンド「LUNA SEA」のヴォーカルをつとめる河村隆一によく似ているらしい。あるときスナックで彼のソロ曲「GLASS」を歌ったら、同じ曲をもう一度歌ってほしいとリクエストされた。河村隆一の声は10年に一人の美声と言われるらしい。似ていると言われるのは大変光栄である。
昔あるスナックで歌手の瀬川瑛子に会ったことがある。代表曲「命くれない」がヒットする前だったので、私は瀬川瑛子の名前を知らなかった。ところが一緒に行った先輩は彼女のヒット曲「長崎の夜はむらさき」を知っていて、彼女にサインを求めていた。その瀬川瑛子さんが私の歌を聴いて褒めてくれた。今頃になって、なんて光栄なことかと思う。また、あるスナックで元巨人軍の四番打者である吉村禎章選手に会った。私がカラオケで歌い出したら、吉村選手が話を止めて私の歌を聴きだし、歌い終わったときに「君は歌がうまいね」と褒めてもらった。いい思い出である。
もうひとつの趣味、私は文章が得意だった。小学生の頃から読書感想文ではよく表彰されていた。
子供が生まれ、よく絵本を読んであげた。図書館で借りてきた童話が多い。読んでいて私自身が感動した。そして、これなら自分でも書けると思い、自分で創作して寝物語として子供たちに話してあげるようになった。子供たちが主人公の童話だ。運動会や遠足など毎日の生活がすべて童話になった。毎日二話ほど創って話す。そしてこれをワープロにして残した。こうして、電話帳のように沢山の「ジュンジュンとチーチーの物語」ができた。子供たちが大きくなるまで続いた。創作童話はここで一旦お休みとなる。
これを機に、私は物書きの楽しみを知る。日記代わりに、エッセイなどを書き続けた。
30代半ばに本社転勤となる。仕事が忙しいうえ、片道二時間の通勤が待っていた。疲れるし、なにより通勤が時間の無駄だと思えた。
このとき、私は妻に相談した。「おれはサラリーマンとしてこのまま働くより、物書きになった方がいいと思うんだ」と。それに対して、「お父さん、なにをバカなことを言っているの? 子供たちにこれからお金がかかるのよ。今の会社はお給料も悪くないんだから、このまま頑張って働いてよ。」とたしなめられた。
妻に相談しても無駄だと思った。物書きに夢中になると部屋にこもってしまう私にいつも愚痴を言ってくる。私の趣味など理解してくれない。少しでも家族サービスに時間を割いてほしいと要求する。妻の気持ちも分からなくもない。
私も子供はかわいい。子供たちに創作童話を語っていた事が一番楽しい思い出だ。お陰様で子供たちは皆いい子に育ってくれた。
私は次第に、会社で出世していく情熱が湧かなくなっていた。私はビジネスマンというより、アーティスト向きではないかと思うようになる。私の尊敬する上司は、私のカラオケ好きや文章好きを知り、「おまえは本来アーティストだ」と喝破していた。
女優であり、歌手であり、そして今は踊り子としての原田知世が目の前にいる。
たしかに、表現者であれば、表現する手段はいろいろある。
最近、私は無性に歌が歌いたい。カラオケに夢中になっていた自分を振り返れば、今の自分は「歌を忘れたカナリア」だなと思っちゃう。
自分の夢はシンガーソングライターになりたかったことだったと気づく。詩が書け、歌が歌える。楽器ができないのが今更ながら悔やまれる。
今はたくさんの童話がどんどん書ける。昔は宮沢賢治のように童話がいっぱい書けたらいいなと思っていた。人間というのは「願えば叶う」もので私も自由に童話が書けるようになる。もちろん宮沢賢治にかなうはずもなく、内容レベルの問題は別にしてね。だから音楽も同じように、たくさんの曲を作れた気がする。
どうせ残すなら、童話より、歌を残したかったなーと思う。
60歳にしてそんなことに気付くなんて、あまりに遅すぎたよね。(笑)
ふと、シンガーソングライターの自分の姿が浮かぶ。
もう一人の自分が楽しそうに歌っている。そう思えるだけで幸せな気分になる♪
原田知世さんは、女優に行きずまり、大好きな歌に救いを求めた。そして歌手としても成功する。先に話したね。
関わっていったアーティストたちが凄い。彼女の人柄が彼らを突き動かしたんだね。
映画「時をかける少女」のエピソードで大林監督がこんな話をしていた。
この映画を撮るとき、原田知世は15歳。ちょうど中学を卒業し、高校に進む時期。角川も大林も映画を撮り終えたら、女優を辞めさせ、そのまま彼女を普通の生活に戻してあげようと考えていた。この映画は彼女へのプレゼントと考えていたわけだ。だから、彼女の春休みを利用して一気に映画を撮り切ろうと考え強行軍28日間で撮影した。通常1本の映画を撮るのは最低でも35〜40日、メジャーだと2ヶ月はかかる。必然的に映画「時をかける少女」の撮影は徹夜が続いた。原田知世が「今日は暗いうちに帰れますか」という名言を残している。徹夜なので一日7回も食事があったらしいが、知世は明るく率先して食べて、疲れてげんなりしている周りのスタッフや俳優陣を元気づけたらしい。みんなが「この子のために頑張ろう」と思わせる、原田知世はそんな人柄だった、と大林監督は語っている。
そんな頑張り屋の原田知世も、女優の仕事でストレスを感じたんだね。そんなときに好きな音楽が彼女を救ったわけだ。改めて、音楽の力、魅力というのは計り知れないよね。
7. 妻との別れ
55歳の自分に戻った。
目の前に別れた妻がいる。妻の口から三行半が出る。
「あなたは馬鹿よ。踊り子なんて、あなたのことをなんとも思っていないのよ。お金を払ってくれるから相手しているだけなのよ。そんなことも分からないの。
あなた、今は元気だから何とも思わないかもしれないけど、年をとって身体が動かなくなってきたときに私と離婚したことを後悔するのよ。」
妻にはストリップは単なる遊びであって浮気じゃないと何度も話したが、もう聞く耳をもってくれない。
私は間違いなく妻を愛していた。なんの不満もない。
今でも、なぜに妻と別れてしまったのかと自責の念にかられる。私なんかのところに嫁いでくれた妻に心から申し訳ないことをしたと思う。この業は私が一生背負っていかなければならない。
もともと私はストリップで家庭を壊すなんて微塵も思っていなかった。万一のことがあったら、すっぱりストリップから足を洗う覚悟はできていた。
もともとストリップ通いは40代での単身赴任がきっかけとなり、暇つぶしで始めた。ふつうのサラリーマンなら淋しくなったらスナック通いをするのだろうが、私は好き者のせいかストリップにはまった。そこまではよかった。
ところが、ストリップをネタにエッセイを書き、踊り子さんに観劇レポートを書いて喜んでもらい、さらに子供の代わりに、踊り子さんに向けて童話を書くようになる。私の中に流れる物書きとしての表現者の血が騒ぎ出す。これが抑えられなくなる。
ストリップだけだったら辞められたと思う。ところがストリップと執筆の趣味がふたつ重なってしまい、辞めれなくなってしまった。
もうひとつ、私は親父が66歳で死んだことが頭を過った。年を重ねるごとにそのことが重くのしかかってくる。
私も父と同じく66歳で死ぬかもしれない。そう思うと、自分に残された時間はそんなに長くはない。そのとき、そう強く感じたのだ。
私は童話好きなので、宮沢賢治をこよなく敬愛している。彼は38歳で死んだ。
私が同じく38歳のとき、敬愛する宮沢賢治の命日(9/21)に、いつものように早朝五時ごろに早起きをし、書きものをしながら「あぁ、賢治さんはこの日に亡くなったのかぁ。私はこの先まだまだ生きていくことになるのだろうが、今からの時間は賢治さんにとっては余生になるんだな。これから先は私にとってもプラス・アルファの時間と考えよう。いつ死んでもいいように生きていこう」と思うものがあった。
その思いが父の死で拍車がかかる。
まだまだ書きたい物語がある。また、これまで書き溜めたものをなんらかの形で公開したい。そう思うようになった。
同時に、これからは好きなことだけをやって生きていきたいと思うようになった。もう嫌なことを我慢して生きていくのは止めよう。ストリップ三昧もいい。好きなときに好きなだけ執筆活動もする。自分の好きなことだけに時間を費やす。自分を理解してくれる、自分の好きな人とだけ付き合う。嫌いな人に合わせるなんて、時間の無駄だ。嫌いな人は相手にしない。そう思った。
残された時間を無駄にしたくない。私はストリップ劇場に通いながら、好きなことを書き続けている。好きな踊り子を観るだけでなく、ステージから得る、テーマや音楽、映画やアニメまで、興味をもったら、とことんのめり込む。どんなに時間があっても足りなくなる。
私はただただ、本当の自分になりたかったんだ・・・
同じ思いで、目の前の原田知世にも夢中になった。もしかしたら、彼女なら、今の私の気持ちを理解してくれるかもしれないとも思う。
60歳の私が、52歳の原田知世に恋したっておかしくない。そう思えた。
8. 夢列車に乗って
ステージの上から、原田知世の曲「銀河絵日記」が流れてくる。
タイトル名から察せられるように宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」をモチーフにした世界観である。童話「銀河鉄道の夜」は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
この曲は、作詞:高橋久美子 作曲:伊藤ゴロー。元チャットモンチーの高橋久美子氏が手掛けた宮沢賢治「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたファンタジックな世界観の歌詞と、アルバムのプロデュースも務めた伊藤ゴロー氏によるシンプルかつ美しいメロディラインが融合したナンバー。
敬愛している宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がモチーフと知り、私はこの歌を聴きこんだ。たまらなくキレイな歌詞だ・・・中でも、「辿り着くだけが旅じゃない」や「消えてゆくから愛を知る」といった人生の哲学すら感じさせる味わい深い歌詞が惹きつける。
<ジョバンニ 夜汽車にゆられて ライン川を眺めてる 君とまた旅をしてみたい 帰りの予定も決めずに
草原に寝転がって見た星空 宇宙が掴めそうだったね 自分を抜け出して初めて 自分があることを知ったの
エメラルドの夜の中 言葉はいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 消えてゆくから美しい
ジョバンニ 名前のない星に 私の名前つけたよね 好きな子の話だけしてたいね 叶うかどうかは別として
銀河みたいだよ 都会のネオンだってさ 一つ一つが奇跡の灯火 自分であることを迷わないで 遠く離れてても一緒さ
半熟の朝の中 思いはいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 辿り着くだけが旅じゃない
ときどき うしろ振り返って 君がくれた花を愛でる 冬休み手をつないで歩いた どこまでも続く銀河
エメラルドの夜の中 言葉はいつも流れ星 ひとつ ふたつ みっつ よつ 消えてゆくから愛を知る
真っ白の日記帳に 私の銀河描きましょう ひとつ ふたつ みっつ よつ 辿り着くだけが旅じゃない >
「消えてゆくから愛を知る」かぁ・・妻と別れて愛を知る。これまでもたくさんの愛が芽生えては消えていった。ひとつ ふたつ みっつ よつ・・今までどれだけの愛を求めて旅をしてきたかな。でも、愛に到達点はなかった。それに対して「辿り着くだけが旅じゃない」と言われると何かホッとする。
今また、60歳にして目の前の原田知世に恋をしている。孤独なおじさんである私が原田知世と一緒に人生を歩んだっていいじゃん!! そんなことを夢想していた。
あらっ! 目の前に、楠かほさんが踊っていた。
今までのはすべて夢だった。原田知世は夢の中で踊っていたんだ。
不思議と、彼女の周りに、ラベンダーの香りが漂っていた。
かほさんは原田知世に似ているなと思う。ショートカットでかわいい。
また原田知世に負けないほど優しく性格がいい。大好きな踊り子。
こんな踊り子と出会えただけで私の長いストリップ歴は報われる。
今の私は彼女に夢中である。
今週もかほさんが私の童話をネタにお絵描きをしてくれた。私はたまらなく嬉しくなる。
ふと、私も毎日ストリップ通いして「ストリップ絵日記」を作っているのだと気づく。童話を書いて、踊り子さんにイラストを描いてもらう。私と踊り子さんとの共同コラボこそが「ストリップ絵日記」なのだと。50代の原田知世さんの「銀河絵日記」に負けずに、私は60代で「ストリップ絵日記」を作っていることが無性に嬉しくもあり誇らしくもある。
おしまい