実は以下の文章は「人生の意味」という重いタイトルで二年前に書いたものだが、どうしても最後の結論が分からなく、筆が途中で止まったままになっていた。テーマが大きいのですぐに結論付ける必要もなく、ある意味「自分史」なのだから、じっくり思索したいテーマと考えていた。

 愛美さんへのメモリアルをずっと書き続けてきて、ふと、このテーマに触れるものがあった。今の思いをひとつの結論として、もう一度、このテーマを書きたくなった。

  最初の書き出しはこうである。

*****************************************************************************

 

 今のようなストリップ漬けの毎日は、私の人生においてどういう意味を持つのだろうか? 私はそのことがずっと気になっている。

 ときに堕落への一歩か、ずっと真面目に生きてきたことへの反動か、などとマイナス・イメージで考えてしまうこともある。女房はストリップを容認してはいない。私のストリップ通いが我慢できなくなれば離婚されるだろう。家庭崩壊、ひいては人生の破滅につながりかねない。

 一方、私は人生において無意味なものはないと信じている。私は40歳になってからストリップに嵌ったが、かれこれ10年という年月を費やしている。この10年を自分なりに納得したくて自問自答している。

 

自分の人生を10年区切りで見てみたい。

誕生から10歳までは『自我の目覚め』。私は一歳半で小児麻痺にかかり左下肢が不自由になったが、実家が商売をやっていたこともあり、環境柄、誰にでも笑顔で対応してきた。お陰でコンプレックスから根暗になることはなかった。しかし、もちろんコンプレックスでずいぶん悩まされたことも事実。身障者という理由でいじめの対象にもなった。ただ私にはいい友達がいたこと、また本も友達にできたことが良かった。そんな中、いい教師と巡り合えたお陰で、私は勉強の面白さを知る。こうしたエッセイを書くベースはその教師からの読書感想文の指導から端を発している。その教師は小学4、5年の担任だった。

次の10歳から20歳までは『人生の準備期間(勉強の10年間)』といえる。その担任と出会うまでは勉強が好きだったわけではなく成績も中ぐらいだったと思う。担任は勉強の面白さを教えてくれたと同時に、身障者の自分が他人に伍していくためには勉強しかないということを私に悟らせてくれた。中学に入ってからは部活にも入らず、ひたすら勉強に励んだ。特に予習に力を入れ、英語の教科書はすべて暗記して授業に臨んでいたほど。授業中は教科書を伏せて、先生に何行目を読みなさいと言われれば全て諳んぜられた。先生は私のような生徒は見たことがないと絶賛してくれた。その英語の先生は私が卒業した後々まで私のことを語り草にしていたようだ。試験では全教科ほぼ満点で他の追随を許さないほどに良い成績をあげていた。こういう性格でかつ勉強ができたから、友達も自然とできた。暗い青春ではなかった。大学進学まではまさに順調だったし、地元では「10年に1人の秀才」と云われ、障害をもっていたがゆえか美談の対象として賞賛されていた。

 次の20歳から30歳までの10年は就職・結婚に象徴されるように『人生の基礎固め』。大学に進んでからは周りに秀才がたくさんいて、自分は相対的に普通の人になってしまった。「小さい頃は神童と呼ばれ、そして中学・高校は秀才、しかし大学に入ったら‘ただの人’」というのはよくあること。そこそこの会社に就職し、地元でお見合いし今の女房と結婚した。三人の子宝にも恵まれ、みんな良い子に育ってくれている。なにもかも満足している。

 その次の30歳から40歳までの10年は『自分発見の10年(勉強の10年間)』。二十代は無我夢中で仕事をしていた。たまたま配属された部署が会社にとって最も重要でかつ大事な時期であったため、ほとんど休日も取れず、家庭をかえりみない仕事漬けの日々が続いた。そのときの仕事ぶりが高く評価されて今の自分につながっているわけだが、私は決して仕事が好きで家庭を顧みなかったわけではない。その忙しい仕事が一段落した時点で地方に転勤した。本社のころは忙しくて本を読む暇もなかったが、精神的余裕ができてから貪るように勉強し出した。仕事に関係する書物もたくさん読んだ。当時、会社の将来についての論文募集があったので応募したら優秀賞に選ばれ金一封30万円を頂いたこともある。たまたま読書家の上司がいて彼に感化された。仕事関係に限らず、人生を考える書物をたくさん紹介してもらい貪るように読んだ。今の私の物事を考える原点はこのときに培っている。いろいろ物事を頭にインプットすると次はそれをアウトプットしたくなる。私にとって、それは文章表現だった。いろいろ書いては読書家の上司に批評してもらったりした。たまたま子供たちが幼児期だったこともあり、本を読み聞かせるうちに、次第に私自身が児童文学に興味をもった。自分で童話を作り子供たちに寝物語として語ってきかせるようにもなっていった。たくさんの本を読んでは、たくさんのことを書き綴った。この10年は私が‘もの書き’であることを発見した貴重な時期であり、おそらく後半の人生に大きな意味をもつ10年になった。

 しかし三十代後半に、地方勤務からまた東京本社勤務に変わり、片道二時間の長距離通勤が始まった。疲れからか、あまり文筆に力が入らなくなっていく。なにも書かない日々が続いた。

 四十代に入って、ストリップに目覚めた。会社の業績が悪化し、リストラから大幅に年収がダウンしたこともあり、手頃な遊びとして会社帰りに近くの若松劇場に立ち寄るようになった。最初は10日に一度のペースであったが、次第に関東地区のいろんな劇場に足が向かい、平日はほとんど毎日のペースになっていく。最初のうちは観ているだけで十分満足していた。ポラも撮らなかった。ところが5年ほどしてから踊り子さんに手紙を渡すようになり、私の‘もの書き’の心に火がついた。今では書くことが楽しくて劇場通いしているところでもある。

 四十代に入ってからの10年という年月は間違いなく『ストリップの10年』になっている。それまでの10年刻みは他人にも自慢できるものだが、この「ストリップの10年」は家族にすら言えない。私は、お手紙(実際はストリップ・エッセイ)の中で、ストリップの魅力は何か、自分にとってストリップはどういう意味をもつものなのか、ということを繰り返し自問自答している。私は、この「ストリップの10年」をきっちり意義付けないと自分の人生を語れないと感じている。

 

 身障者であるコンプレックスを最も強く感じるのは異性問題である。私は間違いなく女好きである(笑)が、青春時代にかなり抑圧されたものがあった。失恋を繰り返し、ときに結婚できない不安から人生を失望し、自殺まで頭をかすめたこともある。

 男にとって失恋とは大事な意味をもち、失恋する度ごとに自分を反省し、魅力ある男性になるために精進しようとする。当然私もそう考えていたが、私が身障者だからと最初から恋愛の対象にしてくれない場合も多い。自分になにが足りない、なにが彼女に気に入られない、と考えていくと、自分は身障者だからという結論にもっていってしまう。本当はそうじゃないかもしれないが、どうしてもそう考えてしまう。そういうときには落ち込んでどうしようもなくなった。 

 私が女性に対して高嶺の花的な神聖な憧れを感じるのは、身障者であるがゆえのコンプレックスに他ならない。ストリップを観ながら、にこにこして眺めつつ、かぶりつきで綺麗な女性を身近に感じ、嬉しそうにしているのは、こうした反映なのだと思う。仕事も家庭も順調であるが、ストリップにはまり始めた根源はこのコンプレックスの発露なのだとうすうす見当がつく。

 

 ************************************************************************

  二年前はここから、ストリップを精神性を高めるものと意義付けて、『ストリップの10年』を私の人生にとって意味あるものと結論付けようとしていた。文書がこう続いた。

 

 ストリップというのは華やかで美しい。

 男には性にともなう「業」がある。女性の美しさに対する憧れは永遠である。これがなくなってしまえば男として枯れるしかない。ストリップはそれを満たしてくれる場。

 人は美しいものを目の当たりにすれば、心を無にすることができる。頭をからっぽにして、仕事やら人間関係からの柵(しがらみ)から一瞬なりとも開放される。まさに現世からの解脱。ストリップにはそういう効用がある。

 心を「無」にするとは仏教の理想とする境地である。三十代のときに、心理学、哲学や宗教などの本を読み漁ったが、理想とする境地へ辿るひとつの道として「ストリップ」があるのかもしれない。

 田山花袋の『田舎教師』の中にこんな台詞がある。「成功不成功は人格の上に何の価値もない。人はそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う」

 今の私には、ストリップはひとつの趣味になった。趣味は精神的価値を高めてくれるもの。単なる欲望の捌け口ではないことをストリップを通じて感じている。

 

 ************************************************************************

 この結論がどうも自分なりに納得いかない。だから、このテーマが頭の片隅にずっとあったのだと思う。今はこう結論付けて文章を締めくくりたい。

 ************************************************************************

 

 私は一年前、ストリップを通して理想の女性と出逢った。そう、それは矢島愛美さん。

 ストリップの神様が私のストリップ10年目のお祝いに与えてくれた贈り物だと最初は勝手に思えた。そして私は恋に落ちた。しかし、恋はたくさんの喜びと共に、たくさんの切なさを伴う。このことはメモリアルに正直に記した。と同時に、私は愛美さん以外にも、これまで沢山の踊り子さんに恋をしてきたことを思い知った。

 私は、自分は恋少なき青春を送らざるを得なかったというコンプレックスをずっと抱えていた。その青春の残り香を求めてストリップに嵌まったのだ。そしてストリップは私の業を癒してくれた。だからこそ、激しい喜びを感じてストリップ漬けの毎日になったのだ。こんな情けない私であるが、踊り子さんの中には私の相手をしてくれる人が現れる。お金を払った単なる客なのかもしれないが、私はそうではないと思いたい。そのうえ、私は擬似恋愛を求めて手紙を書いては好きな踊り子さんとコミュニケーションを図ろうとする。私は五年目にしてその領域まで求め出した。ストリップなのだから単に観てくれればいいと考える踊り子さんも多いが、その私の欲求に応えてくれる踊り子さんが少なからず居てくれた。お陰で私はストリップに飽きることなく嵌まり続けている。

 若かりし頃は、恋心は途中でストップさせられた。告白して失恋してしまえば恋心を継続するわけにはいかない。ところが、ストリップの場合には擬似恋愛であるがゆえ、踊り子さんがステージにのる限りその恋心が継続できる。私はたくさんの踊り子さんに恋をしている。

 実は私はそのことに気づいていなかった。ストリップ・エッセイの中でも、いつも自分は恋少なき人生だったように書いてきた。それに対して、ある踊り子さんから「太郎さんは恋少ない人生ではないよ。だって、たくさんの踊り子さんに恋しているもん。」と言われて、ハッと感じた。言われてみれば確かに、この十年間たくさんの恋をしてきている。しかも、ふだんの生活では出逢うことのない絶世の美女に対して。

 ストリップというのは身障者の私に対して、神様が遅ればせながら与えてくれた「恋のプレゼント」なのだ! そう思い至った。その瞬間、長い間抱いていた青春の疼きからようやく開放された気分になった。

 愛美さんのお陰で、そしてメモリアルを書くことで、私は自分の十年間という「ストリップ人生の意味」を知ることができた。誠に感謝に絶えない。

 私は今年50歳という人生の大きな節目を迎える。四十代の『ストリップの10年』が必ずや私の人生において大きな意味をもつことを信じてやまない。

 

 

平成21年4月                                 SNAにて