今回は、コメディアンの萩本欽一さんの話をします。

 

日本経済新聞に「私の履歴書」という著名人の人生を綴ったコーナーがある。一か月間に亘って本人が執筆している。

著名人と言っても、ほとんどは経済人なのだが、経済人以外の有名な方もよく登場する。年末年始は特に有名な方が多いが、今回H26年12月号は萩本欽一さんだった。コメディアンがこのコーナーに登場するのは初めてらしい。ちなみにH27年1月は王貞治さん。

以下、萩本欽一さんをTVの愛称とおり‘欽ちゃん’と呼ばせて頂く。

 

欽ちゃんは言うまでもなく茶の間の有名人である。私は「私の履歴書」も興味ある人しか読まない。面白くなければ途中で読まなくなる。そんな中、欽ちゃんは有名人なので彼の人生に興味がないわけではない程度に読み始めた。ところが読み始めたら一瞬で引き込まれ、一気に読み終え、自分のエッセイで書き綴ろうと思ったほどに感動した。ものすごく人間味あふれる方で、読んでいて何度も心を掴まれ、最後には人間として惚れた。

どうしてストリップ・エッセイで取り上げるのかと思うでしょ。私も今更ながらの驚きなのだが、欽ちゃんはストリップ劇場出身なのである。新聞掲載の最初の頃に、ストリップ劇場の名前が頻繁に登場してドギマギした。

欽ちゃんは高校卒業後、東洋劇場に就職した。浅草に東洋劇場が当時あったのに驚いた。現在の大阪東洋ショー劇場につながっているのだ。たしかに昔は全国に東洋劇場があり、現在の仙台ロックも私が学生時代に初めて行った時は確かに東洋劇場だった。いつの間にかロック座に買いとられていた。

ストリップ劇場で踊り子さんのショーの合間に、コメディアンが場つなぎをしていたのは常識。フーテンの寅さんこと渥美清も、今や一流映画監督のビートたけしも、みんなストリップ劇場出身。コント55号の萩本欽一&坂上二郎も同じくストリップ劇場からスタートしている。私が実際に劇場で拝見したコメディアンで記憶にあるのはダチョウ倶楽部。有名になる前に昔の渋谷道頓堀劇場で一度観ている。

 

考えてみれば、ストリップ劇場は今よりもずっと社会的地位が高かったような気がする。風俗の代表格であり、踊り子さんも大きな劇場にのる方は特別な存在であった。全国各地にたくさん劇場があり、映画館や小さな小屋でも盛んに踊り子さんは登場した。どさ回り芸人がたくさんいたわけだが、大きな劇場にのる踊り子は別格であった。

いろんな風俗が登場し、ストリップはどんどん衰退していく。衰退を防ごうと、なんでもありのエログロ路線に走ったのが間違い。典型は本番まな板ショー。これが風営法で徹底的に取り締まられどんどん廃業に押しやられた。時代の流れの中、どうしようもないところではあったが、現在はアイドル路線に切り替え生き残っている。しかしAV業界など他の風俗が台頭することもあり未だに衰退の一途を辿っている。

踊り子さんも劇場もきれいになる一方で、どうもストリップの社会的地位は落ちている実感がある。成年男子にとって極めて清潔で健康的な遊びと思われるが、社会的な市民権は得られていない。昔は職場旅行などで温泉街に行くと大勢でストリップ劇場に流れ込んでいたものだが、いまでは職場内でも蔑視される。昔の上司はストリップ劇場のことを楽しく語ってる人もいたが、いまではストリップ通いしていると退職事由にされかねない。ストリップ客で目立つ人がいるとサイトで誹謗中傷する始末。仲間内でも楽しくストリップ観劇することを阻止する酷い輩までいる。誠に悲しい実態である。

だからこそか、欽ちゃんの若い頃の劇場模様がやけに新鮮に目に飛び込んできた。

 

欽ちゃんの奥さんが踊り子であることに衝撃を受けた。そのなれそめが胸に刺さる。

欽ちゃんは三つ年上のお姐さんにかわいがられた。コメディアン見習いを始めた18歳のときから「欽坊、有名になりなよ」と応援してくれ、全く売れずにいるも「あなたは必ず成功する」と励ましてくれ、困ったらこれを売りなさいとネックレスをくれた方がいた。欽ちゃんは恩に着ると同時に、彼女に強く憧れた。

欽ちゃんがコント55号としてTVに出だして売れるようになって、男のけじめとしてプロポーズした。すると、そのお姐さんは「私なんかより若いかわいい娘と一緒になりない」と言い残してぷっつり消息を絶ってしまった。お姐さんの名前は澄子さん。

八方手を尽くして何とか見つけ出した澄子さんは何度プロボースしても「有名人の妻にはなりたくない」と首を振る。それでも思いは変わらなかった。ようやく結ばれて、三人の男の子に恵まれる。私は読みながら思わず拍手していた。

 

私はこうして物書きを趣味にしているが、私の文章を愛してくれる踊り子さんが多い。私はいつか文章で愛するストリップに恩返しをしたいと密かに考えている。そのためにも今は書き続けたい。いつか必ず芽が出ると信じている。踊り子さんの励ましがどんなに勇気づけられるか分からない。

 

最後に、欽ちゃんがスター誕生の司会をやっていた時のエピソードを二つ紹介する。

スター誕生初の優勝者・森昌子さんに「君の頭はたわしみたいだね」と言ったら昌子さんが固まってしまった。そのときに「人の心を傷つけるようなジョークは二度と云わない」と心に誓った。そのとき以来、森昌子さんは欽ちゃんの中で先生になった。森昌子さんのデビュー曲は『先生』なのが面白いね。

欽ちゃんは歌番組などでスター誕生出身者と会っても会話しないようにしていた。そんな欽ちゃんのことを周りは冷たいねと思っていたようだ。実はそれはスター誕生出身者以外の人の気持ちを察してのものだった。そのことをだいぶ後になって、スター誕生同窓会で欽ちゃんが話して、みんなにお詫びをしたところ、いつもクールな山口百恵さんが泣き出したという。

他にも、坂上二郎さんのこと、お母さんのこと等、こうした人生の機微というか粋というか人情というか、それらが満載の人生が綴られていた。

 

平成27年1月