今回は、ストリップにおける手紙の効用について話してみます。

 

おそらく手紙はストリップにおける私の専売特許みたいなものじゃないかな(笑)。踊り子さんにとって、私=手紙であり、手紙を渡さない私は想像できない!? 私が手紙を書かなくなったら味気ないとも思うし、私としても手紙を書かなくなったらストリップ通いは止めると思う。

 ストリップのある友人が私のことを‘手紙ストーカー’だねと笑う。ストーカーというのは悪い言葉だが、手紙ストーカーという表現はうまいなぁと感心してしまった。まさに、私は手紙OKの方を求めて劇場を彷徨っている(笑)。

 

 私はストリップを観始めた当初から踊り子さんに手紙を渡していたわけではない。劇場通いを始めて五年ほど過ぎてから、何気にお気に入りの踊り子さんに手紙を渡したら、すごく喜んでくれて、しかもお返事を頂き、すぐに手紙の魅力に嵌まってしまった。

 もともと私は趣味でエッセイや童話などを書いていたので、書くことは大好き。これまでも、自分のこと、妻のこと、子供のこと、童話のことなど、興味をもったテーマを見つけて書き続けてきたが、一時、書くテーマをなくして断筆していた。そこに、長く観続けてきたストリップという新しいテーマを見つけて、また書き始めた。踊り子さんへの手紙という形や、ストリップ・エッセイとして書き続けている。最近は、それに童話を書き添えたら好評だったので、また童話の創作意欲も湧いてきた。

 ストリップ観劇と物書きとしての自己表現が結びついて、最高の楽しみに昇華した。手紙がなかったら、これだけストリップに嵌まらなかっただろうし、こんなに長くストリップ熱を維持できなかっただろうと思う。

 ともかく、私は手紙を通じて踊り子さんを応援するスタイルになっていった。

 

 ただ、手紙は目的ではなく、あくまで手段である。私がストリップ通いする目的は‘踊り子さんと仲良くなりたい!’この一点にある。その手段として、たまたま手紙が私に一番適していたということ。

 踊り子さんと仲良くなるには最低限のコミュニケーションが必要になる。踊り子とファンといえども一つの人間関係であり、人間関係を構築していくためにはコミュニケーションは不可欠。一言でコミュニケーションといっても、目で挨拶したり、会話をしたり、電話、手紙やメールなどの文章交換、といろいろある。その中で、たまたま私の場合は書くのが好きだったから、手紙を通じてのコミュニケーションがむいていたに過ぎない。ただストリップの場合は一方向性のステージが中心のため、コミュニケーションがかなり制限され、一般的なコミュニケーションである会話もポラタイムのほんの短い時間しかない。そのため、踊り子さんと長く話したければ手紙を書くしかない。

 この手紙という武器はかなり効果的に踊り子さんの心の中で爆発してくれる。手紙というのは私の熱い想いが直接踊り子さんの心の中に入り込んでいく。私は外見には全く自信がないし口下手なのだが、文章による自己表現には慣れているし、他の人よりは長けている自負もある。だから、私のことを理解してもらうには文章を通じての方が手っ取り早い。

また、長年、踊り子さんと手紙でコミュニケーションしているので、私の手紙もそれなりに進化を続けている。長い間ストリップ・エッセイやストリップ日記を書き貯めているのでかなり沢山のネタをもっている。今時点の踊り子さんに何が一番ふさわしい話題かを考えて話のネタを提供しているつもり。さらに、単にワープロで印刷したものを渡すだけでは味気ないので、必ず手書きのコメントとネコのイラストを入れるように心がけている。これが踊り子さんに好評。手書きの方が温かみがあるし、直接自分に対してだけのものだから嬉しいと喜んでくれる方が多く、できるだけ手書きを増やすようにしている。新作を拝見したら、ステージ感想を書いてあげると殆どの方は喜んでくれる。私の言葉で褒められるのが一番嬉しいと言ってもらえれば私としても最高に嬉しい。特に新人さんに対しては、最初にステージを拝見したら、すぐにステージ感想を届けるようにしている。

 

 では、踊り子さん側の反応はどうか?

私の手紙に対して、何も反応がない人から、丁寧にお返事を書いてくれる人までいろいろ。その反応で仲良くしてくれるかどうかを判断する。

私に関心がなければ、私の長い文章は読まないだろうし、仮に読んでも返事を書く気にはならないだろう。反応がないということは私と仲良くする気がないと受け止め、仲良くなる縁がなかったものと諦める。私自身、一生懸命書いて何の反応もないと虚しさを感じてしまう。ポラ代を払ってまで縁をつなぐ意欲がなくなる。全ての踊り子さんが私の手紙を受け入れてくれるはずもないわけで、踊り子さんはいっぱいいるのだからと割り切っている。あまりしつこいと本当に手紙ストーカーになっちゃうからね(笑)。

いつも手紙を読んでくれている方がたまたま忙しくて読めないのは全く問題ない。長く応援させて頂いていると気心が知れている。むしろ「ごめんなさい。今バタバタしているので、後でゆっくり読ませて頂きますね。」の一言が私への配慮を感じ心地よかったりする。

 たくさんコメントを書いてくれているのだが、全く心に響かない人もいる。私の手紙の内容になにも触れず、通り一片のことしか書いていない。おそらく全ての客に同じことを書いているのだろう。これでは私の手紙を読んでくれているのかどうか分からない。私の話し相手になるつもりはなく、義務的にポラサインの作業をこなしているだけと感じる。時には義務的を通り越して事務的になっている方もいる。コメントはたくさん書けばいいというのではなく、相手に気持ちが伝わればたった一言でもいい。私が手紙で提供した内容に対して「○○かぁ~。ムズカシイね」と一言あるだけでも十分気持ちが伝わる。やはり、心を込めて対応しないと心というのは伝わらないもの。だからこそ、難しくもあり、大切なことなのである。

 文章が苦手と言う踊り子さんも多い。しかし、相手に心を伝えるのに文章の上手い下手は全く関係ない。格調高い文章なのに気持ちが全然通じないときだってある。いくら文章が下手で、字が汚くても、心がこもっていれば必ず心は伝わる。ワープロでじっくり考えた私の文章より、私の汚い手書きで、その場で思いついたコメントを喜んでくれる踊り子さんが多いのもそのせいと私自身感じている。まぁ、気心が知れ、かまえずに楽しくやれるのが一番かな。そうすればコメントもさらりと書けるもの。そういう関係になりたくて、劇場にまめに通っている。

 

 私のような手紙好きな客は殆どいないだろうね。手紙を書きたいと考えているファンもいると思うけど、いざ手紙を書こうとすると、なかなか筆が進まないもの。その点、もの書きを趣味としてる私は楽しみながら書ける。これは私の特技であり、私の専売特許に近い(!?)。

 書くのが好きな分、ついつい長くなってしまう。おそらく、踊り子さんにとって、私の文章は長くて読むのが大変、そのうえ返事を書くなんてもっと大変。踊り子さんにとっては甚だ面倒な客だと思う。

 いくらストリップの話に限定しているとはいえ、踊り子さん全員に気に入ってもらえるとは思っていない。活字や長い文章が嫌いという女性もいるので、そういう方には相手をしてもらうつもりはない。私は自分の文章を喜んでくれる方のみ相手をしてほしいと思っている。要は相性の問題。だからこそ、そういう人と出会ったときの喜びは極上である。なにせ、ストリップの話題は家族や友人と話せないので、踊り子さんに話し相手ができると無上の喜びを覚えるし、そして物書きとしての筆も喜ぶ。

 

 もう少し、手紙の効用について話してみよう。

私は手紙へのこだわりが強い分、手紙への反応を敏感に感じる。手紙にはその人の性格がかなり反映されるがゆえに、ストリップというのに外見より先に内面から踊り子さんの魅力に気づいていく。だから、どんなに外見が素敵でも手紙への反応が悪いと一気に関心が萎えてしまう。

踊り子さんに手紙を出した瞬間、長い文書はダメという方がいる。活字が嫌い・・今の若い人は漫画や動画で育ってきているので本を読まない人も多く、印刷された長い活字を見た瞬間に拒否反応を起こす人もいるようだ。「こんな長い手紙、読む気もしない」と言って屑箱に捨ててしまう踊り子さんもいるほど。しかし、人間がもっとも人間らしいことのひとつに文字への順応性がある。人は文字を通して成長する。文字は文化そのもの、だから文字を嫌いな方は知性や教養を感じない。この時点で私がファンになる価値を見出せなくなる。

私は外見で踊り子さんを判断しない。むしろ、どれだけ心を感じるかでファンとして応援するかどうかを決めていく。外見だけだと次第に飽きがでてくるが、心を感じさせてくれる方は会うほどにどんどん好きになっていく。そして関係が深まっていくのを感じる。

私がストリップにおいて最も望んでいること、それは踊り子さんと楽しく会話が弾み(実際は文通だが)楽しいデートができたような感覚。この娘は絶対応援しよう! そう心に誓えるような方と出会ったときが最高に幸せを感じる。

そのために、私は手紙で踊り子さんの心のドアをノックしている。踊り子さんは仕事柄足は開いてみせてくれるだろうが、心はなかなか見せてくれない。そういう中、ときに私と相性が合って心のドアを開いてくれる方がいる。そういう方と出会う喜びは何ものにも代え難い。まさにストリップにおける縁だと感じている。

 

平成22年