今回は「一期一会の気持ち」について語ります。
昨年末に、心無い客のサイトへの誹謗中傷及び会社への通報により、ストリップ通いを止めなければいけなくなる事態に陥り、激しいショックを受けた。
一時ストリップ通いを中断したが、やはり止められず、また劇場に足を運んでいる。
いつまた通報されて、息の根を止められるか分からない。
そんな中で観劇しているので、以前のように心から楽しむ気持ちの余裕がなくなってもいるが、逆に、こうやってストリップを観れていることが本当に幸せなことだと実感する。目の前のステージが観れなくなることを考えると、今、このステージを大切に観たいという気持ちに満ちてくる。
「一期一会」という言葉が浮かぶ。いま目の前にいる人とは、いつ何事があってか、もう二度と会えなくなるかもしれない。だからこそ、今のこの出会った一瞬をこれが最期のつもりで相手に接したい、という意味。
「一期」は仏教語で、人が生まれて死ぬまでの間のことで、人の一生を意味する。「一会」とは一度の出会いという意味なので、人と人との出会いは一度限りの大切なものということです。この一期一会は、元々は茶の湯の教えを説いた言葉で、たとえ今後、幾度かの茶会を開く機会があっても、この茶会と同じ茶会は二度と開くことは出来ない。だから、茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない。これは、千利休の弟子宗二の『山上宗二記(やまのうえそうじき)』にある「一期に一度の会」から出てきたもの。
まさに、「一期一会の気持ち」でステージを大切に観たい。
ストリップを観ている時は、至福のひととき。
また、私には夢がある。ストリップから与えられた感動とメルヘンを私の筆で綴りたい。そしていつかは世に出したいと密かに夢見ている。
しかし今は家庭や仕事をもつ平凡な社会人として、ストリップという趣味を公にはできない。まだオープンにする時期ではない。だから今は、せっせと観劇レポート、エッセイ、童話、ポエムを書き溜める時期なんだと考えている。すでに本を何冊も書ける程の文量になっている。このまま本にもできるし、これらを材料にストリップの小説を書いたら面白い。こうしたことを老後の楽しみに考えている。
私の文章を通じて、人々にストリップの感動やメルヘンを伝えられたら、衰退著しいストリップの再興に一役買えるかもしれない。これだけ楽しませて頂いたストリップに対し、私のできる形で恩返ししたいと思っている。
心無い人の誹謗中傷は、私のこうした夢をぶち壊そうとしている。
他人から楽しみを奪い、その不幸を喜ぶなんて、人間として最低の行為。絶対に許されない犯罪行為だ。
ストリップ通いしている人は普通にいい人が多い。だいたいが控えめで優しいタイプ。こうして趣味を同じくして仲良くなれる方も多い。彼らに会うのもストリップの楽しみのひとつ。そんな中に、こうした最低な輩がいることが情けなく、たまらなく悲しい。爆サイなどに踊り子や客の誹謗中傷を書き込む奴らはストリップを観て楽しむことより、誹謗中傷を書き込むこと自体に喜びを感じる変質者だ。実際にストリップ劇場に足を運ばずに、サイトだけで楽しんでいる人が多い感じ。そういう人はストリップを語る資格もないし、ストリップの世界から出て行ってほしい。
私はストリップを楽しむ時間も欲しいし、夢の実現のために文筆する時間も欲しいから、時間がいくらあっても足りない。全てのエネルギーをそこに注ぎ込みたいから、無駄な時間は費やしたくない。AVも観ないし、爆サイなど見ようとも思わない。人を誹謗中傷するようなマイナスイオンのある場には近づきたくもない。ずっとそう思って無視していた。
ところが、自分の知らないところで、こうした誹謗中傷に遭い、傷つけられ、かなりショックを受けた。いつも親しげに挨拶している仲間の中に、こうした誹謗中傷している輩がいるとなると思うと人間不信にもつながる。実際に、書き込みをチェックしていたら何人かが特定できた。中には私によく挨拶したり、また席を譲ってくれる人もいる。中には、よくステージ中に居眠りしていると思ったら、真夜中に踊り子さんや客の誹謗中傷を書いていて、そりゃ居眠りもするよな。・・いろいろ思うことがあるが書き込みの全員を特定できないわけだし、仕返しする気にもなれない。せっかくストリップという世界で知り合ったのにと思うと、ただただ悲しくなる。
ストリップは心を癒しに来るところ。ひとときを楽しんで、また明日への活力を得るところ。女性に縁のない男性にとっては夢のような場所。
ストリップを「一期一会の気持ち」で大切に扱ってほしいと心から念ずるばかりだ。
平成25年1月