ストリップというのは禁欲の遊び(風俗)だなと思うことがある。目の前のステキな女体に触れたくても我慢しなければならない。女性を感じたくて入場したにもかかわらず、射精はできない。つまり、ストリップはきちんと自己抑制できる人向きの遊び、つまり「大人の風俗」なんだと思う。

 ファンには上下関係がない。リボンさんの中にたまに1番客だ2番客だなんて話を聞くが本来はそんなものはない。先日、踊り子Aさんが出演していたのに、Aさんの熱烈なファンの一人がその週に来なかったので、次に会ったときに「なぜ前回の公演では来なかったの?」と他のファンが気遣うといった具合である。だから踊り子さんの前では常にみなさん平等であり、踊り子さんも同じ気持ちで客と接している方が多い。そういう意味では、みんながとても大人だなぁと思う。

 

 また、ストリップというのは、嫉妬深い人には絶対に向かない遊び(風俗)だなと思う。

 例えば、キャバクラで好きな子ができたとする。その子を友人に紹介して、友人がその子と仲良く談笑しているのを見るのは辛い。だから友人には紹介しないだろう。仮にそれがソープランドで見えないところの話だとしても友人には紹介しないだろう。ところが、ストリップの場合は、気に入った子ができると、いい子だから応援してあげてと仲間内に紹介する。ことストリップにおいては、一対一で相手してもらう遊びではないから、その点において他の風俗とは一線を画す。その分、料金が安いという設定でもある。

 一見客はただヌード観賞に来るだけだが、常連客は好みの踊り子さんの応援にやってくる。その時に彼女が他のお客と親しげにしていようと、それを気にしない、見て見ぬ振りをする、いや、むしろそれを喜ぶくらいの度量がないとストリップは観られない。大好きな歌手やアイドルをファンクラブに入って応援するのに似ている。ストリップというのはみんなで応援するスタイルなのだ。俺が俺がというタイプはストリップには向かない。

 ただ考えてみれば、男と女というのは異性として互いに惹かれ合う仕組みになっている。それは子孫繁栄のために神が創りたもうた世界。男はその女に自分の子を産ませるために他の男を排除する摂理が働く。ストリップというのはそれを全く否定する。その点については単なる遊びだからと割り切るしかない。

 

 ところが、踊り子さんに対して、恋愛感情を抱き始めると厄介なものになってくる。

 私は時にストリップ評論家のごとく冷静に踊り子さんを観察し、個々の踊り子さんの個性を評価し、外見よりむしろ内面の美しさ、自分との相性などを評価していってるつもり。なのだが、時にどうしようもなく「恋に落ちた」状態になることがある。それだけその踊り子さんが素敵だということ。そうなると、情けない話がやきもちの心理が顕れる。他の客と楽しそうに談笑する姿を見て、なんか無関心でいられない。むしろ人気が出てきたのを喜ばなければならないのにどうも冷静でいられない。最初は自分の応援を凄く喜んでかまってくれていたのが、人気が出て多くのファンに囲まれだすと、自分の位置関係が彼女から遠く感じる。彼女の中の自分の存在が相対的に小さくなっているのをひしひしと思い始める。感じなくてもいいものを、自分への対応が悪くなったと感じたりもする。

 男なのだから、恋に落ちることもあれば、そういう心理状態になっても仕方ないとも云えそうだが、問題は一ファンとして素直にその踊り子さんを応援し辛くなること。私は以前、ストリップにおける究極の姿は「見守る愛」だなんてカッコよく話したことがあるが、こと恋愛感情を抱いてしまうととても偉そうなことはいえない。単なる自己中心の男に成り下がっている。

 

 話は変わるが、文豪・谷崎潤一郎の作品『痴人の愛』を思い出した。殺したいほどに美しい女ナオミに対する主人公譲二の倒錯の愛。愛する女が他の男に抱かれるのを見て、憎めば憎むほどナオミは美しくなっていく。男は美の前に跪(ひざまづ)き、その尊い憧れを崇拝する。そして美にふれた男は発狂する。破滅の愛に堕ちていくマゾヒストな内容。

 ストリップもこの「痴情の愛」に通じるものがあるのかな。自分の愛する女性の裸体が衆人の目に晒されるのを見て喜ぶ。・・・しかし今の私には到底この領域には行けそうもない。だからこうして葛藤してしまうのだ。

 

 長くストリップを楽しんでいると、お陰さまで心底気に入る踊り子さんと出逢うことができる。これは最高のご縁だと感じる。

 大好きな踊り子さんが現れ、そして彼女にはまっている間は夢見心地。そして彼女に堕ちていく。

自分が求める神聖で崇高な「見守る愛」ができずに、こうした葛藤に悩んだりしてしまう。これもストリップなのかなとも思う。。。

 

 

平成21年3月                           川崎ロックにて