改めて「踊り子さんの魅力」について私なりに真面目に(?)考察してみました。
お気に入りの踊り子さんに会うとすごくハッピーな気分になります。
それは踊り子さんが、私が劇場に来たことを純粋に喜んでくれているからです。その感情は、仮に私がくればポラを買ってもらえる等の打算的なものであれば伝わりませんが、そうではなく、「私の存在そのものを認めてくれる」というものであるからこそストレートに伝わってくるのだと思います。
人間にとって、純粋に「自分の存在そのものを認めてくれる」というのが最大の喜びです。親が子供に接する感情はそうですね。愛する恋人が傍にいてくれるだけでいいという感情もそうかな。
踊り子さんが私に注いでくれる笑顔はそう物語っています。また、私の手紙もよく読んでくれ反応してくれる。手紙も私自身である。楽しんでくれると凄く嬉しい。それらが自然に出てくるのが私にとって最高の「踊り子さんの魅力」なのだと思う。
たとえが悪くて申し訳ないが、その感情は愛犬に対するものに通じる。私が門扉を開けて、玄関に入るまでの足音を聞きつけただけで、私の愛犬は玄関先で喜んでお迎えしてくれる。私の顔を見つけると抱きついてくるし、しまいには嬉しくて駆けずり回る。いまや、自分の存在をこれだけ喜んでくれるものはいない。
小さい頃の子供たちもそうだった。私が仕事から帰ると、子供たちは喜んで抱きついてきたものだ。それに何度癒されたことだろう。ところが、最近は帰宅した私を見つけても「あれっ、いつ帰ってきたの?」という感じ。
大きくなるにつれ、子供たちは父親が帰ってきても喜ばなくなる。
子供は大きくなるにつれ、どうしてそう変わっていくのだろうか? 何が彼らを変えていくのだろうか?
父親の存在というのは、それ自体変わるものではない。ということは、相対的に父への興味・関心が薄れたということなのか。
自分の体験で考えると、小さい頃は、お客さんが自宅に来るというのは楽しいことだった。あまりなかったが、家族でお出かけするというのも凄く楽しかった。
大きくなるにつれ、自分の世界を楽しんでいるときに他人に邪魔されるのを嫌うようになってくる。たとえば好きなテレビや本を楽しんでいるときは迷惑だし、今の子ならテレビゲームの方が他人と遊ぶよりもいいと考えるのかもしれない。そうなると、出かけるのも億劫になっていく。つまり、自分の世界をいそしむあまり、外からの変化を避けようとする。
小さい頃は、ちょっとした変化もすごく楽しかった。淡々とした授業ばかりじゃつまらなく、遠足、運動会などの行事に心がときめいたものだ。それが大人になると、仕事や家事が忙しくなるにつれ、よけいなお客、行事はお断り!という感じになってくる。妻を見ていても、お客が来ると大変そうだ。淡々と仕事や家事をこなしている方が精神的に落ち着くという考えになってくる。
私は小さい頃にあった変化を楽しむ気持ち、ウキウキした気分というのは生きていく上でとても貴重なものではないかと思っている。これを『遠足の心』と勝手に呼んでいる。遠足の心とは、まさにお出かけの楽しさであり、またお客さんが訪ねてくる楽しさでもある。人と接するというのは大きな変化であり、これを避けていてはいけないし、むしろ楽しまなければならない。接客業の基本はこの「遠足の心」にあると云えそうだ。
ストリップという仕事は、いつも同じ踊りをして淡々とお客と接しさえすれば高い給料がもらえる、なんていう職業であってはいけない。お客は「遠足の心」をもって観にきている。その気持ちに応えるために、踊り子さんも「遠足の心」をもって努めなければならない。常に新しい踊りに挑戦し、お客さんを知り接し楽しんでもらうよう心がけるべきなんだと思う。
お気に入りの踊り子さんはいつも「遠足の心」をもって私に接してくれる大切な、大切な、大好きな踊り子さんです。
平成21年11月