『ストリップはお祭りだ』-----

私は文章を書くときに、最初にキーワードを決め、そのイメージを膨らませるという手順をとることが多い。

少し前に桜澤まみさんのお祭りの出し物を観劇しながら、ストリップというのはお祭りだなと思うものがあった。

つれづれに考えてみた。

 

 お祭りというのは華やかであるがゆえに、その裏に儚さみたいたものを感ぜずにいられなくなる。(語感として、華やかは儚さに通じるような気もする)

 大学の卒業式の日、仙台で、気の合った仲間と朝まで飲み明かした。早朝4時過ぎにお店を出て、白々と明けていく中で、友人の一人がぽつりとつぶやいた。「お祭りは終わったな」。その言葉がやけに脳に染み込んだ。大学四年間という時期はひとことでいうと「人生におけるお祭り」だったのかもしれない。お祭りの後は、みんな社会という場に飛び込んでいかなければならない。

 ストリップも一時の安らぎの場であり、見終わった後は、生活の場、仕事の場に戻っていかなければならない。ストリップは単に祭りの場をお客に提供しているに過ぎず、そこは祭りという非現実の世界なのである。例えば、劇場内では踊り子さんを友達感覚や恋人感覚で接してもいいが、現実に友達や恋人にはなりえない。それを現実の場と勘違いすると、生活や仕事を壊してしまう。お客はこのことをしっかりわきまえなくてはならない。

 

 もう少し、「ストリップというのはお祭り」ということを考えてみた。

 踊り子さんはまさに神輿的な存在。多くのファンから祭り上げられている。

 ひとりの女性が多くの男性ファンを囲っている状態。まるで一妻多夫制の世界。別の言い方をすれば、女王様にかしずく奴隷たち。そこは現実とは乖離した特殊な世界である。

 祭り上げられる踊り子さんとしては最高に気分高揚。しかし、ファンとの間は契約が存在しているわけではなく、堅牢強固な神輿には程遠い。男性側が一方的に想っているに過ぎず、それは極めて脆い関係とも云える。

なぜなら男性側の想いというのは気まぐれであるからだ。

 その踊り子さんに魅力を感じなくなると簡単に離れていく。自分に対する愛嬌や気遣いみたいなものが無くなったと思ったら、別の踊り子さんに気を移すというのはままある。しかも、新人が毎週デビューしてくるのだから、移り気な男性を自分のところに留めておくのは大変なことだと思う。

 

 踊り子さんも、ファンとの関係はそういうものと割り切る必要があると思う。よく、いつも自分のファンだと思っていた方が急に他の踊り子さんの方に移っていったとか、ポラを撮ってくれなくなった、ステージを観てくれなくなった等の苦情を聞くが、ある意味、そんなもんと割り切り、あまり気にしないことだ。いちいち気にしていたらストレスがたまって大変。逆に、気まぐれだからこそ、自分の方に流れて来るファンもいるわけだから。

 

 そういう中で、踊り子さん自身として心掛けておくことは、

①    芸を磨くこと。たしかな芸は必ず認められる。

②    ファンを大切にすること。心遣いは必ず伝わる。

③    1日1日を大切にすること。

きつい言い方だが、踊り子さんの美は永遠・絶対ではない。老いは誰にでも必ずくる。いつまでできるか分からない仕事柄、今この一瞬を輝かせるために1日1日を大切にしなければならない。

④  「1人でも見てくれる人がいる限り頑張ろう」と思うこと。最後はこう割り切って笑顔で頑張るしかない。そうすれば必ず認めてくれる人はいる。

 

 少し気に障ったことを書いてしまったかもしれません。ごめんなさいね。

 でも実際に、ファンの気まぐれで凹んでいた踊り子さんがいましたので。

読み流していただければ結構です。

 

 

平成21年2月                            浜劇にて