前に「見えない手」という話をしましたが、「見えない手」があるなら「見えない足」というのもあるのかな、と考えました。(笑)

 えぇ~! 変な足が伸びてきたら大変! と思われるでしょうが、実際はそんなことはありませんからご安心のうえ読み進めて下さい。

 

「見えない手」が純粋な愛の目なら、「見えない足」とはエロい邪まな目かな。

 以前、ある新人の踊り子Rさんに目線の話をしたとき、「太郎さんのお手紙に書いてあったステージでの目線についてすごく考えさせられました。ステージの上でも目線をどこに置こうかしらってついつい気になりながら踊ってました。ふとベッドの時、肝心の太郎さんはどこを見てるのかなと思ってちらっと横目で見てみたら、あれあれ、太郎さん、私のあそこをじーっと見てた! 太郎さんのエッチ! でも許してあげる」というお返事が返ってきて思わず慌てたことがある(苦笑!)。

いいわけはしません。ストリップである以上、「踊り子があそこを見せて、客がそれを真剣に見る」というのは当たり前の風景。と言いながら、かなりの動揺。。。

 

私はもちろん踊り子さんのオープンは誰よりも大好きなので真剣に見てます(笑)。

 言い訳がましいですが、そのときの私の心理状態を解説します。踊り子さんが足を広げた瞬間、私は性器に目を釘付けにします。そして私の魂は踊り子さんの子宮の中に入っていきます。子宮の中で踊り子さんの愛に包まれたいという妄想かな。変なことを考えているのねと思われるでしょうが、ベッドでは私はそんなトランス状態に入っているのです。

 

 あらためて、「見えない足」とはどんなものか考えてみます。

「見えない手」も「見えない足」もどちらも抽象的な表現です。「見えない手」という象徴こそがストリップとしての究極の愛だと話しましたが、「見えない足」というのは本当に邪まな愛なのかなと感じます。

 男の人は相手の女性に色情を抱くと、真ん中の足が自然に伸びてきます。しかし、これは神様が男性として本能的に創りたもうた構造です。イエスの言葉に「おおよそ色情を抱いて女を見る者は、すなわち、姦淫を犯すなり」というのがありますが、私にはこのこと自体で罪にはならないと思います。男が好きな女に自分の子孫を残したく色情にて抱く行為は神様が創ったものです。このことを否定したら人類そのものが成り立ちません。

 私は性そのものは素晴らしいものだと思います。ただ、人間が人間であるためには、性の素晴らしさを知りつつ、それをオブラートに包んで生きていかなければ、一般の生活が成り立たないのです。ある種、みんなスケベなのですが、上手に仮面をかぶって生活を営まなければなりません。ストリップという場は、その仮面を少し外して、ほんとうの顔をさらけ出す場なのだと私は感じています。

 フランスの詩人ボードレーヌが「もし目で殺人が行えるなら街頭には屍体がゴロゴロ転がることだろう。そして、もし目で姦淫が行えるなら巷には妊婦が溢れることだろう」と言っているが、まさに人間の本質を鋭く洞察しています。が、実際にはそんなことにはなりません。人間には理性があり、そうでないところが動物と一線を画していると考えます。

 

 またいつものごとく小難しい話になってきましたね。ごめんなさい。

 私は踊り子さんには目で犯すような激しい視線は送れませんが(もう歳ですから(笑))、でもステージ上で輝く踊り子さんを「見えない手」と「見えない足」で一生懸命抱きしめることはできます。

 

 

平成21年10月