以前、ある踊り子さんからこんな質問をされました。
「太郎さんが踊り子さんを好きという感情はどんなものなのですか。踊り子さんには触れることができませんが、男の人にとって触れられない愛ってどうなんですか」
この質問に対して、これまでもずっと考え続けてきました。
ある踊り子Aさんに出会って、Aさんのステージを見ながら、おぼろげに見えてきたものがありました。
Aさんに会いたくて仙台から何度も足を運びました。自分的には長距離恋愛を楽しんでいる気分です。
Aさんはいつも満面の笑顔で迎えてくれます。あぁ~会いに来て良かった!と思う瞬間です。
私は持参したお手紙に、更にいま思いついたことを余白に書き込みます。この自筆のコメントがその踊り子さんに対する本当の私の手紙でもあります。ふつうはご挨拶程度しか書かないのですが、Aさんに対しては結構熱い気持ちやその場で浮かんだつまらないジョークも書いてみたり。その一言一言をちゃんと読んでくれて、そしてAさんはしっかり返答してくれます。しかも私がメロ×2になるくらいに嬉しい言葉が並んでいます。その言葉に対して、次のステージまでAさんのことをずっと思いながら、また色々書いていきます。それを一日4度繰り返していると、まるで朝から晩まで一日中Aさんと楽しいデートをしている気分になります。
楽しく会話して、私のつまらないジョークを喜んでくれ、そして時に大きくて綺麗な瞳で見つめられ、時にすてきなヌードを眺めながら、心弾むデートの時間が過ぎていきます。
私は前から、ストリップの最大の楽しみは、お気に入りの踊り子さんと仲良くなり、擬似恋愛を楽しむことだと云ってきました。それは劇場内、観劇時間内という、限定された時空間でのトランス状態。私はそれを求めてずっとストリップ通いをしていると言っても過言ではありません。
Aさんに出会って、その楽しみを最大限享受しています。
ストリップというのは触れてはいけない風俗です。他の風俗は射精だけを目的として直接的な接触も可能です。ところが、ストリップというのは(一部のタッチショーを除いて)踊り子さんに触れることができません。ただ観るだけです。
従って、踊り子さんを愛する仕方としては、目で愛する方法しかありません。好きな踊り子さんに会いたくて劇場に足を運び、ステージを通じて応援する。それは好きな人を「見守る愛」です。ふつう好きな異性ができると自分のものにしたくなりますが、踊り子さんはみんなのものですから、自分だけのものにはできません。そのため、好きな踊り子さんが気持ちよく踊れるように、ひたすら見守ってあげようという気持ちです。これはストリップにしかない、愛のひとつの形です。
本当に純粋な愛とは本来プラトニックなものだと思います。私は妻を愛し、直接的にSEXもし子供も生まれ、これはこれで大きな愛ではあります。しかし、誰の胸の中にもあると思いますが、実らなかった初恋やSEXに至らなかった恋愛の中に本当に崇高な愛を見ているのではないでしょうか。昔の文学者の中には異性との手紙のやりとりの中に本当の愛があったと懐古している人もいるくらいです。
見守る愛とは、極めてプラトニックなもの。リボンさんがひたすらお気に入りの踊り子さんのためにリボンを巻き、そして投げる。この中にも無償の愛があります。リボンさんの中には俺が俺がという方がいますが、残念なことに我が入ってきた瞬間にそれは純粋な愛ではなくなります。
さきほど、ストリップは触れられない愛だと言いました。ところが、Aさんを見ていると、見守るだけではなく、抱きしめてあげたくなります。この衝動は「見えない手」となって、ベッドの上のAさんを優しく抱きしめます。私の魂が抜け出し、Aさんを包み込みます。今回、初めてそんな感覚をおぼえました。
好きな踊り子さんに会えた喜び、すてきな裸体を近くで感じられる感激、素晴らしいステージから得られた感動、こうした全ての感情を踊り子さんと共有したいと思う。心で観て、心で感じているからこそ、心を伝えたい。私の魂と踊り子さんの魂を重ねたい。そんな願望が「見えない手」となって、大好きな踊り子さんを包み込もうとする。そこに、ストリップにおける最高の愛があるように思えるようになりました。
「見えない手」というのは抽象的な表現ですが、この「見えない手」という象徴こそが私にとっての究極の愛と思えてなりません。
平成21年10月