人間の魅力を語るうえで「懐かしさ」というのがひとつのキーワードになる。
男女を問わず、相手に対して、懐かしさを感じさせない人は魅力がないということである。
こと、ストリップというのは、よほど追っかけでもしない限り、ひとりの踊り子さんと会うのは数ヶ月に一回のペースになる。私のようにストリップ三昧していても、時に半年に一度、年に一度会えたというのも珍しくない。そうやって会ったときに「懐かしさ」をおぼえたら、彼女は自分にとって魅力ある存在になっている。
たしかにエロティックいっぱいで奮い付きたいほどの魅力をもつ女性もいるが、それはあくまで一過性のものであって、最後は「懐かしさ」のもつ、いつまでも側にいたいという魅力にはかなわない。
長くストリップ通いしていると、「懐かしさ」を感じる踊り子さんが増えてきた。そして、そういう踊り子さんと仲良くさせて頂いている。
おそらく、踊り子さんにとってもお客に対して抱く感情は同じじゃないのかな。
私にとって、もっとも身近な異性といえば女房になる。帰省するたびに会っているわけだが、最も「懐かしさ」を感じるのは間違いなく女房である。
単身赴任をしてかれこれ一年半になったが、恥ずかしい話、最近、女房が愛おしくてたまらなくなった。前は、子供を三人つくったため子育てで忙しく私が甘えたくても全然相手にされないし、なにかと小うるさいことは言うし、毎日顔を会わせているのにしっくりいかなかったこともあった。今回単身赴任して初めて女房と離れて暮らしているわけだが、独身以来の久しぶりの家事をしながら改めて女房のありがたみが感じられる。けっして食事に困っているわけでも、家事が面倒だと感じているわけでもないが、これまで当たり前のようにされていたことを今は自分でしなければならなくなったわけだ。これまでは考えなくても出てきた食事を、今は毎日なにを食べようかなと迷う。好き嫌いが多いため、余計偏った食事になっている。たまに帰省して食べる女房の食事が一番美味しいし、家族で食べる食事がなによりも楽しい。
たまにしか帰らないためか、夫婦間でお互い嫌なことはあまり言わなくなった。私も、家にいる間は自分のことはなるべくしないで家族と過ごす時間を大切にしようとしている。思えばこれまでは部屋にこもって、こうした文章を書いたりしていることが多かった。今は家族との会話や、一緒にテレビを見たりする時間が多い。
「お父さん、コーヒー飲まない?」「お茶にする?」と言って、女房が出してくれる飲み物にたまらないほどの幸せを感じる。
変な話、夜の方までしっくりいく。もう子供たちも大きくなって手が離れたこともあってか、帰省するたびに喜んで(?)相手をしてくれる。女房の香りの中で就寝するのが幸せの極致。
最近あらためて「結婚とはなにか?」と自問し、「好きな人といっしょに居られる権利を与えられた喜び」かなと思う。今は単身赴任で離れているが、ただ帰省したら、堂々と女房の側に寄り添っていられる。そういう権利?が与えられている。たしかに結婚していなくても好きな人の側にはいられるだろうが、結婚していればそれは自然な形として社会的に認められるわけだ。
一緒にいることが喜びであるならば、それ以上相手になにかをしてもらうことを期待してはいけない。なにかをしてあげることを喜びに感じなければならない。だからこそ、「お父さん、お茶を飲む?」という女房の言葉にたまらない幸せを感じるのだと思う。
私は単身赴任で夫婦の間に距離を置くことでそのことを知った。
またストリップに通い、踊り子さんには女房にない魅力を感じるが、だからこそ女房の魅力を再認識させられることもある。ふたつの魅力は全く別次元のもの。男の身勝手な考え方であるが私にはそう思える。ストリップ通いを自慢することはできないものの、だからといって悪いことをしている意識は全くない。男にとってエッチであることは枯れていない証しであって生きているエネルギーの源だと思っている。ストリップ通いしたからといって妻への愛情が薄れるわけでもなく、逆にこうして高まっている。
最近、帰省するたびに花屋に寄って、なにげに妻に花を贈るようになった。きっとストリップ通いしている後ろめたさからかな。なお私は踊り子さんに花を贈ったことはない。そのへんに一線を引いているのかも。(笑)
ただ、女房に、いくらストリップは浮気じゃないしエロでもないと説明したところで、女房がストリップの魅力を理解できるとは思えない。万一女房にストリップ通いを拒否された時には、きっぱりやめなければならないだろうとの覚悟もしている。
誰が自分にとって一番「懐かしい」そして大切な存在であるか、を知っているがゆえに。
「懐かしさ」という話題が変な方向にいって、全くプライベートな、しかも惚気話までしてしまいました。大変失礼しました。
平成19年1月 仙台ロックにて