私のストリップ日記から仙台ロック編をご披露します。
H18年8月の仙台ロックの出来事を話します。
八月の暑い日のこと。いつものように会社帰りに仙台ロックに寄った。
いつも笑顔で迎えてくれる従業員のKさんが今日に限ってやけに険しい顔をしている。すぐにKさんの方から話しかけてきた。当日の朝、仙台ロックに泊まっていた同じ従業員のOさんが布団の中で死んでいたとのこと。Kさんが第一発見者で、日中は警察が来たりと大変だったようだ。当日は休演にしようかとも考えたが、興行初日でもあったので社長の判断で開演することにしたという。
Oさんの死因はなにか? 人に聞くと皆が口をそろえて「彼は肥りすぎだったからなぁ」と言う。彼は元相撲取りだったらしく、あの巨体を見てなるほどと思わされる。しかし、相撲をやめたら普通は痩せるものだが、彼の場合は全く痩せなかったところに問題があったようだ。他にも喘息持ちで、場内マイクの声がよくしわがれていた。
それにしても、劇場に来るたびに、あの大巨漢がいつもニコニコ顔で私を迎えてくれた。単身赴任の私にとって彼の存在はすごく癒しになっていた。Oさんは独身だったと聞いて悲しむ家族が少なくてホッとするものがあったが、今さらながら私は彼のことを知らないことに気付いた。毎日のように会って慰められる存在だったのにもかかわらず・・・。
ストリップ劇場というのは場の性格上、お互い自分の素性は話さない。相手が話すまでは名前すら聞けないところがある。お互い、一種の現実逃避という形で楽しみにきているわけで、現実のしがらみから一切開放される場であるがゆえ、お互い素性を知らなくても一向に構わないところがある。そのため、恥ずかしい話、私はOさんの名前すら今回初めて知った。
踊り子さんも同様。ファンと踊り子として親しくなってもお互い立ち入った素性は知らない。ストリップというのが虚構の世界であるならば、むしろその方がお互い好都合なのかもしれない。踊り子さんが引退すれば、お互いひきずるものは何もなくなる。
ストリップという場はそれぞれが自分の顔を隠して楽しむ仮面倶楽部ともいえそうだ。
非常にドライな世界であるが、一方でまさに裸の世界であるがゆえに己の本性を恥ずかしげもなく出せる場でもある。だからこそ、そこに癒しと快楽を求めることができる。
生きていくうえで、こういう場があっていいと思う。自分という一人の人間は、現実の世界では当然多くの人に支えられながら生きているが、こういう虚構の世界でも実は多くの人に支えられて生きている。きっと私は自分が知らない沢山の方に支えられて今を生きているんだろうなぁ、と思わずにいられない。
合わせて、Oさんの死を前に、「生きていること」の実感を改めて感じるものがあった。
正直にいうと、私は生に対する執着がほとんどない。いつ死んでも構わないという割り切りみたいなものがある。38歳で死んだ敬愛する宮沢賢治の命日(9/21)に、いつものように早朝五時ごろに早起きをし、書きものをしながら「あぁ、賢治さんはこの日に亡くなったのかぁ。私はこの先まだまだ生きていくことになるのだろうが、今からの時間は賢治さんにとっては余生になるんだな。これから先は私にとってもプラス・アルファの時間と考えよう。いつ死んでもいいように生きていこう」と思うものがあった。
かっこよく言えば「無為に生きる」とでも言うのかなぁ。悪く言えば惰性的に生きることになるが、良く言えば肩肘のはらない楽な生き方ともいえる。
一生懸命にがむしゃらに生きてきて、ある日突然、生きることに虚しさを感じることって人間誰しもありますよね。なんのために頑張っているの? 家族のため? 自分のため?・・
「無為に生きる」というのもひとつの解なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、40歳になってすぐにストリップに嵌まってしまったというのも面白いことだ、と改めて思う。死ぬ前にストリップ三昧したかったのかなぁ。。。(笑)
今の私にとって、ストリップが生きる元気、心の張りを与えてくれているのは事実。
人はなんのために生きているの?
一般的に、長いタームで人間をとらえると、生きる目的のひとつは「子孫繁栄」。結婚し子供をつくり自分のDNAである子孫を後世につないでいくのが人生の大きな作業である。もうひとつは「社会貢献」。自分が生を受けたこの社会に対し仕事を通じて恩返しをする。家族を養うためにも仕事は不可欠。この二つの目的のために人間は生きている。
しかし、生きる目的を真正面から考えるとつらくなる。長いタームで見ればそうかもしれないが、短いタームでは小さな目的をもってこつこつ生きていくしかない。もっというなら、目の前の目的すら見つけ出せずに漫然と生きている人もたくさんいる。
人は目的がなくても生きていかなければならない。目前の目的がなくても、長いタームでは存在意義があるわけだから。とは云いながら、目的を見失った人が生きていくのはとてもつらいことだと思う。虚しさというのはそういうものだ。目的が無いからこそ「空しさ」とも書くのだろう。「無為に生きる」というのは目的からの開放を意味する。
ストリップというのが、そういう人々に少しでも生きるための便(よすが)になっているとしたら素晴らしいことだ。少なくとも今の私にとって、ストリップが「虚しさ(空しさ)を忘れさせてくれる時空(時間/空間)」になっている。空しさにエネルギーを補給してくれる救いの場。ストリップの存在意義は私のような者にとって極めて大きくなっている。
あらためて考える。今自分が死んだら、どれだけの人が悲しむだろうか?
すぐに浮かぶのが家族のこと。私も人並みに結婚して3人の子供に恵まれた。これに関してはただただ有難く、また悔いがない。これから先の余生は家族のために捧げたいと常々考えている。
踊り子さんはどうかな。私がある日突然いなくなって悲しむ方はいるのかな??
宮沢賢治はその書き残した作品によって死後も存在を輝かしている。私がせっせと踊り子さんにお手紙を書いているのは心の片隅に自分の存在を残してほしいという想い、つまり生きた証しを求めているのかもしれないな。
長くなってしまったが最後に、、、
「無為に生きる」とはいっても生を粗末に扱ってはいけない。
8月は誕生月なので会社の健康診断があったが、その健康診断の結果を見て驚いた。成人病すれすれの数値が並んでいた。単身赴任からか、飲みすぎ、不規則・不摂生の生活が原因。節酒するようにと、40代になってからずっと会社の健康管理士に注意されている。仙台に来て、私と同じ単身赴任でいつも酒の匂いをプンプンさせている酒飲みの健康管理士が私のところにやってきて、真剣な顔で「この数値は飲兵衛の私よりも悪いですよ。病院で再検査して下さい」と言ってきた。
さすがの私も真面目顔になった。ちょうどOさんの死というショックと重なった。
そこで一大決心をした! 「お酒は(ちょっと)控えよう」
お酒は学生時代から欠かさず毎日飲んでいる。接待もあるので全くゼロには出来ない。そこでストリップを観た日には飲まないということに決めた。ストリップで楽しんでいるのだから、酒の楽しみは我慢しなければならない、と心に誓った。
ここのところ、どうにか続いている。飲む日が二分の一から三分の一に減った。できるだけ多くの休肝日を設けることが大事。なんとかこれで乗り切りたいと励んでいる。
今やストリップは私の健康管理の支えにもなっている。
私は仙台に来て、かれこれ一年が経った。仙台ロックがあるお陰でどれだけ救われていることだろう。踊り子さんには足を向けて寝れないというか、寝る前にいつも劇場に足が向ってしまう(笑)
私のように、ストリップを心の支えにして生きている人がたくさんいるはず。踊り子さんの存在意義はとても大きい。踊り子さんには、これを励みに頑張って欲しいと思う。
最後に、謹んでOさんの冥福を祈る。
平成18年8月 仙台ロックにて
