今回は、東洋の踊り子・渚あおいさんについて「白い肌と赤い縄のエロティズム」と題して語ります。
久しぶりに「あおなぎノート」を書きたくなったよ。私のストリップ日記に、大好きな渚あおいさんの成長記録をしっかり残しておかないとね。
只今H28(2016)年11月11日、私は大阪東洋ショー劇場にいる。今週は、渚あおいさんの五周年週。あおいさんは、2011年11月11日という記念すべきゾロ目の日に大阪東洋ショー劇場でデビューしているから数えやすい。
いつも若い若いと思っているあおいさんももう六年生になるのか・・感無量だぁ。今や東洋の中堅クラスになったね。
そうそう、あおいさん、TV出演したんだね。びっくりしたよ。先日スト仲間から関西の深夜番組「WAZA WAZAわざわざ言うTV」のCDを貸してもらった。「マギー&黒田 ストリップ劇場に潜入!」というレポで、渚あおいさん、吉田花さんが出演しインタビューを受けていた。TSの春野いちじくさんもチラッと出ていたので今年H28年7月中の公演の記事か。あおいさんはTV出演したから、もう有名人だね。(笑)
そうそう、今回の東洋で、渚あおい五周年記念写真集「Like An Angel」by Kinoko Hajimeが販売されていた。なんと緊縛写真集!妖しいまでの渚あおいちゃんの姿がいっぱい。以下に、このことについて触れていく。
あおいさんはデビュー当時はぶりぶりのアイドル路線で売り出したが、次第にステージの内容が変わってくる。まさに成長の証である。
一般に、ストリップでベテランの域に入ってくると、若い新人さんには負けまいと、踊りを極めようとする人、独自の芸を磨こうとする人などが出てくる。後者では最近、浅葱アゲハさんや天羽夏月さんを代表とするリングや布などの空中ショーが流行している。あおいさんが挑戦している吊り縄も空中ショーのひとつ。また、この吊り縄は昔からあるSM自縛ショーでもある。彼女がこれに取り組むきっかけはSMパフォーマンス系の栗鳥巣さんとチームを組むことで伝授されたもの。
H27年1月に、初めて栗鳥巣さんと組んでチームショー「HU~☆JYOSHI」を演じた。だから吊り縄はまだ二年足らずの経験だが、それから次々と吊り縄系の演目を発表してきている。最初の「一心不乱」から「表裏一体(改)」、そして初めての自縛ショー「女鬼慕情」、最新作「ハピラヴ」と続いている。いまや吊り縄は彼女の代名詞になってきている。
また、最近は、あおいさんの女性ファンが多いのにびっくり☆ しかも、かわいい子が多く、私はあおいさんだけでなく彼女たちを見るのも楽しみ♡ 女性ファンが急激に増えたのは、今年の夏頃TSでSMパフォーマンス系の栗鳥巣さん、京はるなさん、美月春さんと一緒にチームショーを演じ、それをTwitterで漫画家に紹介され、人気が爆発した。その中でも、あおいさんの男装がかわいい&かっこよく、女の子の心を激しく掴んだようだ。今や熱心なストリップ女子が連日劇場に顔を出すようになってきた。
今回は吊り縄に絞って話を進める。
空中ショーができること自体、その運動神経の良さに驚嘆するところ。
そこに目が行ってしまいがちだが、その前に冷静に、あおいさんの吊り縄の魅力を語りたい。あおいさんのストリッパーとしての最大の魅力は、かわいいルックスと透き通るほどの白い美肌にある。
そのため、白い肌と赤い縄の色のコントラストが絶妙の味を出す。白い肌に食い込む赤い縄のエロティズムは絶品である。SMに興味がある人には涎垂ものだろうな♡
責め絵って知ってるかな。縄で縛られた女性等を描く日本版SM系残虐絵なのだが、その世界を確立したのは伊藤晴雨という画家。
伊藤晴雨(いとう せいう 1882明治15ー1961昭和36)は、大正から昭和にかけて「責め絵師」として責められた女体美を生涯描き続けた異端の画家です。
出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。なんと9歳の頃に、両親に連れていかれた芝居にて、女性の折檻シーンや乱れ髪に興奮する。今でいう髪フェチで、女の髪の匂いに言いしれぬ喜びを感ずる少年だった。この三つ子(九つ子?)の魂が彼の一生を貫く。
25歳から新聞社に勤めて、挿絵や評論を書くようになる。
27歳で包茎手術を行い、竹尾という女性と一度目の結婚をする。この頃から挿絵画家としての地位を高めていく。稼いだ金はすべて酒と女など遊興に費やしていた。
34歳でお葉をモデルに責め絵を描く。お葉は13~15歳の三年間、晴雨のモデルとして、また愛人として過ごす。ところが、お葉は15歳の時、モデルとして竹久夢二に紹介され、夢二に気に入られ同棲するようになる。(この愛憎劇は知る人ぞ知る有名な話)
お葉と別れることになった伊藤晴雨だが、37歳で、お葉が原因で女房の竹尾と正式離婚。その後、二度目の妻となる佐原キセと所帯を持ち、彼女をモデルに残酷画を描き続ける。39歳で「妊婦逆さ吊り」の実験を行う。彼女も、また美術学校のモデルで24歳。キセは元々そうした性癖があったので、晴雨の要求に協力的でした。10年後キセは、晴雨の食客として置いておいた早稲田出身の文士の卵といい仲になり晴雨の元を去る。三度目の妻は「雪責め」のモデルを務めた。彼女は梅毒症にかかり三年の闘病生活の末、発狂して亡くなる。医療費がかさみ、借金に追われるようになる。その後、晴雨は生涯妻帯しなかった。
めちゃくちゃな人生である。でも、どこか共感させられるところがある。
晴雨自身はすごくストイックな男だと思える。27歳のとき、劇評家の幸堂得知の仲人で結婚することになったので、慌てて挙式三日前に包茎手術をしている。それまで童貞だと言うのだから女を知るのが遅すぎる。しかも、初めて女を知って落胆している。
それからの晴雨は、おそらくは芝居や絵画の中の理想だけを追いかけた。この点、私がストリップを通して自分の童話の中に女性のエロティズムを表現したいという感覚に通じる。ただ、私もエロは大好きだが晴雨が表現するものとは違う。彼が追求しているのはエログロ路線であり、私の追求するファンタジーやジョークの世界とは全く違う。
ただ、彼の求める「エログロ⇒悪」の匂いはあくまで表現される悪、演出される悪であって決して罪になる悪とは思えない。晴雨の出版物は世間の批判を浴び、何度も発禁になったり、本人も何度か警察に留置されたり巣鴨刑務所に収監されたりしている。しかし、彼が出版した『いろは引・江戸と東京 風俗史 全六巻』は風俗史を語る名著とされ、出版禁止になった『責めの研究』は学術的評価が高いものと言われている。
彼は責めの研究を続ける中で、責め場のある芝居を観て歩いたが、大正末になると責め場のある芝居が少なくなり、ついに自分で芝居を組織する。「私がそのとき望んでいたものは、舞台の残虐美の実現であった。女の責め場を美しい女に演じさせる脚本を自ら作り、自ら演出し、自ら背景を描き、自ら興行主となり、大道具方となり、作者となり、諸事万事一切自分の手でやって行くという方針の小劇場を作った」なんというマルチな才能と行動力だろう。
晴雨の弟、順一郎は、兄を「外では放胆な奇人で通っていても、自分の仕事を見る目は厳しい、たいへん努力家でした。」と言う。
晴雨の娘の菊は「父は何事にも徹底してました。わからぬことを、そのまま投げだしておくのを嫌い、調べのつかぬことでもそれなりに必ず心に留めておくように全て常日頃頭を使い、足を使い、目を大きく見開いて物事を注意深くわきまえるように教えられました。」「良いところと悪いところが極端で、真ん中がなかったというのが父の姿だったんでしょうか」と言っている。実の娘が晴雨のことをこれだけ理解してあげていて、最後に看取ってもらえたなんて幸せなことだね。
晴雨を小説の題材にした瀬戸内寂聴さんの言葉を借りて言えば、「人に評価されるために生きるのではなく、自分がどう生きるか」だと。晴雨は「変態画家」「奇人」と言われるも、そんな世間の風とは全く違う場所で、自分らしく生きた人と考えることもできる。大きな賞には恵まれなかった晴雨ではあるが、彼は自分の一生にきっと満足だったことだろう。
実際、いま現時点で世間一般として彼の業績が高く評価されているわけではないが、彼の作品や生き方に共鳴してやまない一部の人たちがいて、彼のことを取り上げてたくさんの書籍や演劇・映画で紹介している。また、彼の書いた絵画は、今でもかなり高い値で売られているみたいだ。中でも、ハリウッドチェーン社長、福富太郎氏は有名なコレクターだ。
以上、伊藤晴雨について調べたことをまとめてみた。私はSMについて造詣を深めるつもりはないが、彼の生き方には深く共感する。私もここまでストリップ道に嵌まってしまったからには晴雨のようにとことん貫きたい気分だ。
平成28年11月 大阪東洋にて