この童話をお世話になった坂総合病院のスタッフの皆さんに捧げます。私の最新作です。
はじめに
私は岩手県出身の初老の男だ。これまでありふれた会社人間だった。ようやく37年間務めた会社を定年退職したばかりで、これから趣味の執筆活動で小説でも書けるような悠々自適な生活ができると思っていたが、退職早々に脳梗塞という大病が待っていた。
日中めまいを覚え、救急車で緊急入院。どうにか一命はとりとめた。しかし、闘病生活は私の人生を一変させた。喉の機能がやられ、言葉が発せられず、食べられない。なによりもショックだったのは手足の自由が全く効かなくなったこと。まるでダルマ状態。寝返りもできないままベッドに寝ているだけ。腕には点滴、鼻から酸素吸入、栄養と水分を胃に送る管を鼻から挿入。まるで管だらけの植物人間だ。
そのうえコロナ禍で、家族とは面会謝絶。一人ベットの上で孤独を噛みしめていた。このまま生きていても、これから先はなにも出来ない。なにより生きていることで家族に多大な迷惑をかけてしまう。死んだ方がましだとまで考えるようになる。
治療やリハビリで、どうにか喉の方は幾分回復し会話や食事ができるようになる。しかし、手足の回復は進まない。
そんな中で、私の楽しみはスマホから流れてくる大谷翔平選手の活躍だった。スマホは声だけの操作でユーチューブが聞けた。そこで展開される大谷翔平選手の一投一打一走に私は歓喜し沢山の勇気をもらった。生きる支えと言ってもいい。
実は、岩手出身の野球選手で活躍されているのは大谷翔平選手だけではない。3年先輩の菊池雄星投手も大リーグにおり、7年後輩の佐々木朗希投手は現在ロッテマリーンズでノーヒットノーランを達成するなど大活躍中。また現役の高校生である佐々木麟太郎も大器の片鱗を見せている。
世の中では何故に岩手からこれだけ優れた野球選手が次から次へと出てくるのか不思議に思っている。それについて、私なりにつらつら考えてみた。
私はたまたま岩手県出身の宮沢賢治を敬愛している。大谷翔平と宮沢賢治を絡めて、ひとつ童話を作ってみよう。題名は『大谷翔平はデクノボウ』だ。なかなかインパクトのある題名でしょう。(笑)
デクノボウという言葉は一般には「図体ばかり大きいが役に立たない」などの悪い意味でとらえがちなので、ファンの方は大谷翔平選手に失礼ではないかとお怒りになることだろう。
しかし、ここで言うデクノボウは宮沢賢治のいうデクノボウ精神だ。愚直に生きることを意味する。詳しくは童話を読んでみて下さい。
なお、最終的には題名を童話『大谷翔平選手は宮沢賢治のデクノボウ!』と誤解のないように改めようと思う。(笑)
前置きが長くなって恐縮だが、最後にひとつ。
大谷翔平選手たちの活躍により、現在の野球少年たちは日本のプロ野球ではなくアメリカの大リーグを目指すようになった。今では多くの日本プロ野球の選手たちが大リーグに挑戦している。
ところで、大リーガーへの最初の架け橋となったのは野茂英雄投手だ。まるでお尻で投げているようなトルネード投法で大リーガーたちからバッサバッサと三振をとっていた。
実は野茂選手のことはアマチュア時代からよく知っている。というのは彼は私と同じ会社だったからだ。彼は新日鐵堺の野球部に所属していた。野茂は午前中のみの勤務で、午後からは野球の練習という日課。研究開発部に席を置き、もちろん責任ある仕事は与えられず、コピー取りなどの簡単な仕事をしていた。身体が大きく、特にお尻の大きいことが特徴で、まるでお尻が歩いているかのように見えた。まさしくデクノボウのように見えたのか、社内の女性たちは誰も相手にしない。高卒の女性事務員並みの最低の給料だ。私と同じ総務部所属で仲良しのM君がいて、彼が野茂の採用を担当していた。M君は野茂のことを気遣い、会社の独身寮にいた彼の部屋を訪ねて酒などを差し入れたりした。野茂に「一緒に飲も!」と言ったかどうかは分からない。(親父ギャグ) 何度か外で飲みに連れていって奢ったようではある。あの野茂に奢ったことがあるというのがM君の自慢話だ。
野茂は都市対抗野球で大活躍し一躍ドラフトの注目株になり、近鉄バファローズに入団する。契約金1億円と聞いて、周りの女性たちが地団駄を踏んでいた。(笑)
そうそう、五千円紙幣になった新渡戸稲造は、政治家として太平洋の架け橋になったが、岩手出身の偉人。あの名著『武士道』を書いた人だ。
野茂英雄投手も新渡戸稲造もみんな、大谷翔平選手と同じく、デクノボウ精神で繋がっているように思えてならない。
前置きがすっかり長くなってしまった。さっそくお話に入る。
第一章 イーハトーブ・プロジェクト
これまで東北や北海道など雪の多い地方は、年内の積雪期間が長いため屋外での練習時間が制約されるなどの弊害で、甲子園では優勝に縁がなかった。岩手県も例外でない。そこで、高校野球を強化するため岩手県野球連盟で、ある企画が提案された。それがイーハトーブ・プロジェクトである。
岩手のイーハトーブという土地に、学校を創り、そこで子供たちを自然に触れながら伸び伸びと育て上げる。それが教育の基本理念。
その際、野球に興味を持つ子供は野球部に入れて訓練する。決して強制などはしない。あくまで本人の自主性を重んじる。当然ながら野球の指導スタッフは揃えているが、野球に限らず人間教育のスタッフは選りすぐっている。
ところで、本プロジェクトを発足させるにあたり、重要視されたのは指導者の養成だった。岩手県の野球が弱いのは、決して岩手県出身の選手が他県に比べ劣るわけではなく、いい指導者がいないことに尽きると認識していた。そこで、若き指導者候補を選び、関東や関西の強豪校の視察に行かせた。そこでは全国から優秀な選手を集めて徹底的に競わせて訓練させていた。そこでのモットーは「勝つこと」、ライバルにも試合にも全てにおいて勝つことが一番と教えられていた。
若き指導者たちは「これでは岩手の野球が勝てるわけがない」と思った。と同時に、「このやり方は本当に正しいのだろうか。岩手にはもっと別のやり方があるのではないか。」と考え始めた。
そこで彼らは岩手に帰ってから、すぐある人のもとに相談に行った。ある人とは本プロジェクトの主要メンバーで、後に学校長になる人。その人は次のように語った。
「子供たちの『ほんとうの幸せ』はそこにない。そこにあるのは大人の欺瞞と自己満足だけだ。競争ばかり煽ると、子供たちは心身ともに疲弊し壊れてしまう。」「岩手は絶対にそれを真似したらいけない。」「子供にはそれぞれに個性がある。その特徴を理解した上で一人一人個別に指導していかなければならない。」それを受けて、みんなで議論を始めた。
岩手の良さは自然の豊かさにある。だから、子供たちには自然に触れながら伸び伸びと人間形成してほしい。野球はそのひとつの手段に過ぎない。野球が最終目標でもなく、野球ができなくなっても、その思い出を礎にして立派な人間になってほしい。
そのためには、指導者が子供たちを野球でしごくのではなく、子供たちが野球が楽しくてたまらないから自ら上手くなりたくて練習するように指導する。
以上をもって、岩手の野球の指導方針とすることを結論づけた。
各指導者たちは帰りしな、子供たちの『ほんとうの幸せ』とは何かなと呟くのでした。
改めて、イーハトーブという土地について説明する。名付け親は岩手が生んだ偉大な童話作家・詩人の宮沢賢治。
自然に恵まれた、空気がうまいところ。豊かな清水である北上川が流れ、岩手県民の心の故郷である岩手山が眺望される。
自然との触れ合いを第一義にしているので、子供たちは小さい頃から草花や木の実や昆虫の採集を体験する。また、山登りをはじめ、夏はイギリス海岸(賢治が名付けた)で川遊び、冬はスキー体験をする。その中で太陽の光、風、雨や雪など、自然から得られる五感を磨く教育を重視する。
広大な土地なので、その中では田畑を耕して家畜を飼うことで自給自足が可能となっている。生徒たちの知っている大人たちが援助しているので、まるで家族ぐるみで農業を営んでいる雰囲気。一緒に汗を流したり、動物たちとも触れ合う機会が多い。
生徒たちは皆、近隣の市町村から、銀河鉄道に乗って通学する。なお、高校生になり野球部に入れば寮生活となる。
第二章 イーハトーブ学園とデクノボウ精神
そのイーハトーブに創立された学校はイーハトーブ学園という。そこでは小学生から高校生まで一貫した教育体制となっている。
学園長には宮沢賢治が就任した。白髪白髭で仙人のような雰囲気をもつ。年齢不詳。 非常に変わった人と言われている。
広い園長部屋が与えられているが常に生徒に解放している。
自ら童話作家・詩人と言っているぐらいなので、大変な読書家で蔵書も多い。ちょっとした小図書館だ。
音楽も嗜み、特にクラシック音楽のレコードもかなりのコレクターだ。賢治の近所のレコード店は彼のお陰で成り立っていたほど。骨董品のような蓄音器まである。賢治は近くの農民たちを集めてよくレコード鑑賞会を行った。また賢治は演奏会にも参加し、本人はシェロの演奏もできた。
賢治は音楽のもつハーモニーが人間の絆を強めると思っていたようだ。仲間が欲しかったんだね。ところが実際には、農民たちは裕福な坊ちゃんである賢治に付き合ってられないとなかなか集まらなかったようだ。だから、独り淋しく童話や詩を書いていることが多かったんだね。ともあれ、子供たちにも音楽に親しんでほしいと考えている。
彼には、こうしたアーティストしての才の他に、科学者の面もある。天文学や地質学も詳しい。賢治は小さい頃には石っこ賢ちゃんと呼ばれるほどで、多くの石を採集してきた。
園長部屋には石の展示場まである。
こうした自分の得意な分野を積極的に子供たちに披露した。ただひとつ例外がある。
賢治は岩手大学の理系を専攻していたため、学生時代に鼠など小動物の解剖を行ったことが原因でベジタリアンになる。しかも彼の場合は肉や魚介類のほか、卵製品や乳製品、蜂蜜を含めた動物性食品を一切口にしない人『ビーガン』(完全菜食主義者)だ。そのため栄養失調ぎみなこともあり、それだけは真似させてはいけないと考え、生徒には丈夫な身体になるため何でも食べるよう指導している。
もうひとつ付け加えておく。賢治は宗教についてかなり造詣の深い思想家だ。動物は言うまでもなく山にも川にも木にも草にも「いのち」と「こころ」があることを教える。
大谷少年は好奇心が強かったので解放されていた園長部屋へよく遊びに行ったようだ。賢治は大谷少年の顔を見つけると喜んで、お菓子などをふるまいながら楽しく語った。
校是は『人を育てる』
岩手県はご存知のように山ばかりの風土で日本のチベットとまで言われる。昔から他県からも貧乏だとバカにされてきた。だからこそ、「米は作れなくても人を作る!」という気概を持ってきた。
その岩手の象徴的な代表者こそが宮沢賢治だ。
日本人なら彼の書いた「雨にも負けず」の詩を知らない人はいないでしょう。イーハトーブ学園の生徒はもちろん誰もが暗唱できた。
「雨にも負けず」 宮沢賢治
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して怒らず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい
宮沢賢治がベジタリアンなのがわかるね。ほんと米ばかり食べていたんだね。
この詩の中にデクノボーになりたいと出てくる。このデクノボウ精神こそがキーワードになる。農民のために少しでも力になってあげたい。そのためにも「愚直に生きる」というデクノボウ精神を説いている。
明治の大文豪・夏目漱石は『則天去私』という悟りに達した。己を捨て去り天命に則り生きるという意味である。デクノボウ精神とは『則天去私』という言葉に通じる。
第三章 イーハトーブ学園と野球教育
そもそもイーハトーブ学園は岩手県の野球を強化したいという目的で創立された。だから具体的には野球を通して人間形成できればと考えている。しかし、子供たちに一年生から野球を強制はしない。興味を持つまで待つ姿勢だ。実際に菊池雄星も大谷翔平も佐々木朗希も小学三年生から野球を始めた。
だから、野球をやらない児童・生徒もたくさんいる。学校側としては野球の素質ある子供をより早くから見つけ出し、その子の適正にあった指導をしたいというものでした。
イーハトーブ学園の野球の指導体制は次のようになっている。
小学生の部はリトルリーグ、中学生の部はミドルリーグと呼び、ここまでは大谷徹(大谷翔平の父親)が監督を務める。
高校生の部はシニアリーグと言い、いわゆる甲子園を目指す高校野球となる。ここは佐々木洋監督で、投手コーチとして國保陽平がいる。
優秀な指導者たちについては後に詳しく紹介したい。
彼らが野球を通した人間教育を徹底している。挨拶など礼儀作法、ゴミ拾い、トイレ掃除などは基本中の基本。これらが自然にできて運が巡ってくる。
先に、野球の指導方針について話したが、決して勝つことにこだわらず、野球を楽しむことに専念することを基本理念している。こうしたことが少年野球の心を失わないことに繋がっていく。
ひとつエピソードを話す。
リトルリーグの野球少年たちが集まって言い合っていた。
「ぼくはピッチャーがいいな。なんといっても、試合の主導権はピッチャー次第だからね。」
「ぼくは捕手が向いていると思っている。投手に対して配球の指示を出したり、味方の選手の守備位置を全て把握できるのでチームの頭脳とも言える。」
「ぼくは足に自信があるので外野手向きかな。盗塁も得意だ。」
「ぼくは器用で小回りがきくので内野手向きかもしれない。バントも得意だ。」
「ぼくはバッテング重視なので三塁手がいいな。長嶋茂雄選手のように恰好いい選手になりたい。」
「やっぱり野球をやるなら、目指すはエースで四番だ。」多くの野球少年がそう主張しました。その中に将来リアル二刀流となる大谷翔平もいました。
丁度そこに宮沢賢治園長が通りかかり、子供たちの声に耳を傾けた。そして、こう語りかけた。
「夢を大きく抱くことはいいことだ。ピッチャーもバッターもそれぞれ大変だから大きくなるとどちらかに専念し出すものじゃ。エースで四番を目指す志を失わないでほしい。」
「みんなにはデクノボウになってほしいな。デクノボウは少年野球の心じゃよ。」
さらに監督が一言付け加えた。
「野球は9人でやるスポーツだ。どのポジションが一番えらいなんて決められない。とにかくレギュラーは9人しかいない。しかし、選ばれたレギュラー9人はベンチにいる者、またベンチにも入れなかった者の気持ちも考えなければならない。代表になって試合に出るとはそういうこと。それが社会なんだな。みんなが社会に出る権利と義務を考えてほしい。」
みんなは素直に頷いた。そして園長と監督に丁寧にお辞儀をした。
第四章 大谷翔平はデクノボウ2号
さて、これまでイーハトーブ学園の野球選手でデクノボウの称号を受けた人は大谷翔平選手も含めて四人いる。
これまでデクノボウに表彰された生徒
デクノボウ1号 菊池雄星
デクノボウ2号 大谷翔平
デクノボウ3号 佐々木朗希
デクノボウ4号 佐々木麟太郎
デクノボウ1号 菊池雄星
大谷翔平の三学年上の先輩。大谷翔平は「僕にとって雄星さんは特別な存在」と語っている。
2009年の甲子園に出場し、左腕のエースとして岩手旋風を巻き起こす。春の選抜では準優勝、夏はベスト4に導いた。岩手県でも優勝を狙えることを実証した。
2010年から西武ライオンズへ。
2019年から大リーグのシアトル・マリナーズへ。
ただ今、大リーグのトロント・ブルージェイズ所属。
デクノボウ2号 大谷翔平
彼の経歴を簡単にご紹介する。
甲子園には、2年の夏と3年の春の選抜に出場している。甲子園通算成績は14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。なおアマチュア野球史上初となる160km/hを記録している。
2013年に日本ハムファイターズに入団。投手と打者の「二刀流」として活躍。
2014年には11勝、10本塁打で日本プロ野球(NPB)史上初となる「2桁勝利・2桁本塁打」を達成した。
2016年には、NPB史上初となる投手と指名打者の両部門でベストナインのダブル受賞に加え、リーグMVPに選出された。
投手としての球速165km/hは日本人最速記録である。
2018年からメジャーリーグベースボール(MLB)のロサンゼルス・エンゼルスに移籍。2018年シーズンから投打にわたって活動し、同年は日本人史上4人目の新人王を受賞。
2021年シーズンでは、2001年のイチロー以来となる日本人史上2人目(アジア人史上でも2人目)のシーズンMVPとシルバースラッガー賞を受賞している。
まさしく2021年は大ブレイクの年になった。特に前半戦のホームラン量産は凄かった。
8月18日時点で、40号本塁打を放ちホームランダービーを独走していた。
後半戦は打撃の調子を落としたことに加えて、一発を恐れた相手チームから勝負を避けられることも多く、本塁打王にはあと一歩及ばなかった。しかし、MLBでは自身初めて投打の二刀流として怪我なくシーズンを完走し、打者としての最終成績は打率.257、46本塁打、100打点、OPS.965、26盗塁、投手としての最終成績は9勝2敗、防御率3.18、156奪三振という飛躍のシーズンとなった。
翌年2022年シーズンでは、8月9日、ベーブ・ルース以来約104年ぶりの、二桁勝利・二桁本塁打を達成。
思うに、今年はピッチャーに重きを置き、野球の神様といわれるベーブ・ルースの二桁勝利・二桁本塁打を超えるべく、どうしても10勝したかったのだ。ホームラン数は8月22日時点で27本と昨年に比べると低迷しているが、打撃は二の次でホームランはせいぜい30本で十分で、そのぶん今年は投手として本領発揮の年にしたいと考えているんだと私には感じられる。そのことは今年6月に三連勝(7,8,9勝目)をあげた気迫のこもった奪三振ショーを見て確信した。
それほどに二刀流をこなすことは体に負担がかかり大変なのだと思う。本人は平気そうな顔でやっているが、どちらも十二分をこなすには無理がある。どんな気持ちで日々限界に挑戦しているかは本人しか分からない。
でも大谷翔平選手はそれを楽しみながらやってのけている。超一流の大リーガーたちがそれを驚嘆をもって称賛している。どうしてそんなことができるのか?
それがデクノボウ精神なのだ。少しでも野球がうまくなりたい。昨年は打撃部門でホームラン争いができたから、今年は投手部門で認められたい。どちらの部門もまだトップではないから、まだまだ上がある。もっともっと上手くなりたい。まさしく少年野球の心であり、言い方は悪いが野球バカになりきっている。野球バカこそがデクノボウ精神の真髄なのだ。
デクノボウ3号 佐々木朗希
大谷翔平の7学年下。
ただ今、千葉ロッテマリーンズの若きホープであり、日本の現役投手としては最速。彼は公式戦での高校生投手史上最速タイとなる160km/hを計測しており、プロになり自己最速を更新する164km/hを計測している。大谷翔平選手と並ぶ高速ピッチャーである。
日本プロ野球記録となる13者連続奪三振、プロ野球タイ記録の1試合19奪三振の記録保持者。日本プロ野球史上最年少20歳5か月の完全試合達成者。愛称は令和の怪物。
2019年、3年夏の県大会ではエース兼4番打者を務め決勝まで勝ち進んだが、投げすぎで肩を壊すことを懸念した投手コーチ國保陽平の指示により岩手大会の決勝戦で投げさせなかった話はいまや美談とされている。目先の勝利を求めず、あくまで選手の将来を見据えた指導方針を貫いた。
デクノボウ4号 佐々木麟太郎
佐々木監督の息子。大谷徹と佐々木洋に指導を受けた超高校級のスラッガー。身長183㎝で体重117㎏という素晴らしい体格だから、既にプロも注目している逸材である。
現役高校生二年で、佐々木朗希の5学年下。
2年生ながらすでに高校通算74本塁打している。現在高校生のホームラン記録111本を持っている早実・清宮幸太郎(日本ハム)を抜くだろうかと期待されている。
第五章 大谷翔平を引き上げた三つの幸運
大谷翔平選手は岩手が生んだ金の龍である。大リーグという登竜門を見事に通過した。彼を金の龍に引き上げるには、もちろん彼の生まれながらの素質や才能、そして本人のたゆまぬ努力があるのは当然のことながら、彼のこれまでの人生を振り返ると、大きな三つの出会いと幸運があることが窺われる。
運も実力のうちと言うように、大谷自身、「運をつける」ことを重視し、そのためには「縁を大切にする」よう心掛けている。そのことを高校時代の目標達成用紙に明記している。
三つの出会いと幸運を順を追って紹介する。
5-1. 父親・大谷徹の存在
大谷翔平は、岩手県水沢市(現在の奥州市)に、社会人野球の選手だった父・大谷徹とバドミントン選手の母を持つ、スポーツマンの両親の家に、三人兄弟の末っ子として生まれる(長男は社会人野球選手でトヨタ自動車東日本硬式野球部所属の大谷龍太)。
翔平という名前は、父が地元の奥州平泉にゆかりのある源義経にちなんで、義経の戦うと飛ぶイメージから「翔」の字を用い、平泉から「平」を取って名付けられた。先ほど彼のことを金の龍と称したが、名前からも窺われる。
ところで翔平には七歳上の兄がいる。名前を龍太という。彼の方が金の龍に相応しい名前をしている。同じ両親からの遺伝子を受け継いでいるわけだ。ところが龍太が七歳で野球をやりたいと言い出したときに、トヨタ自動車に転職して新工場の立ち上げに忙しかった父親の徹さんは龍太とキャッチボールもしてやれなかった。そのことをずっと気にしていた。
案の定、翔平は兄が野球する姿に憧れて、野球をやりたいと言い出した。
そのとき、父親の徹さんは、長男にしてやれなかったことを次男の翔平にはできる限りやってあげようと考えた。
つまり、翔平が野球を始めたきっかけは父親ではなく、兄の方にあった。しかも長男ではなく次男であったことが兄弟の野球人生を大きく変えたことになる。
おかげで、翔平は元社会人野球選手だった父から高校に入るまでの七年間みっちり指導を受けることができた。
ただ父親は翔平のチームの監督やコーチとして指導した。
「父親は中学まではずっとコーチや監督だったので、グラウンドで接していることのほうが多かったですね。ただ、監督やコーチはチーム全体を見ないといけないですし、息子だからといって特別扱いするわけにもいかない。だから僕も父親という観点ではあまり見ていなかったですね」
親子の間柄でありながら指導者と選手の立場だった当時のことを、翔平はさらにこう語る。
「僕が監督だったとしてもそうだと思いますが、同じぐらいの子が自分の息子と同じ実力だったら、息子ではない違う子を試合で使わないといけないと思うんです。それは当たり前のことというか。だから、息子である自分が試合に出るためには圧倒的な実力がなければいけない。チームのみんなに納得してもらえる実力がなければいけない。まだ小さかったですけど、それは僕にもわかりました。だから、ちゃんとやらなきゃいけないという思いはずっと持ち続けていました」
仲間の選手よりも何倍も、何十倍も練習した。
徹さんは家では、翔平に野球の指導をすることはなかった。ただ、「野球ノート」をつけさせて交換日記のようにしていた。今日の試合を振り返り、良かった点、悪かった点、そして悪かった点を改善するために今後どういう課題に取り組まなければならないかを文字で書かせた。こうやって練習における意識付けをさせた。そして、徹さんが評価やアドバイスを書き込んだ。
そのノートに繰り返し出てくる三つの教えがある
1つ目は、「大きな声を出して、元気よくプレイする」。
2つ目は、「キャッチボールを一生懸命に練習する」。
3つ目は、「一生懸命に走る」。
父の思いは、翔平の心の奥に、まだ生き続けている。
「3つの教えは基本的なものですが、今でも覚えています。それは、いつどのステージに行っても言われ続けることだと思います。特に全力疾走は、そのこと自体に意味がありますけど、その取り組む姿勢にも大きな意味合いがあると思っています」
また、基本的には自宅へ野球を持ち込まなかった。翔平が小学生の頃は、練習が終わってから一緒に風呂に入ったものだったが、そこではその日の練習を少しだけ振り返る程度。風呂上がりはいつもの父と息子に戻り、他愛もない話をするだけだった。徹さんはその意図をこう話す。
「家に帰ってからはガリガリと1対1で練習したことはなかったですね。グラウンドでの練習を色濃くして、ウチに帰ったら自主練習。そういうスタイルで翔平を見守り続けました。まだ体が成長段階にある子どもですからね。家でも熱血指導をしてしまうとケガにつながる場合がある。だから意識的に家では指導をしませんでした。
実際に翔平も中学1年か2年のときに成長痛で足首が痛いと言った時期がありました。成長段階で急激に骨が伸びたりすることもあり、その最中で練習をやりすぎると体に異常が出たりケガをしてしまうことがある。そのリスクというか、怖さがありました。だから極力、家では熱血指導をしないと決めていました」
5-2. 佐々木洋監督との出会いと教え
佐々木洋監督も先の大谷徹監督の教えを基本的に引き続いでいる。それがイーハトーブ学園の野球の指導理念ですから当然だ。
まず、大谷翔平選手の身体面について。
大谷翔平は高校に入る時点で身長は189㎝あった。体重は60㎏台なので瘦せてひょろひょろ。
佐々木洋監督は野球部に入る部員全員のレントゲン検査をして骨の成長状態をチェックする。大谷翔平選手の場合、「まだ骨が成長段階にある1年夏迄は野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により、1年春は「4番・右翼手」で公式戦に出場。秋からエースを務め、最速147km/hを記録。
体重については、寮でしごかれた。一日どんぶり飯10杯がノルマ。宮沢賢治の詩にある米四合以上だね。翔平にとって、これが一番つらかったようだ。
お陰で、高校卒業時点で身長193㎝、体重89㎏という大リーグでも見劣りしない理想的な体型になった。
身体作りにも、科学的方法を取り入れ、将来を見越した育て方をしていることに驚かされる。
次に、野球への取り組み姿勢、精神面について。
この点も選手自身に自発的に考えさせるということは大谷徹監督と共通している。
「生徒には2つの『目』を大事にしてほしいと思っています。一つは『目的』、もう一つは『目標』。どうしてそれ(その行動)をするのか常に意識してほしい。野球の練習でも普段の生活でも、一つ一つのことを意識しながら取り組んでほしいと思います」
目標を掲げ、その実現に向けてどのようにしていくのかを常に生徒に考えさせた。
具体的には、佐々木洋監督は、『目標達成用紙』を選手に書かせている。
大谷翔平選手の場合、球速を160キロ出したいのであれば、目標を163キロに設定する。160キロではダメ。163キロを目指して初めて160キロ出せる。
野球は技術も必要だが、こういった野球の技術以外の考え方一つで成長し続けることができる。ただ単に野球の練習をするのではなく、しっかりと頭で考えて行動することで、今よりも成長できる選手になるのだろう。
佐々木洋監督の言葉で「日本一を目指すなら、日本一の全力疾走をしよう。日本一のカバーリングをしよう」がある。
結果だけでは無く、練習への取り組み姿勢も重視している。さらに、監督独自の理論で徹底的に論理的に練習方法や知識を選手に植え付けていく。菊池雄星選手も「日本一にはなれませんでしたが、練習への取り組みは日本一でした」と話している。
これも大谷徹さんの三つの教えとかぶるね。
佐々木洋監督は2002年に野球部の監督に就任。3年後の2005年夏には初の甲子園出場を果たす。2009年には、菊池雄星を擁し、春準優勝、夏にはベスト4に進出する。岩手県90年ぶりのベスト4進出という快挙を成し遂げた。こう見ると指導方法が順調だったように思われるがそうではない。監督自身、失敗の連続でした。そして軌道修正していった。
「失敗を成功につなげる選手は一流。責任を転換して失敗を繰り返すのが二流。三流は自分が失敗したことすら気づかない」
「監督が主人公のうちは勝てない、監督はあくまで演出家、選手達をいかに主人公にするか」
監督就任当時は、公立高にあっさり敗れてしまうなどなかなか勝てず、クビを覚悟した事もあった。大学時代の恩師が練習を見て一言、「お前が練習の邪魔をしている」。後に、佐々木監督は「あまりにも指示を出しすぎて、選手達の考える機会を奪っている」と気づかされた。
それからは、選手達に練習メニューを考えさせ、監督は要所要所で提案、アドバイスのみで自主性を邪魔しない対話を心がけていく。監督のアドバイスを取り入れながらも、徐々に選手達自身が率先して練習に取り組むようになる。そして、試合でも自分たちで考え、判断できるようになっていく。のちに、自主性を重んじる指導が実り、初の甲子園出場を果たすことになる。
こうした指導の下で菊池雄星投手や大谷翔平選手を輩出していくわけだが、監督自身デクノボウ級選手の指導は特に失敗や後悔の連続だったと言う。先輩の菊池雄星がいたお陰で、大谷翔平選手の指導に佐々木監督の経験も活かせたといえる。この点も、先の兄・龍太と同じようにラッキーだったといえる。
具体的に一例を見よう。それは大谷翔平選手が大リーグを目指したきっかけだ。
「監督からは常に目標を大きく持ちなさいと言われていました。(入部当初は)甲子園で優勝、プロ野球選手(という目標を持っていましたが)、ドラフト1位が見えてきた時には、(監督から)高卒でメジャーを目指すんだと言われました。目標を常に更新し、高みを目指し続けるという点は今も自分の大きな信念としてあり、常に自分の目標、夢は何なのかを考えながら過ごしています」
高卒でメジャー入りというのは当時は(おそらく今も)なかなか口にすることを躊躇するようなことだ。
より高みへ、そう導いた理由を佐々木は述懐する。
「(雄星が野球部に入部してきた時に)ドラフト1位でプロ野球選手にしたいと思いました。(翔平のときは)もう少し高い目標を与えることが大事だと思い、その上のレベルのメジャーリーグを夢見させました。そこを目指し、意識し、努力をしていたから、どんどん夢が向こうから近づき、メジャーのスカウトがイーハトーブを訪れるようになりました」
「スカウトの姿を目にすることで、ぼんやりと描いていた『夢』は手が届く『目標』に変わっていったのだと思います」
佐々木はこう続ける。
「常に開拓者であってほしいという気持ちから、新渡戸稲造のように太平洋の架け橋になってほしいと言い続けていたのも覚えています」
新渡戸稲造は岩手県盛岡市出身の教育家、学者で、日本の近代化に尽力したほか、『武士道』の執筆者としても知られる。同郷の偉人、新渡戸のように、2人にも新たな道を歩んでほしい、君たちにはその力があるのだから、そう思っていた。
目標を立て、それに向かって道を切り拓いたのは彼ら自身だ、と佐々木は何度も繰り返すが、多感な高校3年間を、佐々木、そして同じ志を持って指導にあたるコーチたちと過ごした影響は大きい。
また、大谷翔平選手のトレードマークとなった二刀流だが、これも佐々木洋監督による『先入観は可能を不可能にする』(先入観を捨てることによって不可能が可能になる)という言葉に大きく影響を受けている。
大谷翔平選手にとって、佐々木洋監督の存在がいかに大きかったか、よく分かる。
5-3. 日本ハムファイターズの栗山監督の熱い支援
大谷翔平選手は二刀流として大リーグで大活躍しているが、それをホップ・ステップ・ジャンプとして、昨年の2021年と今年の2022年を飛躍したジャンプの時期とすれば、最初のホップは日ハム時代と捉えることができる。イーハトーブ学園の野球時代で二刀流の土台を築き上げたわけだが、ホップ期は実際にプロの実践として二刀流が通用するかを見定める極めて重要な時期になる。
そこでのキーマンは日本ハムファイターズの栗山英樹監督である。
当初、大谷は「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と語っていた。
しかし、ドラフト会議で、日本ハム監督の栗山英樹は「大谷君には本当に申し訳無いけれど、一位指名をさせていただきます」となる。
入団交渉では栗山自ら『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料を提示した。そこには高校卒業後、直接アメリカへ渡った韓国の野球選手がMLBで活躍しているケースが少ない点や、過酷なマイナーリーグの現状、母国のプロリーグで実力をつけた選手の方が MLBで活躍できる確率が高い点などが説明されていた。更に前年まで憧れのダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プランなどを提示した。結果的に大谷は日本ハム入団を表明した。
「大リーグに行くまでの5年間を自分に預からせて欲しい」という栗山監督の熱意が大谷に通じた。
改めて栗山英樹という人物を紹介する。
彼は東京学芸大学から1984年にヤクルトスワローズ (1984 - 1990)に入団した。
1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。
選手時代は俊足巧打のスイッチヒッターとして活躍し、外野守備のスペシャリストでもあり、1989年にはゴールデングラブ賞を受賞している。しかし、メニエール病もあり、プロとしての限界を知り、7年間の短いプロ選手期間であった。
選手引退から監督就任までの間は、野球解説者、スポーツジャーナリストのほか、白鷗大学教授としても活動していた。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務めた。日本のプロ野球監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに栗山が史上初めてである。
振り返るに、大谷の指導者三人には、プロ野球選手として一流だった人はいない。一流の選手で一流の監督になった人はいないとよく言われる。元一流選手の人だと選手を指導しながら「なんでこんなこともでないのか」と思うかもしれないが、大谷にはそんな指導者はおらず、自分の見栄は二の次にして、常に大谷の将来だけを慮ってくれた。これは非常に幸運なことであった。
栗山監督は栗山イズムという指導方法で選手とコミュニケーションをよくとり、選手を信じて使っていく人だった。だから敗戦後のインタビューでは選手のことは決して非難せず、いつも「俺が悪い」と発言していた。
ただ、大谷には別で、マスコミの前でも厳しく苦言を呈することが度々あった。そこで「満足」してしまっては慢心がうまれ、より魅力的なプレーヤーになることができず、良い結果を出せなければ「二刀流」ひいては大谷自身に批判が集まるのは事理明白で、大谷を批判し新たな目標を提示できるのは立場上監督である栗山しかいないからであると述べている。別のインタビューで栗山は、「オレが認めてしまったら、その瞬間に(大谷の)成長が終わってしまう怖さを感じている。だから、絶対に認めないし、心の底から『まだまだ』と思っている」と明かした。
厳しい言葉を発している一方で、裏では「体、大丈夫か?」と気遣いの言葉をかけており、大谷を守るために厳しくやっていたことを明かし、それは大谷も栗山の本心を理解しているはずだと思っている。まさしく以心伝心。
その監督の気持ちに応えるべく、日ハム時代、大谷は十分の実績を残して、予定通り入団五年後に、大リーグの扉を開けていく。
なお、この章の終わりに、ひとつ付け加えておく。
先に投打二刀流のホップ・ステップ・ジャンプの話をした。ステップ以降はエンゼルス時代になるわけだが、そこでの大谷翔平選手にとっての恩人は前マドン監督である。彼の翔平選手に対する信頼と二刀流への理解がなかったらジャンプの大飛躍はなかった。
残念ながら、マドン監督は球団史上ワーストとなる14連敗の責任をとらされ解任された(12連敗時点で解任)。ここでは名前だけを紹介するに止める。
第六章 大谷翔平の魅力
ここまで書いてきて、もう一度、大谷翔平選手が二刀流で活躍できた要因を振り返ってみよう。
エースで四番という少年野球の心はイーハトーブ学園の野球で培ってきた。
そして、大谷翔平選手がどうしても二刀流にこだわる信念の強さを感じる。それは頑固さでもある。翔平選手のご両親が言うには「翔平は昔から、大事なことは自分一人で決めている子でした。野球をやること、高校を決めること、二刀流をやること、大リーグに行くこと。私たちはそれをサポートしてあげるだけでした。」
ところが、一方で非常に柔軟なところもある。高校卒業時点であれだけ大リーグ入りに傾いていたのに栗山監督の熱意に負けたかたち。というより、栗山監督の言葉を素直に受け止めた「聞く耳」の力を持っている。
これは大谷翔平選手がこれまでに一度も日本一になったことがない点が反映しているのかなと思う。
そこで思い出すのが、斎藤佑樹と田中将大のこと。2006年の夏の甲子園決勝での二人の投げ合いは語り草になっている。早稲田実業のエース斎藤佑樹投手(ハンカチ王子)と駒澤大学附属苫小牧のエースであった田中将大投手(まー君)は決勝戦で延長15回まで投げ合い1対1の引き分けとなり、再試合では4対3で早実が勝った。この死闘を制し日本一になった斎藤佑樹は大学に進学し大学野球でも大活躍した。その後、鳴り物入りでプロ野球に入っていったが活躍できずに引退した。一方の田中将大は高校卒業後すぐにプロ野球に入り大活躍した。2013年には破竹の24連勝し楽天イーグルスを球団史上初の日本一にした。その後、大リーグに行き活躍し、現在は古巣の楽天イーグルスに戻ってきている。推定年俸9億円は日本人選手の最高額である。
高校時代には斎藤佑樹の方が人気・実力ともに上と見なされていたのに、なぜに二人はこうも差がついたのか。それは「聞く耳」を持っていたかどうか。田中将大は楽天イーグルス監督の野村克也の下で厳しく指導を受けた。ところが一方、日本ハムファイターズに入った斎藤佑樹は日本一として高校・大学時代を過ごし、今までの自分のやり方でいいと判断して、コーチ等からのプロとして投球フォームを直す指導を一切拒否したらしい。アドバイスを拒否されたら誰も教えてくれなくなる。日本一の慢心は怖ろしい。
大谷翔平選手は性格面もいい。いつも絵顔で接し、感情的にならない。チームメイトの球団仲間とも打ち解けている。きっと翔平には賢治の求めた音楽のもつハーモニーの心が宿っているんだね。(笑)
また、大谷翔平選手は気持ちの切り替えが早いと大リーガーの仲間たちは感心している。これは特に二刀流には必須のことだ。
野球は失敗のスポーツと呼ばれる。三割打者でも七割は失敗しているわけだ。だから、失敗からいかに学ぶかと失敗を引きずらない気持ちの切り替えは非常に重要である。
こうした性格面は広々としたイーハトーブで培ってきたものだ。
彼の礼儀正しい接し方は誰に対しても好印象を与える。
昨季、メジャーの現場で大谷がゴミや小石を拾う姿が何度となくカメラに捉えられていたが、カメラや人の目の有無にかかわらず、大谷はゴミや小石を拾い、ポケットに入れる。大谷は「誰かが(ゴミや小石で滑ったり躓いたりして)それで怪我をしたりしないように」と話しているが、これは先輩の菊池も、そしてイーハトーブ野球部員たちも日常的に
行っている行為だ。小石は石っこ賢さんの精神を引き継いでいるのかな。(笑)
イーハトーブ学園の野球部員は、練習が終わったあと、べンチやロッカーを丁寧に掃除する。遠征時に借りた練習施設はもちろん宿泊施設、バスなど、彼らは掃除道具を見つけ、ささっと掃除を始める。誰かに見られているから、コーチ陣に言われたから、褒められたいからではない。自主的に率先して行う。
「次に使う人のことを考えて行動しなさいと話しています」と佐々木監督は話す。
野球選手として達成したい目標、そのためにはどんな行動を取るべきか、それは何のために行うのか。
「目標を立てるだけではなく、深いところまで思考しなさいと教えています」
「目標の連鎖」がそこには存在する。『2つの目』の『目的』を理解し、部員たちは岩手で、菊池、大谷は海を渡って米国で、さりげなく実行に移している。
イーハトーブ学園の野球で鍛えられた精神は自然と発せられる。それが彼の人格を形成している。
こういう人間的な魅力が、多くの人々に愛される要因であり、自然と優れた指導者に恵まれ、我々ファンも彼の成績だけでなく、彼のマウンド上の言動全てから目が離せなくなる。
大谷翔平選手は投打二刀流としてベーブ・ルースと比較されがちだが、今や唯一無二の存在になっている。
現役大リーガーたちからは驚異と尊敬の念を抱かれ、野球少年たちに大きな夢を与えている。衰退気味だった大リーグ人気に新たな光を与えている。野球人気の高くないイギリスやヨーロッパでも大谷翔平選手は注目されている。
また大谷がアジア人であることの意味も大きい。野球の盛んな韓国や台湾などアジア各国が大谷翔平選手の活躍を報道し称賛している。アメリカ内に燻る人種差別問題にも一石を投じている。
まさに彼は現代のスーパースターである。2021年9月、タイム誌による「世界で最も影響力のある100人」 に、「アイコン(象徴)」のカテゴリーでヘンリー王子&メーガン妃、女優のブリトニー・スピアーズらと共に選出された。もはや彼の存在は野球界、いや全てのスポーツ界を超えて輝いている。
おわりに
これまで大谷翔平選手について色々と調べて、童話にまとめ上げる中で、ますます大谷選手が好きになっていく自分がいる。
岩手県出身の私が、同じ岩手県出身の大谷翔平選手を応援できることは本当に幸せなことである。大谷翔平選手は岩手の宝物であり誇りである。
いま病床の中で、この童話を書き上げながら、自分はこの先どれだけ生きていけるか不安になる。リハビリの甲斐があり、どうにか動く左手の人差し指と親指で、食事ができるようになった。二か月前からパソコン操作に挑戦して、今では左手の人差し指一本で打てるようになった。便利な機能がパソコン内にあることに驚き感謝している。
パソコン操作が可能になるにつれ、気持ちが漸く前向きになっていった。そして、約一カ月かかって大谷翔平物語が仕上がった。内容の出来云々はあるものの、大好きな大谷翔平選手と宮沢賢治をこうして形にできて自分としては満足している。
これから先も、大谷翔平選手が活躍してくれれば生きる勇気が湧くように思える。
直近、ロサンゼルス・エンゼルス球団のモレノ・オーナーが球団売却を表明するなど球団上層部のゴタゴタで不透明な状況もある。
大谷翔平選手自身、いつまで二刀流を続けられるか、という体力的な問題もある。
大谷翔平選手の二刀流については、当初から賛否両論があった。現在の活躍を見てしまうと賛成せざるを得ないものの、未だに否定論も根強い。その内容をみるに、160キロを投げられる投手は滅多におらず、極めて貴重である。しかも完璧な体調でなければ160キロは投げられない。怪我などしたら大変である。だから自打球を当てる可能性がある打者もやるなんてとんでもないという。あくまで投手生命を慮っての意見である。打者は投手生命が終わった後でも出来るというものである。
やはり野球選手の体力的ピークは27歳で、28歳になった大谷翔平選手としてはこれから体力的に下降していくことだろう。あと何年、二刀流を続けられるかは本人と神のみしか分からない。
他にも将来どんな困難が待ち受けているかは誰にも分からない。
でも、大谷翔平選手については、この二年間の耀きだけでも十二分に語る価値がある。
最後になるが、大谷翔平選手にひとつお願いしたいことがある。
わが故郷岩手、イーハトーブ、そして岩手が誇る宮沢賢治の作品を世界中の人々に宣伝してほしい。大谷翔平選手の言葉なら世界中の人が聞く耳を持ってくれるはずだから。
おしまい
【備考】
宮沢賢治 1896年(明治29年)8月27日生 - 1933年(昭和8年)9月21日没
大谷徹 現在、金ケ崎リトルシニアの監督
佐々木洋 現在、私立花巻東高等学校硬式野球部 監督
國保陽平 現在、岩手県立大船渡高校野球部副部長 (2017~2021年は監督)