今回は、蕨ミニ所属の踊り子・虹歩さんについて、シアター上野2019年6月結の公演模様を、演目「ゲゲゲの鬼太郎」を題材に語ります。
2019年6月結のシアター上野に顔を出す。
今週の香盤は次の通り。①かすみ玲(フリー)、②雛形ひろ子(TS)、③箱館エリィ(TS)、④虹歩(蕨ミニ)、⑤南美光(TS) 〔敬称略〕。
さっそく、虹歩さんのステージ内容をご紹介します。
なお、この作品は先輩の園田しほりさん(現在kuuに改名)から譲ってもらったもの。音楽が全て「ゲゲゲの鬼太郎」ばかりなので、観た瞬間に「ゲゲゲの鬼太郎」ものだと分かる。よくこれだけ様々なジャンルの「ゲゲゲの鬼太郎」の曲を集めたものと感心させられる。
最初に、黄緑の着物姿で登場。黄緑の中に、赤い花を中心としたいろんな花々が描かれている。金模様の入った赤い帯を締める。
髪はお団子頭にして、ちょうちんがぶら下がったような赤いほおづきを挿している。
音楽に合わせて、妖怪のポーズを取り入れて踊る。
一曲目は、フランスの歌手クレモンティーヌが歌う「ゲゲゲの鬼太郎」。これがまた艶っぽい声なんだなぁ~♪ この歌に合わせて着物で踊るのがこれまた乙である。
クレモンティーヌ(Clémentine, 1963年 – 現在56歳位)は、フランスの歌手。1988年にシングル「アブソルマン・ジャズ」をリリースしてデビュー。歌手として多くの音源をリリースするほか、NHK Eテレ『テレビでフランス語』の毎月最終週に放送されている「Divertissement」に出演するなどしている。 娘のソリータ(Solita)も歌手で、クレモンティーヌの作品によく参加している。
次に、音楽が変わり、着物を脱ぐ。
下には、赤いワンピース。上半身はノースリーブで、スカートは膝上丈のミニ。
音楽に合わせて、裸足で踊る。
二曲目は、東京ゲゲゲイの歌う「ゲゲゲイの鬼太郎」。作詞:水木 しげる、Rap詞 東京ゲゲゲイ・堀江 ヒロアキ、作曲:いずみ たく、編曲 牧 宗孝・安宅 秀紀。
MVを観てはまってしまった。最初は「えーなんじゃこれは!」と思ったが、次第に「こりゃすごいぞー!」と思うようになる。メンバーが妖怪に扮している。鬼太郎 mikey、砂かけばばあ MIKU、猫娘 Marie、子泣きじじい BOW、ねずみ男 YUYU。ここにはダンス、音楽、映像どこにも妥協を許さないこだわりがある。
東京ゲゲゲイは、リーダーのMIKEY(マイキー)が、BOW(ボウ)、MARIE(マリエ)、MIKU(ミク)、YUYU(ユウユ)の四人と活動するアーティスト集団。 <ファン> もともとは、ダンスに興味関心のある青年やキッズダンサーの少年とその保護者が強い支持層であった。2016年正月に放送されたバラエティ番組『初詣!爆笑ヒットパレード』でのライブパフォーマンスにより、それまで興味関心のなかった層を取り込むことにつながった。また、MIKEYがゲイであることをカミングアウトしていたがLGBT/SOGIの理解の広がりもありますます支持層が拡大してきている。中でも熱心なファンは、ゲゲラー(gegeller)と呼ばれており、ファンクラブが無かったが、2018年、通販サイトの充実および公式ファンクラブ設立することが発表された。
ここで一旦暗転。
音楽が変わって、着替える。
梅の花(?)をプリントした赤い襦袢姿。裸足で、そのままベッドショーへ。
近くに来たのでアクセサリーを目で追う。純金のピアスに、純金のネックレス。
音楽は、加藤みどりの歌う「カランコロンの歌」。誰もが知っているアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のエンディングテーマソング(コロムビア ゆりかご会)である。
立ち上がりは、作曲者いずみ たくがジャズアレンジした「ゲゲゲの鬼太郎」。インストではあるがノリノリのリズム。
漫画「ゲゲゲの鬼太郎」は、漫画少年だった私の心を掴んだ漫画のひとつだった。小さいころ漫画博士と呼ばれた私は、ゲゲゲの鬼太郎についても丹念にノートにメモをとっていたのを覚えている。
学校の勉強が忙しくなってから、今の今までずっと漫画の世界から離れていた。数年前、NHKで「ゲゲゲの女房」を観て、すごく懐かしく思い出された。そのとき改めて、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」と水木しげるさんのことを調べてみたいなと思った。しかし仕事や劇場通いが忙しく、なかなか着手できないでいた。
今回の虹歩さんのステージはジャスト・タイミングだった。
現代はインターネットのお陰で調べることは驚くほど容易になった。たくさんの長い解説を一気に読み上げた。
改めて言うが、自分の周りには気になる関心事がたくさんある。それらをじっくり時間をかけて調べて執筆してみたいと思う。ところがなかなか着手できない。その原因は気になる対象がたくさんあることと、何より面倒くさいと思う自分の怠惰に原因がある。この歳になると、私は自分が好きだと思うことしか興味が湧かない。だから実際に手を伸ばすためのきっかけが非常に重要になる。
私の場合はたまたまストリップが好きでストリップ通いしている。だから全て踊り子さんのステージがきっかけになる。踊り子さんはいろんなことに興味をもって、たくさんのネタのステージを作ってくれる。我々ストリップファンはそれを自動的に享受できる。この機会を逃す手はない。
そして、今回の「ゲゲゲの鬼太郎」のきっかけも踊り子の虹歩さんが運んでくれた。まずは、そのことに感謝である。
せっかくなので、私が調べて面白いと思った記事を以下にいくつか転載しておく。
◆1. 鬼太郎の誕生について
鬼太郎が最初に世に出たのは、水木しげるの紙芝居から。当時は「墓場の鬼太郎」というタイトルだった。今回調べて知ったのが<1933年から1935年頃にかけて、民話の『子育て幽霊』を脚色した『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』(原作:伊藤正美、作画:辰巳恵洋)という紙芝居が存在し、『黄金バット』をも凌ぐほどの人気だった。 1954年、紙芝居の貸元である阪神画劇社と紙芝居作者として契約していた水木は、同社社長・鈴木勝丸に前述のハカバキタローを題材にした作品を描くよう勧められた。作者承諾の上で、水木はオリジナルの紙芝居物語「墓場の鬼太郎」として、『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』の4作を仕立てた。これが鬼太郎シリーズの原点である。>
この4作の中で鬼太郎と目玉おやじが誕生するのだが、二人とも「幽霊族」となっており、その誕生の仕方が凄い。<鬼太郎が墓場から生まれた片目の子供という設定(『蛇人』より)と目玉おやじの登場(『空手鬼太郎』より)はこの頃からである。>
その点について詳しく解説されていた。長い間の謎が解けた気分で、私は溜飲が下がる思いがした。
「鬼太郎の誕生」
血液銀行に勤める水木は、異変のあった患者に輸血された血液の調査を命じられる。水木は問題の血液の提供者が自分と同じ住所の荒れ寺に住むことを突き止め、そこで幽霊族の夫婦に出会う。幽霊族は人類が誕生する以前から繁栄していたが、絶滅に追いやられていた。最後の生き残りである夫婦は不治の病にかかっていたが妻は妊娠しており、せめて赤ん坊が産まれるまでは報告を待って欲しいと哀願する。承諾した水木は、しばらくしてから荒れ寺に様子を見に行くと、夫婦は既に死んでいた。水木は妻の遺体を葬ってやるが、夫の遺体は腐敗が酷いため放置する。
やがてある晩、妻を埋葬した墓場から赤ん坊が這い出てくる。一方、荒れ寺に残された夫の遺体からは眼球が流れ落ち、手足が生え動き始めていた。目玉として蘇った父親は墓場に行き、赤ん坊を鬼太郎と呼ぶ。父親は鬼太郎を水木の家へ連れ出し、幽霊族に同情した水木は鬼太郎を育てることを決意する。
それから幾年、成長した鬼太郎は父親と共に放浪の旅に出る。・・・
ちなみに、アニメにするにあたり、当初のタイトル「墓場の鬼太郎」は、墓場という言葉が暗いイメージなので、これを「ゲゲゲの鬼太郎」に改めた。「ゲゲゲ」の由来は、水木が幼い頃に自分の名前を「しげる」と言えずに「ゲゲル」「ゲゲ」と言っていたことから着想したものである。これがよかった。後の書籍のタイトルも、妻の衣枝さんは「ゲゲゲの女房」(実業之日本社)とし、娘さんも「ゲゲゲの娘」(二女の悦子さんと赤塚不二夫の娘りえ子さん、手塚治虫の娘るみ子さんとの共著『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋))としている。
◆2. 原作者水木しげるの生涯とエピソード
水木 しげる(みずき しげる、1922年3月8日 - 2015年11月30日、93歳没)は、日本の漫画家。本名は武良 茂(むら しげる)。
大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。 高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役編入。1943年に召集され、帝国陸軍の軍人(兵)として太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。
復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
彼には面白いエピソードがたくさんある。ここでは三つだけ取り上げたい。
◇1. 少年時代は、比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。
朝寝の習慣は一生続いた。朝寝坊で何度も学校や仕事を辞めている。しげるはアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌そのままに朝寝を好んでいたわけだ。NHKの『あさイチ』で水木プロダクションから生中継が行われた際も、当初から妻の布枝だけが出演する約束になっており、水木本人は普段通り就寝していた。
しかし、彼は93歳まで長生きした。水木自身、長生きの秘訣として普段から睡眠の重要性を説いており、自分はどんなに忙しくても1日10時間は寝ると語っていた。逆に、自分より年下の手塚治虫や石ノ森章太郎は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと、手塚治虫文化賞の受賞スピーチで語っている。また、水木と同じく長生きの漫画家として知られたやなせたかしも水木の意見に賛同している。
◇2. 水木は漫画家になって、赤貧の生活を送り、何度も人生の危機に遭っている。そんなときに、「ほんとうに困ったときに、いつも鬼太郎が救ってくれた」としみじみ語っている。
いいキャラクターと出会い、つねにそのキャラクターを活かすために勉苦に励んでいる。水木が持っている妖怪の資料は半端ではなかったようだ。どんなに生活が貧しくても、妖怪に関する資料を買い求めたようだ。その努力が報われる。
<売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。晩年は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。また、長井勝一は「貧乏していても資料を丹念に集めるという点では、類のない人だった」と回想していた。なお、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。>
ある日長女に「手塚治虫先生の漫画には夢がある。お父ちゃんの漫画には夢がない」と言われ「馬鹿野郎!俺は現実を書いているんだ!」と激昂したというエピソードがある。
最近、私は妖怪の世界はパラレル・ワールドだと感じている。妖怪というのは本来八百万の神々であり、人間が感じている神々や妖精が変化したものである。現実の世界の裏側に、間違いなく妖怪の棲む世界があると思える。ところが、人間が電気という技術力を発明して暗い場所を失くしてしまったので、妖怪の棲む場所がどんどん狭められている。本当にこれでいいのかと思い始めている。
◇3. 水木は軍隊生活で悲惨な目にあっている。このときの体験を代表作でもある漫画『総員玉砕せよ!』に描いている。
軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった。追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。
片腕を失くし、他の傷病兵と後方に送られる。送られた野戦病院では、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族と交流するようになる。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。
日本が「ポツダム宣言」を受諾して終戦。連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、信頼する上官砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。
太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルは死ぬのが当たり前の戦場だった。だから、水木は心の底から「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だったという。
『総員玉砕せよ!』やインタビューで分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
なんて深い言葉だろうと感じた。今の自分にかさなってきた。
私は足の不自由な身体障害者として育った。小さい頃はいじめも受け、なんでこんな身体に生まれたのかと悩んだこともあった。しかし、なに不自由なく育ち、多少びっこをひくものの、とりあえず歩けるし、生活面で困ることはない。歩けるだけ幸せだ。今は歩いてストリップ劇場に通えることがなによりも嬉しい。自分が自由に身体を動かせない分は、代わりに踊り子さんが自由に動いてくれる。そのステージを眺めるだけで慰めになる。
大学時代に、失恋したとき、一人暮らしのアパートで「ふられた原因は足が悪いことにある。きっと自分は一生結婚もできないかもしれない。」と自殺が頭をよぎったこともあった。でも、一流大学を卒業し、一流の会社に勤め、運よく見合いで結婚して三人の子どもに恵まれた。十分に幸せな人生を送れた。
産んでくれた両親に心から感謝している。父親は食道癌を患い66歳で亡くなったが、母親は胃癌と腎臓癌を患ったが今も元気でいる。母親はいまだに小児麻痺で私が足を悪くしたことを悔いており、今でも「なんとか治してあげたい」と口にする。おふくろ、もうそんなことを思うことはないよ。私は足が悪くても自分の人生を満足であると思っているから。
還暦を迎え、年老いた私には、足が不自由だからカッコ悪いという意識はもうない。歩けるだけ幸せだ。ストリップを観れるだけ幸せだと思っている。水木さんが言うように「自殺して死ぬより、足が不自由でも、こうして生きている方が価値がある」としみじみ言える。私に残されている課題は、好きなストリップを題材にして書き綴ってきた童話やポエムをいかにして世に問うかだけだ。
長々と述べてしまいました。個人的なことまで話してしまいすみません。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
2019年6月 シアター上野にて
~虹歩さんの演目「ゲゲゲの鬼太郎」を記念して~
ゲゲゲの鬼太郎がひょっこりストリップ劇場に現われた。
鬼太郎というとふさふさな髪の毛のイメージが強いが、‘髪の毛針’攻撃のやり過ぎか、髪がかなり薄くなっていた。妖怪なので歳をとらないはずが、なぜか白髪も目立ってきている。妖怪だって疲れて老けるわな・・・笑
劇場ではたまたま、出てくる踊り子さんの殆どが、きれいなパイパンになっていた。
鬼太郎は唖然とし、自分の頭髪をしきりに触りながら「なんでみんなパイパンなんだ!? 毛を粗末に扱ってはいけないよなぁー」と呟く。
しかし、だんだん観ているうちに、パイパンの魅力に魅せられる。踊り子さんの下腹部のきれいな土手と一本の筋はこの世の究極の美しさに思えた。それは穢れなき幼女の処女性を示す聖なる性のシンボルマークでもあった。
鬼太郎の髪の毛の中に隠れていた目玉おやじも目を丸くして眺めていた。
隣で観ていた仲間のぬりかべは踊り子さんのパイパンに大喜び。「ぬりかべ~」と嬉しそうに叫ぶ。きっと自分と同類と思ったのだろう。
また、その隣にいた一反木綿(いったんもめん)もそわそわしている。彼女たちのふんどしになりたいのかな・・・!?
子泣き爺はパイパンを見たら小さく堅くなってしまいました。砂かけ婆の目を意識しているのかな(笑)
ある踊り子さんはパイパンではなく、きれいな逆三角形の陰毛だった。
彼女は鬼太郎を見つけて「あらっ! 鬼太郎さん、髪の毛が薄くなったのね。かわいそう!」と言って、彼に近づき、オープンしながら、陰毛を掴んでは、おまじないのように彼の頭の上にふりかけた。「毛が生えれ! 毛が生えれ!」
鬼太郎は顔を少し赤らませながら小さな声で「逆‘髪の毛針’攻撃!」と囁く。すると、踊り子さんの陰毛がみるみる鬼太郎の髪の毛に吸い寄せられるように移りました。
その後も、鬼太郎は他のお姐さん方から陰毛を奪い、ふさふさの髪の毛になりました。
しかし、鬼太郎の髪型は以前とはちょっと違うなぁ。所々に部分パーマをかけたような縮れ毛が散在。まぁ、細かいことは気にしないことにしましょう。いずれにせよ、髪の毛を得た鬼太郎は若返りました。
鬼太郎のせいで、踊り子さんの大半がパイパンになり、そのため劇場は次々とパイパン大会をやるようになりました。
鬼太郎は頻繁にストリップ劇場に通い出す。夜中にこそこそと抜け出すこともあれば、やけに朝早く出かけていくこともある。(それは場所取りをしているんだろうね。笑)
彼を慕う猫娘が一体鬼太郎は何に夢中になっているか気が気でなりません。あのまじめな鬼太郎がしまりのないにやけ顔をしている。
ある日、こっそり彼の後を追ってみました。鬼太郎は場末のストリップ劇場に入っていきました。続いて猫娘もストリップ劇場の中を覗きました。そこは別世界。猫娘は一瞬でストリップのもつ華やかさや美しさに魅入られ、自分も踊り子になる決心をしました。
鬼太郎の仲間たちは賛成しました。ねずみ男は自分が猫娘のマネジャーになると言い出しました。きっと、お金のニオイをかぎつけたのでしょうね。
ところで、猫娘が踊り子になるにあたり、ひとつ大きな問題がありました。猫娘は毛深いのであそこも剛毛でした。今や空前のパイパンブームなので、猫娘はなかなか受け入れられそうにありません。そこで、鬼太郎の仲間たちはパイパンブームを消す計画を練りました。
パイパンの踊り子さんが登場したら、砂かけ婆が踊り子のあそこに砂をかける。少し黒ずんで見える。とどめは鬼太郎の‘髪の毛針’攻撃でした。先に頂いた陰毛を返していきました。
ストリップ業界は、みるみるパイパンブームが消火し、自然ヘアに戻りました。
猫娘はキュートな可愛さで観客を魅了しました。彼女が得意とする演目は「小悪魔キャット」でした。
さっそく内容を紹介します
椅子に絡んで、セクシーCATに扮した猫娘が登場。カールされた白い鬘(かつら)が印象的。豹柄の耳リボンを付ける。この鬘がとても似合っている。
上半身は、刺繍入りの高級感あふれる白いシャツで、襟元と胸元が黒い。黒いパンツ。そして、長いストッキングと長い手袋は白黒の縞模様。太もも前方にあるピンクのハートマークがワンポイント。豹柄の尻尾も付いている。黒いハイヒールを履いて、椅子に絡み、時に椅子の上に立ち上がったりして、軽快なダンスを披露。
次に、曲が「I’m sexy」に変わる。ロッド・スチュワートの曲だが女性ボーカルがカバー。曲にのり、CAT衣装のまま、白い下着姿になり、セクシーに踊る。そのままベッドへ。
近くで猫娘を眺める。なんてキレイなんだろう♡ うっとりする♡
今回のセクシーCATは猫娘にピッタリなはまり役であった。
猫娘は、オープンショーやポラタイムでもお客に絡みました。まるでネコのようにじゃれつくのです。これには一発で客ははまりました。ただ、お客が調子に乗って猫娘に触ろうとすると牙をむくのでご注意!
猫娘の活躍で、ストリップ業界は盛り上がった。
その影では、鬼太郎たちの陰謀により踊り子さんの陰毛を濃くしたりパイパンにしたりと画策された。いつしか鬼太郎は「毛毛毛の鬼太郎」と呼ばれるようになっていた。
おしまい