今回は、H30年3月中の大阪晃生ショー劇場における、浅葱アゲハさんの公演模様を、演目「モモとじかんどろぼう」を題材に、「時間とストリップ」という題名で語りたい。

 

 

H30年3月中の大阪晃生ショー劇場に初日に顔を出す。

今週の香盤は次の通り。①はな(フリー)、②北原杏里(晃生)、③北川れん(道劇)、④青山はるか(晃生)、⑤浅葱アゲハ(フリー)〔敬称略〕。

 

アゲハさんは、今週は三個出し。匠悠那さんから譲り受けた作品「フェアリー」と13周年作「モモとじかんどろぼう」、そして桜の和物をやっている。

今回、演目「モモとじかんどろぼう」のステージをたった二回しか観ない状態で、観劇レポートを書かせて頂き大変恐縮しています。もっとじっくりステージを拝見したいところです。

 

アゲハさんの初日一回目ステージを拝見して、私はめちゃくちゃ慌てた。最初レポートするつもりで観ていなかったので。ステージの途中、時計のついた灰色の服装を見た瞬間に「あっ! これは童話『モモ』の時間泥棒だ!」と気づいて慌ててメモを取り出した。

ストリップで私の大好きな童話『モモ』のステージを観れるなんて正直信じられなかった。念のため、アゲハTシャツを着ているアゲハ・ファンらしき人に確認した。昨年の13周年作品であることが判明。私が大好きな童話のひとつにあげる『モモ』を演じていたとは。それを知らないままもうすぐ一年も経とうとしていることに、何よりも知らなかったことにアゲハさんに申し訳ないやらで、一人で勝手に愕然としていた。なにはともあれ、今週はこの作品のレポートに全精力を注ごうと私の童心に火が点いた。

アゲハさんからのポラコメに「一回目の出し物は『モモとじかんどろぼう』です。ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話が元になっていますが、太郎さんの作った童話も読んでみたい★ カメさん出てきますよね!!」とあったので最初に童話を仕上げた。そして、童話『モモ』を再読し、改めてこの童話の奥深さを味わい、ストリップに絡めて色々と思索に耽った。

 

 さっそく、演目「モモとじかんどろぼう」をご紹介する。

最初に、モモをイメージした格好で登場。赤茶けた髪(ウイッグ)、茶色いマフラー。そして胸ポケットの付いたベージュの上着で、背中に銀の縦線が一本入っている。スカートにはたくさんのブロック枠にいろんな絵柄・模様が描かれている。

 手には、光るカメを持つ。直径30㎝以上もあろうかという大きなピンクの花が舞台に置いてある。童話では、カメのカシオペイアに導かれて、時間のみなもとである「時間の花」に遭遇する場面になる。

 音楽はZeddの「Hourglass」。時計の音で始まるのでイメージにピッタリ。アゲハさんのポラコメによると、選曲にあたり「歌詞が、モモの世界観みたいに感じて選びました。」とのことだが、全曲に亘り、その苦心がよく伝わる、素晴らしい選曲だと感じた。ちなみに、Zedd(ゼッド、1989年9月2日 - 現在28歳)は、ロシア生まれのドイツ・カイザースラウテルン育ちのDJ、音楽プロデューサー。本名はアントン・ザスラフスキー。彼の演奏する音楽はエレクトロ・ハウスにジャンル分けされるが、プログレッシブ・ハウス、ダブステップ、クラシック音楽などを楽曲に取り入れている。ゼッドが米国で知られるようになったきっかけとして、Billboard Hot 100で8位にランクインした「クラリティ」や、アリアナ・グランデをフィーチャーした「ブレークフリー」のヒットが挙げられる。また、「クラリティ」で、第56回グラミー賞の最優秀ダンスレコーディング賞を受賞した。

 音楽が、Glee Castの「Smooth Criminal」に変わる。これまた時間泥棒のイメージに合った、ぴったしの選曲。『glee/グリー』は、20世紀フォックステレビジョンで制作されフォックス放送で放送された米国のテレビドラマシリーズ。2009年5月19日から2015年3月20日にかけて全121話が放送された。英語の “glee” とは「自分を解放し歓喜すること」また合唱部の「合唱」のことであるが、本作におけるグリー(合唱)とは、チーム一丸となり歌とダンスの芸術性を競いあうパフォーマンスを意味する。

 灰色の上下スーツに身を包んだ時間泥棒が現れる。黒い帽子をかぶり、スーツの左脇に大きな時計が見える。よく見ると、スーツの襟、袖、裾、ポケットなどに銀色の縁取りがされている。胸元は白いワイシャツと黒いネクタイ。黒いブーツを履いて踊る。アゲハさんによる時間泥棒のイメージがよく出ている。「衣装もオーダーです。」相当に入れ込んで作品を練り上げているね。時間泥棒が(己の生きる糧である)時間の花を盗もうとしているが、物語ではモモの計略で盗めないようにしたため時間泥棒は次々と倒れていく。

 ここで一旦、暗転し、三曲目の音楽がNathan Lanier の「Torn」に変わる。ここから、時間のみなもとである「時間の花」を見て、モモが時間の正体を垣間見る印象的な場面になるわけだが、そのイメージによくマッチしているインスト曲である。

 アゲハさんが裸の上に、ピンク・黄色・青などの色を彩った亀の甲羅柄マント(布)を羽織って登場。黒い帽子を持って舞い踊る。物語はモモと時間泥棒の攻防を描く。マントを脱ぐと、下はほぼ全裸で、金色の首輪、金色のパンティ、そして右腕に金色の布を巻いているだけ。そのまま、エアリアル・ティシューの演技に入る。旋回技を華麗に決める。

 先ほどのマントを再び着て、ピンクの大きな「時間の花」をもって、盆に移動し、ベッド・ショーへ。

 近くでアクセサリーを見ると、銀のネックレス、そして手の指先にピンクのマニキュア。

 ベッド曲は、KOKIA の「moment~今を生きる~」。♪「過ぎ去った時はささやく この瞬間を微笑むべきと 人生は瞬くように 駆け抜けて 風となるから」という歌い出し。まさしくモモの作品を飾るに相応しい選曲である。透明感のある声、卓越した技術、深い情感を併せもつシンガーであり、歌うべきことと真摯に向き合うソングライターであり、時流を追う制作ではなく、音楽本位の創作を志向するプロデューサーでもあるKOKIA。2011年5月18日にリリースされる『moment』は、彼女がその才能をフルに発揮したアルバム。1年2ヵ月ぶりとなるアルバムとなる。KOKIA(コキア、1976年7月22日 - 現在41歳、東京都生まれ。)は、日本の女性シンガーソングライター・ボーカリスト。本名は吉田亜紀子(よしだ あきこ)。ヴァイオリニストの吉田恭子は実姉である。桐朋学園大学音楽学部音楽学科声楽専攻コース卒。大学在学中の1998年(平成10年)にデビュー。芸名は、本名「亜紀子(あきこ)」を逆から読み「こきあ」それをローマ字表記「KOKIA」したものである。デビューシングルである「愛しているから」は、当時の月9ドラマ「ブラザーズ」の挿入歌として使用された。その後は日本のみならず、海外でも活動し、現在に至っている。

 

 圧巻の作品である。

 浅葱アゲハさんと言うと、どうしてもエアリアルの第一人者というイメージが強いが、今回のモモの作品を見て、踊り子としての成長ぶりに目を見張る。レ・ミゼラブルを題材にした11周年作あたりから踊り子として一皮剥けてきたなと感じていたが、今やもう誰にも引けを取らない踊り子になったと言い切れる。素晴らしいの一言である。

 

 初日一回目に拝見して、すぐにポラタイムで「モモは私が大好きな童話だよ」と話したとき、「モモ好きだなんて!!! すごい、うれしいー!!」と喜んでくれ、そして「モモのことを知っている人が少ないんです。」とこぼしていた。

 アゲハさんのファンだったら、必ず名作童話「モモ」を読まないといけないな。アゲハさんが「ストリップと時間についていっぱい考えて作りました。」とポラコメしてくれたように、これだけの想いを込めて練り上げた作品であるからには童話「モモ」を読まないと本当の中身を味わえない。是非とも童話「モモ」を読んでほしい。

 私自身、若いときに童話「モモ」を読んでいるものの、今になって読み返し、ストリップと絡めて「モモとストリップ」「時間とストリップ」を考えてみたいなとずっと思っていた。しかし、「人魚姫」「白雪姫」「シンデレラ」などの童話を題材とするステージは多いものの、さすがに「モモ」を題材にするステージにはお目にかかれず、そうしたストリップ・エッセイを書く機会がなかった。だから、今回、その機会に恵まれ感謝感激だった。

 

改めて、童話「モモ」を再読してみた。やっぱり、以前若い頃に読んだ時と今とでは感じ方に大きな違いを感ずるね。若いときはさらっと読み進んでいたのに、今やズシリズシリと響いてくるものが多い。やはり歳を重ねた分だけ、自分の実体験とダブらせながら読むので、はるかに深く心に沁み込んでくる。

今回の浅葱アゲハさんの演目を機として、ステージと童話から感じたことを「時間とストリップ」という題名で、以下に考察してみた。

 

 

1.    ストリップは時間のかかる遊びである。

 

 ストリップは時間のかかる遊びだと思う。一般の風俗というのは射精で終わるために、あっという間に終わる。ところが、ストリップには射精というのがないため区切りがない。

一回のステージが三時間位なので、それがひとつの区切りではあるが、私のように熱心なストリップファンは、朝早くから開場前に順番待ちし、開場してから終演まで、まさに朝から晩まで時間をかけてストリップを楽しむ。休みの一日は、他には何もできず、ストリップだけで全て終わるのがストリップ常連の常である。ある意味、コスト・パフォーマンスはいい。あっという間に終わる射精風俗と違い、ストリップという風俗は、ポラ撮影を考えないと、安い入場料でずーっと粘って一日楽しめるわけだ。

 射精というのは極めて自分勝手なもので、勝手に興奮して勝手に終わる。その点、ストリップは決まった興行時間に合わせなければならない。一回三時間というステージに合わせ、ポラを撮ったら踊り子に預け、三時間後の次の回にサインポラを回収する。踊り子と仲良くしたいと考えれば最低6時間は時間を費やす。もっと仲良くしたいと考えれば9時間、12時間と三時間刻みでプラスの時間をかけることになる。

 

 ストリップにおける時間のトピックスとしては皆勤がある。踊り子に夢中になった客の中には毎日通い出す人が多い。その結果、十日間フルで通えば皆勤と呼ぶ。会いたいから毎日通ってしまうわけだが、こと皆勤は簡単にはできない。人は誰しも仕事や私的な時間がかかり踊り子さんにばかり時間を割いてられない。たから仕事をうまく調整し、会社の行事をくぐりぬけ、飲みに誘う同僚の言葉を断って、毎日毎日劇場に通うことで漸く皆勤が達成される。この苦労は皆勤した人でないと分からない。皆勤はまさに大好きな踊り子に十日間という自分の時間を捧げることを意味する。踊り子さんに対する熱い気持ちの表れなのである。

 大変であるからこそ、踊り子はそれを評して皆勤賞を贈る。

 

 もうひとつ、ストリップにおける時間のトピックスとして遠征がある。熱心なストリップファンは、好きな踊り子が出演するなら、日本全国どこまでも追いかける。遠い場所だと宿泊する必要もあり、土日二日間をたっぷり時間をかけて応援する。一般のストリップファンは小遣いの範囲内で遊ぶから遠征まではしない。せいぜい仕事の出張を兼ねて遠征するのが関の山で、ここまでが限界。我々レベルでは遠征が当たり前なのでかなり重症レベルである(笑)。

  あるストリップ仲間Mさんの話だが、Mさんはある踊り子Iさんに夢中になり、たった一回のステージにもの凄い時間と労力と金を使ったことがある。次のような話である。

踊り子Iさんが大阪東洋ショーに出演していて楽日を迎えた。その日は金曜日。Mさんは週末金曜日の仕事を漸く終え、時計を見る。今から新幹線で大阪に向かえば、Iさんのラスト四回目ステージに間に合う、そう思うと居ても立ってもいられなくなる。たった一回のステージのため、Mさんはすぐに東京から大阪に新幹線で向かう。Mさんが来てくれて、その踊り子Iさんもびっくり。そして、そのまま、Mさんは夜行バスで大阪から東京に戻って来た。

翌朝、土曜日の早朝に、東京の劇場で彼と会う。私も同じ踊り子Iさんを応援していたので早朝から並んでいた。そう、Iさんは連投で東京の劇場に乗ることになっていたのだ。今日から彼女に会えるのにもかかわらず、Mさんは昨夜わざわざ大阪まで行ったのだ。集まってきた彼女のファン仲間は皆、Mさんの行動を聞き、呆れながら「おまえ、バカじゃないのか」と彼をからかった。しかし、私はそうは思わなかった。たった一回のステージでもいいから、どうしても彼女に会いたいという彼のピュアな気持ちに感動した。これが踊り子に惚れてしまった純粋な彼の想いなのである。時間をかけるとは、こういう事例もあるわけだ。

 

 この事例を考えた場合にも、本当にストリップは時間のかかる遊び、いや、あえて時間をかける遊びということになるわけだが、ただストリップというのは時間を売る商売ではないなと感じる。

 私は今好きな踊り子さんに向け、手紙やレポートを書いているわけだが、いつもマンガ喫茶で執筆活動している。マンガ喫茶では例えば三時間コースでいくらと決まっているが、三時間過ぎると10分毎に80円が加算していく。この分刻みがまさしく時間泥棒である。時間に急かされ、気が焦り、執筆が雑になる。ホント無駄な浪費と思うことが度々ある。マンガ喫茶はまさしく時間売りである。それに対して、ストリップは時間売りではない。先ほどから述べているように、一応一ステージは三時間で一サイクルであるが、何時間居てもいいわけだ。それに対して、パチンコやマージャン等、それを時間潰しと考えるならば全て時間を売ってると言っていいだろう。

 では、ストリップって何を売っている商売なのかと考えると、私は「ストリップは感動を売っている商売だ」と考えている。

 先ほどの事例のように、踊り子に恋している場合はたった一回会えることが感動。私のようにステージから得られた感動をせっせとレポートにしているケースもある。私は感動しないとレポートは書けない。私のレポ―トは私の感動集なんだな。

 

 

2.    自分の時間が持てなければ生きていることにはならない。

 

作者のミヒャエル・エンデは作中でこう語っています。

「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。

なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。」(引用元:『モモ』ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳)

このフレーズが私としては一番ズバッときたところです。

 

ひとつは時間の本質を言い当ててます。

 時間にはふたつのものがある。ひとつは時計ではかれる時間。私たちの文明は、この共通の時間という概念があるお陰でとても便利になっていますね。

 もうひとつは、心の時間です。これは時計では計ることができません。先ほどのスト仲間の事例で見たように、たくさんかけた時間は好きな踊り子にあった感動の瞬間に永遠のものになります。私が書き上げたレポートも、読んで感動が蘇るものであれば永遠のものとなります。時計では計れませんね。

 心は色んなことを語り掛けてくれます。仕事を前にしても手につかない状態だと、仮に時間がたくさんあっても時間の感覚はない。ところが切羽詰まってくると、そろそろ時間が無くなるよと語ってくれます。そこで初めて時間を意識してタイム・スケジューリングしようとしますね。心が感じなければ時間という存在はないのです。

 

 もうひとつ大切なことは、「時間とは、生きるということ、そのもの」

 このことは別の個所にも、次のように記載されている。人間に時間を与えるマイスター・ホラは、灰色の男たちの正体についてこう語っています。

「彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。

 「じゃあ灰色の男は、人間じゃないの?」

 「いや、人間じゃない。似た姿をしているだけだ。」

 「でもそれじゃ、いったいなんなの?」

 「ほんとうはいないはずのものだ。」

 「どうしているようになったの?」

 「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまをあたえている。それだけで、灰色の男たちはうまうまと支配権をにぎるようになれるのだ。」(引用元:同掲)

 

「『じぶんの時間』を生きられなければ、灰色の男たちのようになってしまいます。

なにについても関心がなくなり、なにをしてもおもしろくない。この無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなる。気分はますますゆううつになり、心のなかはますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世のなかにたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世のなかはすっかり遠のいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心のなかはひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そう、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」(引用元:同掲)

 

 時間に追われ、仕事に追われる現代人の姿を風刺的によく表していますね。

 

「じぶんの時間を生きる」とは、自分にとって大切なものを抱えて生きるということ。

 改めて、自分の人生を振り返ってみて、何が一番好きなことか?を考えてみる。

 小さい頃は何になりたいかよく分からなかった。勉強だけは一生懸命にやって成績はいつも良かった。だから希望の大学にストレートで入る。でも成績が良かったから法学部に入っただけで、法律が好きだから法学部ではなかった。実際、法律は勉強していてつまらなかった。おそらく私には文学部の方が向いていた。法学部は就職に優位なので一流の会社に入れた。ところが、会社で何をしたいかが無く、ただ一生懸命に仕事に向き合ったために出世はした。仕事には達成感など楽しい面もあるが、実際のところ私にはビジネスが向いているとは思わなかった。もちろん仕事は、家族のために稼ぐことが一番の目的だった。

 あるとき、ストリップに出会い、ものすごく感動した。自分の中に押し込められていた欲望が爆発したみたいな感じ。しかも単にステージを鑑賞するだけでなく、ステージから得られた感動を文章に落とし込む作業をやり始める。執筆が趣味だったので嵌りに嵌った。ところが、ストリップは時間のかかる遊びである。仕事や家庭生活の中からストリップに割ける時間は極めて限られる。しかも最大のネックは、ストリップが家族からも会社からも認められないという点。したがって、こそこそ隠れながら、時に嘘をつきながら、大好きなストリップに時間をかけていく。一般の人は、土日の休みだけとか、小遣いの範囲内とか、そういう限定された中でストリップを楽しんでいる。ところが、私の場合はその殻を突き抜けてしまった。

 家庭を壊すつもりは更々なかったものの、「残業で遅くなる」「今日は休日返上で出勤しなければならない」などの嘘がばれ、とうとう妻に愛想をつかされる。「ストリップは単なる遊びだから」という理屈は妻には通じなかった。救われたのが子供三人の子育てが終わり既に社会人になっていたことか。離婚後は、自分の給料は全てストリップに注ぎ込めるようになる。家庭に振り向けるべき父親としての時間の制約も無くなった。

 会社は生活の糧になくてはならないもの。それも、ある踊り子の出現を機にして退職となってしまった。定年前に会社を辞めるつもりは無かったが、こうなってしまったからには運命と思うしかない。退職金は十分もらったので、十分働いた満足感はある。

 家庭と仕事という束縛から解放された瞬間、私の時間は完璧に自由になった。全てを捨てることで見えてきたものもある。

今は大好きなストリップ三昧が可能になった。毎日好きな踊り子を追いかけ、好きなだけ観劇し、好きなように執筆している。好きな踊り子さんのために観劇や執筆にいくらでも時間を費せることは本当にストリップ冥利に尽きる。私は間違いなく、今や自分の時間の主人公になれて、生きている実感がある。

 ただ、家庭を捨てた後ろめたさ、仕事をしていない罪悪感、将来的に金銭面や健康面や身寄りのない不安などは付きまとう。今はストリップの楽しみで気を紛らわしている。ただ、東京オリンピックを前にして今後のストリップがどうなるか分からないし、また観劇や執筆に没頭できるのは体力的には今しかなかったとも考えてもいる。何よりも、好きなことに時間が割けることは生きている実感がある。

 

 

3.    好きな人と関わることは、相手に自分の時間を与えること

 

モモには人の話に黙って耳を傾けられるという最高の能力があった。このことを童話の最初のところで印象深く書いてある。「聞く」ということがどんなに素晴らしいか、がよく分かる。

 

主人公のモモには、ひとつだけ特殊な能力があります。それは「聞く」こと。この能力を体験した住民たちにはこのような変化がありました。

(一)ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。

(二)じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。

(三)どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。

(四)ひっこみじあんの人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。

(五)不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。(引用元:同掲)

 

小林良孝氏の論文「ミヒャエル・エンデ著『モモ』の世界構造について」によると、このモモの能力によって、住民の4つの能力が引き出されるとされています。

それは、「愛する」こと、「空想する」こと、「希望する」こと、「信じる」こと。

(一)にあてはまるのは、左官屋のニコラと安居酒屋の亭主ニノである。彼らはモモに話を聞いてもらうことによって、互いに相手を「愛する」能力を身につけたのである。

(二)と(四)にあてはまるのは、子供たちである。彼らはモモと一緒に居るだけで、奇想天外な遊びを思いつき、ひっこみ思案な子でも、その遊びに熱中し、見ちがえるほど勇敢に行動したのである。子供たちはモモと一緒に居るだけで、「空想する」能力や熱中する能力を身につけたのである。

(二)と(三)にあてはまるのは、観光ガイドのジジである。彼もモモと一緒に居るだけで、彼の空想力は天衣無縫にはばたき始め、自分のやりたいことがはっきりしてきて、あすへ向かって「希望する」能力が生まれてきたのである。

(五)にあてはまるのは、道路掃除夫のベッポじいさんである。彼もモモに話を聞いてもらうことにより、道路掃除という・仕事の重要さへの信念をますます深め、道路掃除夫であっても自分はこの世では唯一無二の重要な存在であるという信念をますます深め、ますます喜々として自分の仕事に着実に励むようになったのである。つまりベッポは、モモに話を蘭いてもらうことによって、「信じる」能力をますます強固たらしめたのである。

(引用元:小林良孝「ミヒャエル・エンデ著『モモ』の世界構造について」)

 

「じぶんの時間」を生きるとは、自分にとって大切なものを抱えて生きるということ。

ニノと二コラにとっては、「愛する」こと

子どもたちにとっては、「空想する」こと

ジジにとっては、「希望する」こと

ベッポにとっては、「信じる」こと

モモは人生におけるこの4つの重要性を教えてくれました。自分にとってほんとうに大切なものは何なのか、考えさせられます。私にとっては、それはストリップだと思えたのです。

 

ここで大事なことは、「聞く」という行為は「自分の時間を与える」ということに通じます。

私はたくさんの踊り子が好きだから、毎週、自分の時間のシェアリングをする。あの踊り子さんに何日、この踊り子さんに何日会いに行くと予定を立てる。そのことを前にエッセイで書いたが、「愛シェアリング」と命名している。

踊り子がステージで演じ、その訴える声を心を耳立てて聞き分けようとする。そして、その声を私なりに文章に落としてみる。それが私の観劇レポートであり、私の創作童話であり、これらは私の時間と感動が詰まったシロモノである。

最近、アゲハさんを始め、私の創作童話にマンガを描いてくれる踊り子さんが出現した。こんな客サービスはこれまで聞いたこともない。マンガを描くことは、絵心という才能もあるだろうが、だいたい時間がかかって大変だと思う。こんな私のためにそこまでサービスする義務はない。それにもかかわらず描いてくれたマンガを目の前にして私は感動で胸が張り裂けそうになる。そこに踊り子さんの時間が凝縮されているのだ。それが分かるから涙が出てくるほど嬉しい。

そもそも絵というのは時間のシロモノ。絵心ある画家がたくさんの時間を費やして描く。我々はその時間を一瞬にして味わうことができる。だから感動するのである。それは作家でも画家でも建築家でも舞台演出でも(もちろん踊り子も)、みんな同じことなのだ。芸術というのは全て「その人の時間の凝縮」なんだ。

アゲハさんが朝早く起きて私のためにマンガを描いてくれたと聞いたとき、心からありがたいと思った。私との長い付き合いの中で培った、私の文章に対する愛情をひしひしと感ずる。私にマンガを提供してくれた踊り子さんは皆同じ気持ちだと思う。私の童話のマンガ化で私と踊り子さんのコラボが実現した。ある程度、量が増えてきたら形として残したいと思っている。これが私の「ストリップ・マガジン構想」なんです。密やかな夢と思ってきましたが、アゲハさん達のお陰で夢の実現ができそうな予感がしています。

 

モモの物語では、時間を節約するために人と話すことをどんどん切っていきます。モモのように人の話を聞くために、自分の時間を惜しみなく与えることとは真逆ですね。

真の愛とは自分の時間を惜しみなく与えることだと思います。母親は子供のために時間を惜しみません。自分の時間なんか忘れてしまいます。そう、「時間を大切にする」というのは、「時間を無駄にしない」ことではなくて、「時間を忘れる」ことかもしれませんね。

時を忘れるほど、大好きなことをしている瞬間、大好きな人たちと一緒にいる瞬間、そんな時を重ね刻んでいく人生は、どんなに幸せだろうと思います。

 

Giving is living 与えるのは生きていること

 

Strip is living 私にとってストリップこそ生きている証

 

 

4.    ストリップは「時間の花」なんだ!

 

モモの物語を読んでいて、最も印象的なのは「時間の花」のシーンだった。(※. 以下に要約版を記載するが、この部分は生の文章を味わってほしい。少し長いけど、原文を最後に添付しておく。)

モモは、人々が時間を奪われ続けているとき、円形競技場に突然現れたカメ・カシオペイアに連れられ、時を司るマイスター・ホラのところを訪れた。マイスター・ホラの家、時の生まれる場所で、モモは、「時間の花」を見せてもらう。

そこは、丸天井の下、暗い池に光が差し込んでいた。黒い鏡のようになっている池の水面を大きな大きな時計の振り子が行きつ戻りつしている。振り子が、池のへりに近づくと、大きな花がすぅっと咲き、振り子が遠ざかると散っていく。それが何度も何度も繰り返される。しかも花はこれまで見たことのない美しい花たち。その花が散る時、モモはとても悲しい気持ちになるが、次の瞬間には、また振り子が近づいた場所に新しく咲いた花を、これまで見た中で一番美しいと感じるのでした。

同じ花は1つとしてなく、新しい花が生まれるたびに、今までで一番美しく思えてくる。これが「時間の花」。そのすばらしい光景を目にしたモモは、時間の真実を悟る。

この場面を読んで、「時間」というものを、これほど豊かに表現した物語を読んだことはなかったと思いました。

ホラはモモに、「(この場所は)おまえじしんの心のなかだ」と告げる。この時間の花は、1人1人の中にあり、生きている限り生み出され続ける。しかし、こんなに輝いていて、こんなに貴重なものに思えるのに、同じ花は二度と咲かない。

この物語では、「時間」とは一度しか咲かない美しい花として描かれる。とても美しい比喩であり、この描写だけでもエンデの名は永遠でしょうね。

 

要約すると、「時間は、均質なものではなく、その瞬間、瞬間で全く違う唯一無二の花を咲かせるような美しい心の世界――。」

このシーンを読んでいると、「時間」というものの儚さをしみじみと感じる。その一瞬一瞬の美しさに気づかず、幸せを感じずに生きるのは、あまりにもったいない。

 

ふと、踊り子もステージも「時間の花」なんだと思えた。

踊り子が輝ける期間というのは一生の間でもほんの短い間だけ。永久にできる仕事ではない。若さが輝ける期間は有限である。そう思えば思うほど、今、このステージで精一杯輝きたいと思って頑張る。踊り子の輝きは「時間のもつ花」なのだろう。

どの踊り子も個性をもち、みんな違う輝きをもつ。そして、次から次へと新しい踊り子が出てきて、次から次へと新しいステージをやる。その新しいステージが一番いいと感じる。私はいつも、いま目の前の踊り子、いま観たばかりのステージが最高と思い、その感動をレポートに落とし込む。少し後から書こうなんて思ったら、その感動は逃げていく。「時間の花」はその瞬間に輝きを発するから、すぐ枯れてしまうのである。

 

やはり大切なのは「今」なんだ。「いつやるの?」まさしく「今でしょ!」となる。

「たった今」というひとときは、どんな過去より未来より美しく、尊い。そしてその「今」が過去に去って次に来る「今」も、やっぱりこれまでで一番美しい。日々の時間をそんな風に感じられるモモは、いつも「今」に生きていて、だからこそ、「未来」の約束と引き換えに「今」を奪おうとする灰色の男たちの取引に応じることはないのです。

今という瞬間、目の前の物事に夢中になっている時、私たちは本当に今を生きて、与えられた時間を大切にしていると云えるのだと思います。 

 

張り切って書き始めたら、思索が広がり、かなり長い論文調になってきた。今まで書いたレポートで一番長いものになったよ。内容の質はともあれ、それだけで大満足です。すてきな機会を与えてくれたアゲハさんに心から感謝します。

 

 

平成30年3月                         大阪晃生ショーにて

 

 

 

 

 

〔参照 ※〕少し長くなるが、「時間の花」の章を物語から引用。描写がとっても美しい。

 

「時間のみなもとを見たいかね?」

「ええ。」と、モモはささやくようにこたえました。

「つれていってあげよう。だがあそこでは沈黙を守らなくてはいけない。なにもきいてはいけないし、ものを言ってもいけない。それを約束してくれるかね?」

それから、マイスター・ホラのうでに抱かれたまま、長いくらいろうかをとおっていったようです。

 

天井のいちばん高い中心に、丸い穴があいています。そしてそこから光の柱がまっすぐに下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があります。そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。

 

水面にすぐ近いところで、なにかあかるい星のようなものが光の柱の中できらめいています。それはおごそかな、ゆったりとした速度で動いているのですが、よく見ると、黒い鏡の上を行きつもどりつしている大きな大きな振子でした。でもどこかからぶらさがっているのでもないようです。まるでおもさのないもののように、宙をたゆたっています。

 

この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近付いてきました。するとそのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくについれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかり開いた花が水のおもてにうかびました。

 

それはモモがいちども見たことがないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているように見えます。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。星の振子はしばらく花の上にとどまっていました。モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないならがらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。

 

やがてまた振子は、ゆっくりもどっていきました。そして振子がわずかずつ遠ざかるにつれて、おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととり戻すことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気持ちがしました。

 

ところがそのときには、池のむこうがわに、またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。そして振子がゆっくりと近づくについれて、さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。

 

今度の花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしていますが、こんどの色のほうが、はるかにゆたかで、はなやかな気がします。においも、さっきとはちがう感じの、もっとあでやかなにおいです。見れば見るほど、つぎからつぎとこの花のすばらしい点がモモの目に入ってきました。

 

けれどもやがてまた星の振子は向きをかえ、花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の沼の底知れぬ深みに消えてゆきました。

 

しずかに、しずかに、振子は反対がわにもどって行きます。けれどさっきとおなじところではなく、ほんのわずかずれたあたりです。そしてその場所、さいしょの花から一歩ほどはなれたところに、またしてもつぼみがひとつ浮かびあがり、しずかにふくらみはじめました。

 

これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です。

 

けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思い出して、じっとこらえました。

 

向こうがわへ行った振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまで進み、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲き出しました。

 

見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。

 

(岩波書店ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳「モモ」213ページから217ページ)

 

 

 

                                    H30.3

『モモがやってきた ―うさかめver―』  

~浅葱アゲハさんの13周年作「モモとじかんどろぼう」を記念して~

 

 

 

ある日、森のストリップ劇場に、不思議の国から一匹のうさぎがやってきた。

そのうさぎは、大きな時計をショルダーバックのように肩からぶら下げているので「時計うさぎ」と呼ばれていた。いつも時計に追われるように「あぁー忙しい!忙しい!」と言うのが口癖になっている。そのため、別名「忙しうさぎ」とも陰口されている。

さて、その時計うさぎは、不思議な国で上演されている舞台を森のストリップ劇場でも上演させようと企画していた。そのため、森のストリップ劇場の看板娘になっていたうさぎちゃんに演技指導するためにやってきた。一応、時計うさぎは同じうさぎとして先輩なので、うさぎちゃんは「お姐さん」と呼んで立てていた。

時計うさぎは、「忙しい!忙しい!」と叫びながら、うさぎちゃんに演技指導した。ゆっくり反復練習なんかしない。ひとつをマスターしないうちに、次から次と新しい振付をこなしていく。出来上がりはすごく早かったものの、踊り込んでいないため、そのステージはどこかバタバタ感があった。

これまで、カメさんは出来上がった作品にケチをつけることは一度もなかった。いつも「よく頑張って仕上げたね。いい出来栄えだよ。」と労をねぎらう言葉をかけていた。ところが今回は違った。うさぎちゃんを諭すように話し出した。「ストリップのお客さんは癒されたくてステージを観に来ている。ところが今回の作品は観ていてバタバタしているので、客としては気持ちが癒されるどころか落ち着かなくなる。もう一度、最初からやり直してみたらどうかな。」

カメさんにそうアドバイスされたものの、うさぎちゃんは、時計うさぎのお姐さんへの手前もあって、どうすればいいか困ってしまった。

 

そんなとき、ひょっこりとモモが2人の親友、道路掃除夫のベッポという老人と観光ガイドのジジという青年、そしてカメのカシオペイアを連れてやってきた。

カメさんはカメのカシオペイアを見つけた瞬間に、そそくさとご挨拶に行く。なぜなら、カシオペイアはカメさんのお師匠さんだったのだ。カメさんが時に哲学的な話をするのもカシオペイアの影響だったんだね。

カシオペイアは、劇場に到着するやいなや、訝しい顔つきをして、モモとカメさんに「近くに時間泥棒の気配を感ずる」と耳打ちした。

図星だった。時計うさぎは時間泥棒に侵されていたのだった。

それを知ったカメさんは、うさぎちゃんと劇場経営者にすぐに相談に行き、時計うさぎを解雇し不思議の国に帰らせることにした。

 

カメさんはうさぎちゃんに話した。

「ストリップというのは時間のかかる遊びなんだ。いや、あえて時間をかける遊びと言い換えてもいい。ゆっくり時間をかけてステージを楽しむのがストリップの良いところ。だから、演目を作る踊り子さんの方も焦ることなくゆっくり作品を練り上げていけばいい。そうすれば、良い作品もできるし、観ている客も落ち着いて観れて癒されるんだ。

 きっと、ストリップにはカメの歩みが向いているんだね。‘歩’という字が止と少でできているように、ボクは歩いては止まって考え、そして少しだけ進んでいく。その繰り返し。だからボクは歩くのがのろいけど、その方が結果的に早く遠くまで行ける秘訣だと思っているんだ。思い出してごらん。うさぎとカメのかけっこの時もそうだったよね。」

 カメさんがいつものように哲学的な話をしました。でも、うさぎちゃんはそんなカメさんを尊敬の目で見ていました。

 

 モモたちは、看板娘のうさぎちゃんがいつものように元気にステージを演じているのを楽しそうに観ていました。

こうして、森のストリップ劇場では、いつものように時間がゆっくり・まったり過ぎていくのでした。

                                   おしまい

 

【参考】童話『モモ』のあらすじ

円形劇場あとに住みついた女の子モモ。モモは、掃除夫のベッポ・観光ガイドのジジという2人の親友や友達たちと楽しく暮らしていました。

ある日、時間貯蓄銀行の灰色の男たちが街にやってきて、人々の時間を盗み始めます。みんな時間に追われるようになり、心もギスギスするようになりました。モモは、今まで遊びにきていた友達たちがやってこないことで、街の異変に気付きます。モモと親友たちは、世の中がおかしいことを大人たちに知らせますが、誰も聞いてくれません。

灰色の男たちから目をつけられてしまったモモは、男たちに追いかけられます。しかし、モモのもとに現れたカメに助けてもらい、時間の外側にある「どこにもない家」に連れていかれます。そこで、マイスター・ホラと出会い、時間の秘密や灰色の男たちとの戦い方について教えてもらいます。そして、モモの活躍によって、みんなの盗まれた時間が元にもどり、人々は時間に追われることなく、以前のように楽しく過ごせるようになりました。

 

【浅葱アゲハさんからの感想コメント】

・「すごい!! モモとストリップ論文!! 」

・「モモの感想、すごい嬉しーです。ありがとう。 モモやってきて本当によかったですー。」

・「モモのときはくるくるヘアにしてるけど、髪型はボブなのかな? 聞いてくれてありがとー」

童話に対して

・「うわー! モモの童話!! すごい!! うれしいー!! めちゃくちゃ深いですね。じっくり読みたい。」

・「またマンガ描かせてね!!」