次に、ストリップのアート論を追求したい。

ストリップの本質はエロスにある。エロスはアートに結びつく。アートであればその表現は自由であるはずだが、ストリップにおける表現の自由はどこまで含むのか。性器を露出するとアートではないのか。

 アダムとイブの時代から、人間はエロスを抜きに語れない。エロスを否定したら子孫は生まれない。エロスは人間の最も根源的な欲求である。だからいたずらにエロスを忌み嫌うことはありえない。当然に性器も含めて表現の自由を認め、アートである認識をすべきと思う。

 

オペラはよく総合舞台芸術だと言われる。それは音楽に加え、演劇(演出や演技)、文学(歌詞)、美術(舞台装置や照明、衣装)といったさまざまな要素が上手に合わさって作られているからだ。私たちは耳から音楽を楽しむだけでなく、歌手の衣裳、演技、そして舞台装置までもいっしょに楽しむことができる。だからオペラは、その形式に慣れれば慣れるほど、知れば知るほど楽しいものとなる。

 このオペラから発展していったのが、歌の他にダンスも取り入れた宝塚歌劇団やミュージカルである。ストリップのイメージはむしろこちらに近い。ストリップは宝塚歌劇団やミュージカルから歌を外しヌードを取り入れた形である。

 したがって、ストリップは音響・照明など設備的な技術を備え、ダンス・演技・ファッションが融合した総合芸術であるジャンルは古今東西を問わず、古典的なダンスから最近のダンスまで幅広く、さらに歴史劇、ファンタジー、SFなど多岐にわたる

 これをアートと呼ばずして何がアートだと叫びたくなる。

 近年、ストリップ劇場に女性客がたくさん押し寄せるようになったのは、こうしたストリップのアート性に魅力をもっていただけたことに他ならない。

 

 ただ一点、ヌードの披露だけが、オペラ、宝塚歌劇団やミュージカルと違う。そのためだけに「わいせつ」と捉えられてしまう。

たしかに、ストリップは‘エロスの殿堂’と云われ、ヌードを披露するのが大きな特徴である。しかし、だから言って「ストリップがわいせつだ」「だから公然わいせつ罪の対象になる」と断言されるのは私としては非常に心外である。

 

 もう一度、花月さんの解釈に立ち戻ろう。

< 本罪のわいせつ行為とは、①行為者又はその他の者の性欲を刺激・興奮・満足させる動作であって、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいうと考えられている。これは、いわゆる「わいせつ3要素説」を呼ばれる定義である。通説によれば、「わいせつ」性の判断にとり、ストリップ客の感情は重要ではなく、あくまでも「平均的な通常人あるいは一般人」が基準とされることになる。

 この「平均的な通常人あるいは一般人」がどのような者であるのかは必ずしも明らかではない。しかし、少なくとも、ストリップショーを単なる「性的な満足・快楽」のためのショーであると信じて疑わないような、無知と偏見に満ちた「一般人」を基準とすれば、上記の3要素は満たされうるであろう。>

 この点について、「一般人」とは女性客が最も適任であると私は認識している。

近年ストリップにおいて女性客(いらゆる‘スト女’)が増えていることが極めて重要である。彼女たちは決してレズなどではなく、ストリップショーから性的な快楽や満足を得ているわけではない。ストリップをダンスパフォーマンス等を中心とするエンターテインメント性の高いショーとして楽しんでいる。そしてストリップショーに出演する踊り子をカリスマ的な対象とみなして追いかける。まさしくアイドルの追っかけと同じなのである。彼女たちこそ「平均的な通常人あるいは一般人」たりうる。

 今や、ストリップはエロではなく、アートなのである。古今東西の演目内容のソフト面からも、照明・音響・舞台装置などのハード面からも、今やストリップは総合芸術と言える。

 

個人的な話で恐縮だが、実際に私は毎日ストリップを鑑賞しながら書きもののネタを得ている。単にヌードだけだったら途中で飽きてきたことだろうが、ヌードと書きものという二つの趣味が絡み、ストリップの魅力から抜けられなくなっている。踊り子のステージからネタをもらい、それを童話にし、すぐに踊り子さんを読者にして読んでもらう。生の感想をいただける。最近ではよく踊り子さんが私の童話をイラストにしてくれる。こうして、私という物書きと踊り子のコラボが生じている。こうした域でストリップを楽しめるのは、ストリップがアートである何よりの証左である。私のスト仲間が「おまえは現代の永井荷風だね」と私のことをからかう。もちろん永井荷風大先生にははるかに及ばないが。ちなみに私の生まれた昭和34年は永井荷風の没した年である。

作家の永井荷風は晩年(昭和34年に79歳で没)浅草ロック座に(亡くなる直前まで)毎日のように通い詰めていたのは有名な話である。ステージを観ながら創作の刺激をもらっていたらしい。ちなみに、ロック座は昭和22年にオープンした。荷風はロック座のヌード嬢オーディションで、 審査委員長を務め、誰よりも早く会場に現れて細かく指図、大いに張り切っていたのは、昭和26年。文化勲章を受章する前の年の出来事でした。文化勲章を受章したときはロック座の支配人や踊り子達30人あまりで祝賀会が開かれた。

 また、浅草ロックからは作家の井上ひさし氏も輩出した。先にストリップの歴史のところで、昭和を代表する喜劇人を連綿と輩出したことは述べた。こうした背景をもって、ストリップをアートと認識するのは極めて自然なことではないか。

 

 ヌードをアートとして捉えることは誰も異論がないだろう。問題は「性器の露出」だ。

 この点については再度、花月さんの文章を載せておく。

<さらに、「性器の露出がある以上、わいせつという判断は揺るがない」との指摘がなされることもありますが、そんなことは法律のどこにも書かれていません。確かに、「性器の露出」の有無が摘発に際して重視されてきたことは事実ですが、それは取り締まる側がそのように運用してきたというだけの話であり、何か確固たる法的根拠が存在するわけではありません。最近でも、ろくでなし子さんの事件で、女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した作品の「わいせつ」性を否定する判断を裁判所が示したことは注目に値するでしょう。「性器=わいせつ」という空虚な公式は、すでに綻びを見せ始めているように思います。>

 

 私はすぐに、ろくでなし子さんの事件を調べてみた。憲法学者・志田陽子(武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員)のネット記事「ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき」(2020/7/17掲載)が非常によくまとめられていて共感した。

日本国憲法21条は「一切の表現の自由」を保障している。規制があるとしたら、誰かの権利(人格権や著作権など)を害しているか、社会の安全を害するような行為だ。しかし刑法175条はその例外として、被害者がいない場合でも「わいせつ」な表現内容を処罰の対象としている。しかし、ここにまた例外がある。いったんは「わいせつ」に当たるとされた作品が裁判で「芸術的・思想的価値」が認められ、「わいせつ」に該当しないと判断される場合がある。「ろくでなし子」事件はこれをメインの争点とする裁判となった。

 結論としては、<従来の「わいせつ」の定義を踏襲した上で、そこに「芸術性・思想性」があるものについては例外的な考慮をする、という考え方がとられている。その考慮をすべき作品かどうかで、有罪・無罪の判断が分かれた。> 結果として、性器であれ装飾を施したものは無罪で、性器そのものに近いものは有罪(罰金40万円)とされた。

「少しでも装飾(デコレ)されればアートで、そのものだとアートでない」という考え方について、志田氏は「これは美術を少しでも勉強したことのある人なら、呆れてしまう古さだろう。」と批判している。ほんと、裁判官は全くアートを分かっていない。アートを勉強した人に笑われるぞ。

志田氏は、「わいせつ」における過去の判例と争点について整理して次のように述べている。

< 刑法175条「わいせつ」について、日本では、1957年の「チャタレー夫人の恋人」判決以来、《羞恥心を害すること、性欲をいたずらに興奮させたり刺戟したりすること、善良な性的道義観念に反すること》が「わいせつ」とされた。以後、1969年の「悪徳の栄え」事件判決、1980年の「四畳半襖の下張」事件判決といったいくつかの最高裁判決の中で、判断の枠組みが作られてきた。

< 最高裁判所は、1957年の「チャタレー夫人の恋人判決」以来、「最小限度の道徳」を維持するという立法目的を正当と認めて、刑法175条を憲法違反とする可能性を認めてこなかった。>

< こうした裁判の積み重ねの中で、「わいせつ」に当たる部分があっても、作品の全体を見て判断して「わいせつ」に当たらないとする場合がある、という考え方が示されるようになった。1980年の「四畳半襖の下張」事件判決では、作品の芸術性・思想性を総合してみたときに作品を「わいせつ」ではないとする場合もあるとする考え方が示された。

判断のための理論としては、こうして作品の芸術的・思想的価値を考慮する余地が開かれてきたわけだが、これらの裁判ではどれも、それでも有罪とされている。この種の裁判で無罪判決が出たのは、約40年前、1982年の「愛のコリーダ」事件判決くらいのものではないだろうか。そのくらい、実際に無罪判決が出るのは稀有なことなのである。

 

 先に「ストリップの歴史」のところで話した内容と同じになる。

こうした経緯を見てくると、刑法175「わいせつ物頒布等の罪」と憲法21「表現の自由」との関係について、真正面から刑法174を違憲だとして覆すのは、並大抵なことではないことがわかります。

これに対して、志田先生は次のような疑問を投げかける。

<「わいせつ」とは生殖器の描写を言うのか、性行為描写の誘淫性を言うのか。この判決で参照された先例はすべて性行為場面の文章表現を問題とした判例である。標本のような人体模型について、同じことが言えるのかどうか。>

 この点についてストリップで考えると、ストリップは白黒ショーや本番生板ショーのように性行為そのものを見せることは廃止してきたという過去の経緯がある。これはこれで「性行為描写の誘淫性」を排除してきた努力として認めるべき。そのうえで、残るは「生殖器の描写」となる。ストリップの場合、ステージという一連の作品の中で「性器の露出」は作品の中のほんの一部である。しかも決して「性器の露出」を目的としているわけではなく、あくまで手段としている。そこでは踊り子のエロスや魅力を最大限に引き出すクライマックスな場面として表現されている。すべてをさらけ出すことで嘘偽りのない真の迫力を示す。ここには芸術性がある。だからこそ、観客は感動するのである。これに芸術的価値を見出せない人こそ、目が曇っているとしか言えない。

 

 

 最後に、「バーレスク」について話したい。

「バーレスク」というと、クリスティーナ・アギレラ主演のミュージカル映画や六本木にあるショーパブを思い浮かべる人も多いでしょうが、バーレスクは映画のタイトルでできたワケではありません。バーレスクという言葉が登場したのは、16世紀初めのこと。

「バーレスク(Burlesque)」とは、有名な作品を風刺したり、その作品のテーマをこっけいに描いたりする文学・戯曲・音楽のジャンルです。しばしばパロディやパスティーシュと言い換えられ、読み手(あるいは聞き手)に高い教養が求められるジャンルといえるでしょう。文学や戯曲ジャンルとしての「バーレスク」という言葉は17世紀後半から用いられ、その後アメリカにおいてバラエティ・ショーの形式による見世物を指すようになりました。

バーレスクというと、クリスティーナ・アギレラが映画初主演を務めた『バーレスク』をイメージする人が多いでしょう。映画『バーレスク』のような華やかなショーガールが出演するアメリカ式のバーレスクは、1860年代から1940年代にかけて人気を博しました。

バーレスクの歴史をもう少し詳しく見ていきます。

16世紀の初め、バーレスクという言葉はフランチェスコ・ベルニ『Opere burlesche』のタイトルにおいて初めて登場しました。その後、1830年代から1890年代にかけてロンドンの劇場においてパロディミュージカルの形で人気を博し、有名なオペラ・戯曲・バレエ作品がより間口の広いミュージカル劇に翻案されました。この時代のバーレスクは「ヴィクトリア朝のバーレスク」と呼ばれ、イギリスの伝統芸であるパントマイムとも結びつけられることもありました。

ヴィクトリア朝のバーレスクの流れを汲む形で登場したのが「アメリカン・バーレスク」です。この時代になると、出し物は伝統的な路線からストリップショーへと移行され、1932年までには少なくとも150人のストリップをこなすパフォーマーがいたのだとか。しかし、開放的なアメリカン・バーレスクの時代は禁酒法の施行により壊滅的なダメージを受け、衰退します。

このままバーレスクはみじめな末路をたどるかと思いきや、1990年代に入るとヨーロッパやアメリカでバーレスクへの再評価が進みます。この時代は「ニュー・バーレスク」または「ネオ・バーレスク」と呼ばれ、伝統的なバーレスクの芸能に基づきながらも幅広いスタイルのパフォーマンスが登場しました。バーレスク復興、新世代の到来、リバイバルともいえます。

日本でバーレスクが導入されたのは、戦前のこと。東京・浅草において軽演劇や浅草オペラなどが発展し、榎本健一らが無声映画に参入するとともに日本映画に導入されました。

 

こうしたバーレスクの歴史を振り返ると、日本のストリップはバーレスクの影響が強いことが窺えます。本章の最初に、オペラや宝塚歌劇団・ミュージカルの話をしましたが、それらはバーレスクと絡みます。

近年、バーレスクという言葉を頻繁に耳にするようになったのは、やはり2010年公開のアメリカ映画『バーレスク』の影響でしょう。映画『バーレスク』はクリスティーナ・アギレラが映画初主演を務めるということで話題を呼び、アギレラのカッコイイ歌声とダンスは全世界を魅了しました。

ストーリーは、歌手になる夢を実現するためにロサンゼルスに出てきたクリスティーナ・アギレラ演じるアリが、華やかなショーを繰り広げる「バーレスク・ラウンジ」で働くようになるというもの。ヒロインが次第にその才能を開花させていくというサクセス・ストーリーに感化されたダンサーも少なくないでしょう。

しかし、ニュー・バーレスクの代表的なスターのひとりであるディタ・フォン・ティースは「バーレスクの歴史からストリップを消し去ろうとするハリウッドの試みはこれを築いてきた全ての女性への侮辱である」と批判。また、New York Burlesque School設立者でバーレスク・パフォーマーのジョー・ウェルダンは「ストリップティーズこそがバーレスクを特徴づけるものであるのに彼女(アギレラ)はそれをしていない」と、いずれもストリップティーズの不在を強く批判しています。

この記事を見て面白いなと感じました。これは日本のストリップ批判にそのまま当てはまります。ストリップがあればこそ、ステージは芸術作品として昇華するのです。そこでは「性器の露出がわいせつだ」なんて発想はぶっ飛んでます。

 

この映画『バーレスク』の影響を受け、六本木に2011年にオープンした「バーレスク東京」。まさに映画『バーレスク』の世界観を体験できます。バーレスク東京は”新感覚エンターテイメント”をコンセプトとしたショークラブであり、六本木にありながらも海外に来たかのような迫力のショーが観れます!

セクシーな衣装に身を包んだ美女ダンサーが繰り広げるパフォーマンスショーは、そのクオリティーの高さから人気を集めて日々ファンを増やしています。男性はもちろん、最近では女性のお客様も急増中です。ストリップ界にスト女が登場してきたのは、こうした背景があります。

日本のストリップは文化的な土壌が違うためバーレスクとは微妙に異なりますが、世間的な評価は同じものと感じられます。というか、同じであるべきです。

バーレスクがアートであれば、ストリップだってアートなんですよ。

 

                                     つづく

 

 

 

 

【参照文献】ネット記事

・「ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき」志田陽子 2020/7/17

・「ろくでなし子」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・「バーレスクってなんなの?歴史的背景や特徴を解説」2020/11/26

・「永井荷風とストリップと浅草ロック座」2012-10-12