次に「ストリップは刑法の公然わいせつ罪に該当するのか?」というメインの疑問に対して、ストリップ太郎が説明を始めた。

 

「まず、結論を言おう。これまでの警察の検挙事例、それへの裁判所の判例から見ると、ストリップは違法とされている。ストリップが現在のように経営できているのは警察が黙認しているからに過ぎない。」

「しかし、時代は流れ、ストリップの状況は昔とずいぶん変わってきている。そうした背景を鑑みた場合、現時点で争ったなら、ストリップは違法ではないと考えることができる、と僕は考える。」

 前段について本章で述べ、後段の私見は次の章以降で述べることとする。

 

1. はじめに

 

 ここでは、ストリップと最も根深い関係にある「公然わいせつ罪」について、その成立がいかなるロジックにより認められてきたのかを検討していく。花月さんのネット記事に沿って話を進めていく。内容は一部の私見を除き、ほぼそのまま転載させて頂いている。

 

言うまでもなく、ストリップ劇場の摘発において最も頻繁に持ち出されるのが、この「公然わいせつ罪」の規定である。日本の刑法174条は次のように規定している。

「刑法174条 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料に処する。」

古くより最高裁判所は、ストリップ・ショーに公然わいせつ罪が成立することを認めてきた。学界においても、通説はこの結論を支持しており、異論はほとんど見られない。それゆえ、現在でも、「公然わいせつ罪」の規定を用いた摘発が続いており、劇場関係者は相変わらずその危険と隣り合わせにある。

 

 さっそく、公然わいせつ罪の成立を認めてきた判例・通説のロジックを確認することにしよう。

 公然わいせつ罪の成立要件は大きく分けて、①「公然」性と②「わいせつな行為」に整理することができる。そこで、ストリップ・ショーがこの2つの要件を充足するかどうかが問題となる。

 

 2.「公然」性について

 

 まず、ストリップ・ショーは「公然」性を満たしているといえるだろうか。

 読者の中には、次のように考えた人もいるのではないだろうか。すなわち、「公然」といえるためには、不特定多数の人の存在が必要であるところ、劇場内は、道路や公園などと異なり、鑑賞のために集まった客やファンしかいないはずであり、「不特定」多数の人がいるわけではないのだから、「公然」性は認められないのではないか、と。

 

 最高裁の判例によれば、「公然」とは、「不特定又は多数の人が認識できる状態をいう」とされている。不特定「かつ」多数ではなく、不特定「又は」多数とされている点が、ここでのポイントである。すなわち、「多数」であるとさえ認められれば、「不特定」であることは不要と解されているのである。少なくとも大規模劇場については「多数」の観客の存在が予定されているため、「特定」性の検討を待つまでもなく、当然に「公然」性が認められることになる。

 それでは、少数の観客しか予定されていない小規模の劇場はどうであろうか。例えば、静岡県熱海市にある「熱海銀座劇場」などは、もともとスペースが狭いことからそれほど多くの観客の収容を予定していない。さらに、最近では観光客の減少の影響もあり、各公演における観客者数は多くてもせいぜい10名程度である。このような劇場が「特定かつ少数」の観客による鑑賞しか予定していないといえれば、上述した判例の立場を踏まえても、「公然」性を否定することができそうである。しかし、このような見込みは次の2つの理由から頓挫してしまう可能性が高い。

 第1に、そもそも裁判所が「10名程度」を「少数」と判断する保障はどこにもない。何名をもって「多数」に該当するかは、法律の条文に明確に書かれているわけではなく、裁判官の解釈に委ねられている。したがって、「10名程度」が「多数」に該当すると判断されれば、大規模劇場について述べたのと同じ理由で、「公然」性が肯定されることになる。

 第2に、裁判所がストリップの観客について「特定」性を認めるかどうかも、実はかなり疑わしい。確かに、ショーを楽しむために集った客という意味では「特定」しているという、前述のような考え方も成り立ちうる。しかし、これに対しては、結果的に特定・少数の観を呈する場合であっても、「不特定・多数の者を勧誘した結果、勧誘によつて集まつた者の前で」ショーを披露する場合には、「もともと不特定または多数の者が認識しうる可能性はあつたわけであるから、やはり公然性の要件をみたす」という反論が提起されている。現に、最高裁も、不特定多数の人から勧誘などを通じて観客となった者が特定少数であった場合には「公然」にあたるとしているのである。

 看板によるアピールや、SNSでの広報や宣伝活動を含めれば、「勧誘」をおよそ行っていない劇場など存在しないであろうから、このロジックに従えば、事実上全ての劇場について、「不特定」性、ひいては「公然」性が認められることになる。

 

 結局のところ、「公然」を「不特定又は多数の人が認識できる状態」とする定義と、勧誘により「不特定」性を認めるという解釈との組み合わせにより、多数の観客の来場を予定している「大規模劇場」はもちろんのこと、少数の観客しか予定していないような「小規模劇場」についても、広く「公然」性が認められる

 

3.「わいせつな行為」について

 

さらに、判例・通説は、ストリップ・ショーにおける踊り子の演技が「わいせつな行為」に当たることも認めてきた。

 

 まず、わいせつ行為の定義から確認したい。本条における「わいせつ」の概念について最高裁の判断は未だ示されていないが、わいせつ物頒布等罪(刑法175条)におけるわいせつな文書、図画の概念については「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとする判例がある。

 学説の多くは、この定義がほぼそのまま公然わいせつ罪にいう「わいせつ」概念に当てはまると理解している。すなわち、本罪のわいせつ行為とは、①行為者又はその他の者の性欲を刺激・興奮・満足させる動作であって、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいうと考えられているのである。

 これは、いわゆる「わいせつ3要素説」を呼ばれる定義であるが、読者の中には「なんて曖昧で不明確な定義なのだ」と驚かれた方もいるかもしれない。この定義の良し悪しについては、議論の余地が大いにあるが、今回はその問題をひとまず置いておくことにしよう。

 

 それでは、この定義を前提とした場合、ストリップ・ショーに「わいせつ」性が認められるのだろうか。

 確かに、かつてのストリップ劇場では、出演者のカップルが本番行為を行う「白黒ショー」や、客と踊り子が舞台上で性交を行う「生板ショー」が出し物とされており、少なくともこうしたショーの性的性質は極めて強度であったと言える。しかし、現在のストリップ劇場で行われているのは、そのほとんどが、ダンスパフォーマンス等を中心とするエンターテインメント性の高いショーである。こうしたショーのどこに「わいせつ」性を認めるというのであろうか。

 

 判例・通説は、どうやら「性器の露出」の有無を重視しているようである。代表的な注釈書にも、「わいせつ行為の基準となるのは、公の場所での陰部の露出である」、「性器を露出する行為は、原則としてわいせつな行為に該当する」、「わいせつ行為の典型例は性行為または性器の露出行為である」等と明記されている。公衆浴場における入浴のように、合理的な目的や必要性があると認められない場合には、「性器の露出」により自動的に上記の3要素が認められると理解されているのであろう。こうして、性器の露出を伴うショーは、「わいせつ行為」に当たるという結論が導かれることになる。

 

 これに対して、読者の中には、ストリップ・ショーを観て、性的羞恥心を害されたことはない、と反論される方も多いのではないだろうか。しかし、少なくとも通説によれば、このこと自体は「わいせつ」性の認定の妨げにはならないとされる。なぜなら、「当該行為が正常な性的羞恥心を害するものか否か、あるいは善良な性的道義観念に反するものか否かは、その時代における平均的な通常人あるいは一般人を基準として判断されるべき事柄であ」り、「行為者自身やこれを見た者が現実に性的羞恥心を害されたか否かによって判断されるべき事柄ではない」と考えられているからである。

 

 ある注釈書では、次のように明確に述べられている。

「いわゆるストリップショーの観客は、性的な満足・快楽を得ようとしてそのようなショーの観覧者となっているのであるから、観客がそのようなショーを見て羞恥の情あるいは嫌悪の情を抱くことはほとんど希であると考えられるが、そのこと自体は、当該行為が『わいせつな行為』に該当するか否かとは関係がない」

 この引用部分については、そもそもストリップショーの観客が、性的な満足・快楽のためにショーを鑑賞しているとする前提に重大な疑問があるが、そのことは置いておくことにしよう。いずれにせよ、通説によれば、「わいせつ」性の判断にとり、ストリップ客の感情は重要ではなく、あくまでも「平均的な通常人あるいは一般人」が基準とされることになる。

 

 この「平均的な通常人あるいは一般人」がどのような者であるのかは必ずしも明らかではない。しかし、少なくとも、ストリップショーを単なる「性的な満足・快楽」のためのショーであると信じて疑わないような、無知と偏見に満ちた「一般人」を基準とすれば、上記の3要素は満たされうるであろう。

 

4.公然わいせつ罪に問う「おかしさ」

 

  以上の判例・通説に対して、花月さんは次のように結論づけています。

「ストリップ・ショーに関して、①「公然」性が認められるか疑わしく、仮にこれが認められるとしても、②「わいせつ」性は否定されるべきであると考えています。」

「私は、現在のストリップ・ショーに公然わいせつ罪の成立を認めることはできないと考えています。したがって、捜査当局が今後もこの法律を根拠に、劇場の摘発を続け、劇場関係者やストリップ・ファンの活動に萎縮(いしゅく)をもたらすことがあるとすれば、それは国民の自由に対する不当な干渉であると考えます。」

 さあ、さっそく、花月さんのロジックを見てみましょう。

 

(1)「公然」性について

 さきに見てきたように、裁判所は、この「公然」性の意味を、「不特定又は多数」の人が認識できる状態と理解しています。それゆえ、多数の観客を予定している大規模劇場(浅草ロック座など)は当然のことながら、少数の観客しか予定していない小規模劇場についても、「不特定」の人物が観客として来訪する可能性がある限り、「公然」性は満たされることになります。

 しかし、このような理解に対しては疑問もあり得ます。というのも、そもそも「公然」な場所(例えば、公園など)でわいせつ行為をすることが許されないのは、それにより、わいせつ行為を「見たくない人」が目撃をして不快な思いをする可能性があるからであり、反対に、その場にいる全員が見ることに同意をしているのであれば、いかに不特定・多数の人がその場にいるとしても、「公然」性を認める必要はない、と考える余地があるからです。

 刑法学の専門家の中でも、このような見解は有力に支持されています。例えば、学習院大学教授の林幹人氏は、「何を見るかについて、本人の了解・同意がある者が集合している場合には、公然とするべきではない」とし、観客が見ることに同意をしているストリップ・ショーについては、公然わいせつ罪が成立する余地はない、と明確に述べています(同『刑法各論〔第2版〕』(2007年)403頁)。

 このように、ストリップ劇場について「公然」性を否定する考え方には、かなりの説得力があるように思います。ただし、現在の裁判所がこの考え方を採用する可能性は低いと言わざるを得ません。なぜなら、裁判所は、公然わいせつ罪を、社会の「性道徳」を脅かす罪であると理解しており、たとえ見る者全員が同意をしているとしても、不特定・多数の面前でわいせつな行為が行われること自体を(「性道徳」を脅かすものとして)取り締まる必要があると考えているからです。

 

(2)「わいせつ」性について

 もっとも、仮に「公然」性が認められるとしても、ストリップ・ショーについては「わいせつ」性が否定されるため、いずれにせよ公然わいせつ罪の成立を認めることはできないと考えます。

 

 そもそも「わいせつ」とは一体何でしょうか。裁判所は、公然わいせつ罪にいう「わいせつ」を、「①行為者又はその他の者の性欲を刺激・興奮・満足させる動作であって、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するもの」と定義しています。なんとも曖昧で分かりにくい定義ですが、ここで注意する必要があるのは、単にエッチであるとかお下品であるという理由だけで、「わいせつ」性が肯定されてはならない、ということです。

 

 というのも、「わいせつ」とされ犯罪の成立が認められれば、国家は国民に対して、強制的に罰金を支払わせたり、場合によっては、刑務所に閉じ込めることができるようになるわけですから、逆に言えば、こうした「刑罰」という過酷な手段を通じて禁圧しておかなければ、この国の「性道徳」が脅かされ、社会秩序が崩壊してしまうような性質を備えるものが、初めて「わいせつ」として評価されることになります。上述の定義が意味するところも、このような観点から理解する必要があるでしょう。

 

 この点を正しく踏まえるならば、ストリップ・ショーに「わいせつ」性を認めることが、いかに馬鹿げているかが分かります。かつて行われていたような、舞台上で客と踊り子が性交を行う「生板ショー」などはともかく、現在の、ダンスパフォーマンスを中心とするエンターテインメント性の高いストリップ・ショーに、以上のような反社会的な性質を認めることは到底困難であると言わざるを得ません。このことは、ストリップ・ショーが女性客も含めた普通の人々の間で広く受け入れられているという事実や、近年ではメディア等で公然と取り上げられているという事実からも裏付けることができるでしょう

 

 こうした主張に対しては、「ストリップが『わいせつ』であることは動かしがたい判例である」と反論されることもありますが、これは誤解であるように思います。確かに、日本の最高裁判所は過去に、ストリップ・ショーが「わいせつ」な行為に当たることを認めています。しかし、それはもう何十年も前の話です。当時は、性的な描写が一部含まれていた文学作品さえも「わいせつ」であり、その出版が犯罪になるという、現在では一笑に付されるような判断が平気でなされていた時代ですから、生の裸に「わいせつ」性が認められたことも、そう不自然なことではありません。これに対して、インターネット上で当たり前のように過激なエロ画像・動画が氾濫する現代において、同じ判断がなされるとは限らないのです。また、現在の裁判所が「わいせつ」性の判断に際して、「芸術性」や「普通の人の感覚」を考慮する傾向にあることに鑑みれば、ストリップの「わいせつ」性が否定される可能性も十分に認めうるでしょう。

 

 さらに、「性器の露出がある以上、わいせつという判断は揺るがない」との指摘がなされることもありますが、そんなことは法律のどこにも書かれていません。確かに、「性器の露出」の有無が摘発に際して重視されてきたことは事実ですが、それは取り締まる側がそのように運用してきたというだけの話であり、何か確固たる法的根拠が存在するわけではありません。最近でも、ろくでなし子さんの事件で、女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した作品の「わいせつ」性を否定する判断を裁判所が示したことは注目に値するでしょう。「性器=わいせつ」という空虚な公式は、すでに綻びを見せ始めているように思います。

 

以上が、ネットで拝見した花月さんの記事「ストリップと法」です。一読して、非常に納得させられました。法学部卒として久しぶりに血が燃え上がりました。花月さんの論文は二つに分かれていて、かなり長いため割愛したところも多く、私なりにまとめさせて頂きました。

次の章以降では、本章を踏まえ、熱烈なストリップ・ファンとして長年ストリップを鑑賞してきた者として、これまで考えてきたことを話させてもらいます。

 

                                    つづく

【参照文献】

 上記の内容は、ネット掲載記事「ストリップと法」(ニックネーム花月 (id:stg318))を参照・引用させて頂き、まとめたものです。非常に分かりやすく納得できました。

・2018-06-09 「公然わいせつ罪」成立のロジックを追う

・2018-10-06 ストリップ・ショーと公然わいせつ罪の成否

その他参照したものとして

・弁護士ドットコム「犯罪・刑事事件」の中の「ストリップと公然わいせつに関して」

・「ストリップと法律・警察・司法」dancingdog 2015年10月26日