トッパンホールができて十周年の記念のパーティーに行った。多くの来賓がいて、非常に活気のあるものだった。トッパンホールには、聴衆として数え切れないくらい行った。
 また私は演奏者としても、舞台に十数回上がっている。モーツァルト・シンフォニー・オーケストラの演奏会は、ここでいつも行なわれるのだ。
 私の仕事は弦楽器主体のものだが、趣味はトランペットである。ここでモーツァルトのシンフォニーを発見されたものを含めて、全曲演奏した。もちろん、トランペットのないシンフォニーもあるから、全曲乗っていたわけではない。
 モーツァルトというと、誰もが天才と賞賛し、また作曲数の多さで驚嘆される。でも、モーツァルトの交響曲をほぼ全曲体験した感想からすると、モーツァルトのシンフォニーは、やはり30番代以降だな、と思う。かつて、どの曲がハフナーでプラハでリンツなのか、分からなかった。どのタイトルでもいいと思った。やはり、39番と40番とジュピターは言われなくても分かる。ところで今、ジュピターと言うと、ホルストの惑星の中の木星を指すことが多いようだ。しかし、違和感がある。ジュピターと言ったら、モーツァルトの41番でなくてはいけない。
 まったく、関係ない話で恐縮だが、たくさんのコンサートのチラシを見ることが、仕事上多いが、プログラムのところで、例えば、○○作曲、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ・ニ長調とあった場合、このニ長調のニは、大抵、十中八九、いや99パーセント、漢数字の二になっている。ニ長調、ニ短調は、ほぼ二長調、二短調になっているのである。これは何故だろう。これが気になって仕方がない。私はニ長調ニ短調と単語登録してあるから、絶対に、ニが漢数字の二になることはあり得ない。
 大学時代に入っていたクラブのOB会の掲示板を見て、先輩方の変わり果てた姿に驚いた。私と、二、三歳くらいしか違わないのに、ほとんど親父状態。とかみさんに言ったら、あんたも変わらないよ、と言われてしまった。しかし、私の場合、髪を染めて、ダイエットし、多少皺をとったら、大学生とさほど変わらないのではないか、と思っている。とかみさんに言ったら、無視された。
 それにしても、大学時代のあのぎらぎらした青春の目は皆どこへやってしまったのだろうか。我々が入学したとき、圧倒的に大人の雰囲気であったあの格好良かった先輩方は、この三十年あまり、どんな人生を送られたのだろうか。
 では、自分はどうなのか、いつも書いているように、自分は三十代半ばあたりから、全然変わっていないような気がする。その頃から、今日まで、いろいろなことがあり過ぎて、あっという間で、歳をとる暇もないくらい忙しかった、という思いだ。
 もちろん、白髪は圧倒的に増えた。しかし、禿げるのはなんとか、食い止めた。実は、大学時代、きつい楽器を吹いているせいか、抜け毛が激しく、しかも親父が見事に禿げ上がっていたから、これは時間の問題かと思った。しかし、その後、奇跡的に素晴らしいシャンプーに巡り会い、すっかり食い止めた。今でも、多少は薄くなったが、なんとか形はとどめている。むしろ、大学時代、髪がふさふさしていた友人の方が、禿げていて、人生とは分からないものだ、とつくづく思ったものである。
 大学時代、青春時代が、美しいものであったかというと、もちろんそんなことばかりではなかったし、どちらかというと、苦しい毎日だった。醜い部分もあったと思う。しかし、一つの目標に向かったあのときの血湧き肉躍るような毎日は、今でも心のどこかで、生きていて、支えになっていると思う。
 
 崎谷直人さん、沼沢淑音さん、新倉瞳さんのトリオのコンサートが8/24めぐろパーシモンホールで行なわれた。素晴らしいコンサートだった。崎谷さんはスイスに留学中、沼沢さんはモスクワに留学中、新倉さんは9月からスイスに留学、ということで、この一夜はとても貴重なものだった。
 崎谷さんは、玉木宏樹先生と、音程の考え方がまったく一緒で、というよりヴァイオリンに関することは、瞬時にして意気投合していたが、本当に美しい音色をもち、しかも、感性という言葉に逃げない、真摯なヴァイオリニストだ。ハイドンでは、ヴィブラートのかけかたを意識的にコントロールしていたが、純正律の美しい世界を具現化していた。チェロの新倉瞳さんは、すでにストリングの表紙にした方で、幅広い演奏活動をすでに展開している。崎谷さんとの出会いで、さらに音楽の世界が広がったように思う。ピアノの沼沢さんは、CDを聴いたときから、凄いピアニストだなと思ったが、当夜のコンサートでも、凄みを感じさせた。二曲目のフランクのソナタ、メインのメンデルスゾーンのトリオの一番では、ここぞというときの、グルーヴ感が抜群で、聴く者をごきげんにさせてくれる。
 この三人のコンサートが、日本で常時聴けないのは、残念と思うと同時に、日本の聴衆にとって大きな損失になるのではないか、と思わされた。