音楽プロデューサー協会の勉強会で、ツイッターの講習がありました。
音楽業界に関わる方々が、ツイッターを中心に、ネットでどのようなことが展開できるのかを語り合う場、そしてツイッターの使い方の説明の場でした。
ツイッターそのものにまだ本当になれていないのと、その意義というものがまだはっきりと見えてこないということもあって、この勉強会はとても楽しみでした。
いろいろ、お話をうかがって、だいぶ、慣れてきたような気がします。あまり関係ないですが今日だけでフォロワーが急に増えました。
この勉強会もいってみれば、部下の編集者のツイッターが取り持つ縁であります。
行ってみて、ああ、あなたが~さんでしたか!みたいなことが二、三人ありました。また、知り合いが多いのにも驚きました。こういう勉強会はまた参加したいものです。
講師の方々は、若い方が多く、やはり、こういうものは若い方の方が長けているのだなと思いました。聴講されている方に年配の方が多くいました。そもそもこれが何の役に立つのか、費用対効果はどうなのか、といった疑問もありました。しかし、なんとなく、ツイッターには何らかの可能性を感じます。
20年近く前に、マックにビビッと感じたものと同じようなものを感じます。
DTPの衝撃に匹敵するようなものを感じます。
ところで、DTPまでは、出版社もオッケーでしたが、電子出版とものなると、戦々恐々としているところも多いと思います。紙と電子の棲み分けは進むのでしょう。しかし、コンテンツが良くなければいけない、ということは未来永劫変わらないと思います。我々は、いいコンテンツ作りをすることをまずは考えなくてはいけないでしょう。あとは、それをどの媒体で主張していくのか、という問題だと思います。
そして、ツイッターは、それらのコンテンツへの入り口と考えると分かりやすいように思います。
iPhoneにはiPodがあるので、そこに自分のお気に入りのCDを同期させて、いつも聴いている。かなりたくさんの楽曲を入れた。パソコンと同期させると、パソコンの方には、再生回数が表示される。つまり、iPodでどの曲を何回聴いたかが分かるのである。おそらく聴く曲に偏りがあるのではないか、と思っていたが、観てみると、意外とまんべんなく聴いている。ただ、もちろん、聴く回数の差はある。一度も、聴いていないのは、シンフォニーや、組曲などの大曲が多い。やはり、長い曲を聴く気にあまりならないのかもしれない。
聴く回数が多い曲を見て驚いた。今年から聴いているのだが、十回以上聴いているのは、ペレス・プラド、フォーレのレクイエム、ラヴェルの左手のためのピアノ・コンチェルト、プーランクの牝鹿、カウント・ベーシーのベーシーストレートアヘッドのアルバム、クリフォード・ブラウンのWith Strings、玉木宏樹のタイムパラドックス、後藤勇一郎の私季、永峰高志の夕べの歌のアルバム、エルガーの威風堂々第4番、イヴリー・ギトリスのエキストラヴァガンツァのアルバム、ヴァディム・チジク&船越清佳のアルバム、金子隆博の銭ゲバオリジナルサウンドトラック、モーツァルトのシンフォニー36番38番……という、まるで支離滅裂な聴き方である。
特に、ペレス・プラドとフォーレのレクイエムというのは、理解しがたいかもしれないが、どっちも大好きである。ペレス・プラドの外連味のない演奏が大好きだ。冷静に聴くと、いや冷静でなくても、ペレス・プラドの演奏には、音の外しや、音程の多少の狂いはあるが、そんなものどうでもいいと思うくらい、スカッとする演奏である。ここ数年、音律とか固定ド移動ドとか、モードといったテーマでいろいろストリング誌上でやっているが、そういったものが全否定されるような演奏ではあるが、矛盾するようであるが、これがいいのである。彼らにはおそらく、そんな音楽を難しく考えるのはよそうよ、という気持ちが根底にあるように思える。音律? それがどうした。いてまえ。と言っているような気がする。
お茶大の教授をなさっていた哲学者でジャズ・ピアニストの土屋賢二先生が、26日、新しくなった銀座のヤマハで、ライヴをされます。共演には、当代随一のトランペッター、エリック宮城さんという、もの凄い豪華な顔ぶれです。

土屋賢二先生の哲学は、独特のものがありますし、私は、彼のエッセイが大好きです。彼のエッセイそのものが、哲学的な示唆に満ちています。一読すると大笑いですが、何度も読むうちに、じわじわと味が出てきます。彼のエッセイにはまったあまり、彼に連載インタヴューをお願いしたことがあり、約二年ほどストリングで掲載していました。いわば、土屋先生を知る上での第一次資料としての価値は第一級であると、確信しております。このほど、それをまとめることになりました。といっても、いつ完成するかは全く未定です。とても忙しい土屋先生ですから、他の出版社からもどんどんお話が来ているようです。先日出された文庫本など、十年がかりで推敲されたとか。いくら何でも、十年というのは、気の長い話ですが、出版社にいる者ととして、十年はあっという間に過ぎ去ってしまうことがよく分かります。

土屋先生には中年女性のファンが数多く、いろいろなファンレターが来るそうですが、中には「あなたは、神様です。キリスト様です」と書いてこられる方もいるそうです。確かに、そういう一面があると思います。土屋先生は、全ての中年男を代表して、その罪をかぶってくださっているところがあります。なおかつ、笑いをとって、エネルギーを与えてくれるところなど、私にとっては神を超えた存在であります。

ただ、彼のエッセイを読むと反応は二つに分かれるようです。私のように、これは面白い、と思う人と、何だ?これは? と思う人とに分かれるようです。
土屋先生は、彼独特のレトリックを駆使し、なおかつ、ユーモアというものを大変に重要視します。どんな悲惨なことでも見方を変えれば、笑いになる。ここを押さえておくと、彼のエッセイは読み手にとってさらに意味をもってくると思います。

私は、ユーモアという概念自体、どうでもいい話だと思っていました。ところが、人間が生きていく上で、これが最も大切だということがだんだんと分かってきました。土屋先生の本の読者には鬱病の方も数多くいるそうです。精神科の医者の中には、治療法として土屋先生の本を処方される人もいるそうです。
第二次世界大戦中、イギリスは、ドイツに海上封鎖されたとき、新聞は「ヨーロッパ大陸、孤立す」と書いたそうです。国の一大事も、そのように書いてしまうところが凄いと思います。イギリスでは、ユーモアのある男が圧倒的にもてるそうです。彼らはユーモアが生きるためのエネルギーであり、潤滑油であることを本能的に知っているのでしょう。その点、日本は、一般的に笑いを軽視している傾向があると思いますが、この不況の折、笑いで乗り切りたいものです。と書くと、固いな。

土屋先生の哲学は、アリストテレスとウィトゲンシュタインの影響を受けているそうです。
特に言語ゲームという概念を打ち出したウィトゲンシュタインはかなり大きな存在のようです。

土屋先生の哲学は、既存の哲学を徹底的に否定するようなところもあって、それも度肝を抜かれたのですが、とても面白い哲学です。例えば、「人間いかに生きるべきか」という命題があったとします。これは誰もが考えることかもしれません。土屋先生は、この命題を、全く意味の無いものである、と断定します。これは言葉の遊びでしかない、と断じています。これを詳しく説明するのは私には、困難ですが、話を聞いたとき、最初、耳を疑ったのですが、だんだんと彼の言わんとすることがじわじわと分かってきたような気がします。

それから、彼の真骨頂は、「洞察」にあると思います。全て世の中のことで、興味が湧いたことを徹底的に洞察する。これは矛盾するようですが、「人間いかに生きるべきか」の答えになっているように私は勝手に思っています。彼のエッセイは文春文庫にたくさんあります。

ツイッターも面白いですが、やっぱりたくさん書けるブログはいいですね。