演奏に、良い悪いはない、ということを前提に私の好みを書いてみたい。あくまでも私の主観である。
昨今、どの時代の音楽もノン・ヴィブラートで演奏することが一部流行っているように思うが、ノン・ヴィブラートが相応しいところはノン・ヴィブラートは当然だが、何でもかんでもノン・ヴィブラートにするのは、私には不自然に感じる。ノン・ヴィブラートで演奏するということは、三和音の場合、自然と純正律の響きになるわけで(ならないと濁る)、それはそれで美しい。だが、純正の響きというのは、一つの頂点、理想郷には違いないのだが、理想郷故に、そこからどこかへ行こうとする雰囲気はない。それは、そうであろうと思う。心地よいところからは、動こうとは思わない。だから、終止などのようなところはいいが、全編それで行かれると、管楽器はまだしも、弦楽器だと、常にブレーキが踏まれた状態でアクセルを踏んでいるみたいで、私には苦しい。繰り返すが、これはあくまでも私の主観である。
曲を動かすもの、どこかへ向かわせるものとして、ヴィブラートには、推進力が有ると思う。曲を推進させるものとしてはビート、グルーヴがあるが、ヴィブラートもその力があると思う。例えば、オーボエの名手のヴィブラートは、ローリングしていくような感じがするのだが、心をぐっとつかむだけでなく、曲を推進させる力がある、と私は思う。また、極端に言えば、濁った音、不安定な音もそういった力があると思う。不安定な所から安定したところへ向かわせるわけだから、それは一つの力になりうるだろうと思う。
先日、来日公演で素晴らしい演奏を聴かせてくれたエンリコ・オノフリ氏の二年前のインタヴューを改めて読み返して、バロック音楽に対する認識が変わった。自分で取材したのに、なんでこんな大切なことを忘れてしまったのだろうか。いや、忘れてしまったのではなく、本当に理解していなかったのかもしれない。
以下、オノフリ氏が語ったことの受け売りです。
初期バロックのモンテヴェルディらは、ギリシャ神話を引用して、いろいろな精神状態のときにどんな音楽が良いのかを考えていたのですね。つまり音楽セラピーそのものです。音楽が薬にもなり毒にもなると考えていたのですね。
それで、重要なのは、言葉のコントラスト。つまり、非常に強い感情を持った言葉と、反対に非常に優しい感情を持った言葉が同時に出てきたときに、人間の精神は癒される、という考え方をもっていたのですね。モンテヴェルディは、音楽の中では、アフェット(情感)が強くなくてはいけない、と考えるのですね。暴力的なアフェットであろうと、穏やかなアフェットであろうと、それぞれ強くないといけない、と言っているのですね。この対照的なアフェットを対比させることで、心の内面の不幸を直すような情動を生み出すわけですね。ですから、少なくとも初期バロック音楽は、当然強い表現をしたわけですね。
イタリア人の激しい感情的な言葉や音楽表現は、国民性かと、私は思っていましたが、これは、意図的なものでしょうか? と聞いたら、オノフリ氏は肯定して、さらに哲学的なもの、と言っていました。哲学的なものが伝統となり、国民性のようなものになったのではないか、と聞いたら、そのとおりです、とそれも肯定していました。
いびつな真珠がようやく理解できました。
考えてみれば、バロック音楽に限らず、音楽、芸術は、ある種、狂気の世界、そしてその反対に理想郷を表現してくれるから、それを鑑賞する我々は精神的な均衡を保つことができるのかもしれない。
第二次世界大戦のとき、なぜ、戦争に反対しなかったかと、子供の頃、親に聞いたことがある。
反対するも何も、そんな雰囲気はないし、だれも日本が負けるとは思わなかった、と親は言った。
でも、空襲が始まったら、変だと思わなかった? と聞くと、確かにだんだんあやしくなってきたな、と思った、と言う。でも、そうなってからではもう遅い。結局、原爆を落とされ、どうにもならなくなって、天皇陛下の御聖断によってでしか、戦争を終えることができなかったわけで、時の政治家や軍の首脳部ではもう手に負えなくなっていたわけだ。それは歴史が語っている。誰かが何とかしてくれるのではないか、何とかなるのではないか、と思っていたのだろうか。戦争が始まってすぐ、今からでも遅くない、すぐにやめろ、と言った人たちはいる。でも、そういう声も、歴史が流れの前にはかき消されてしまうのだろう。
そういう歴史の教訓を忘れてはならない、といつも思う。