演奏に、良い悪いはない、ということを前提に私の好みを書いてみたい。あくまでも私の主観である。
昨今、どの時代の音楽もノン・ヴィブラートで演奏することが一部流行っているように思うが、ノン・ヴィブラートが相応しいところはノン・ヴィブラートは当然だが、何でもかんでもノン・ヴィブラートにするのは、私には不自然に感じる。ノン・ヴィブラートで演奏するということは、三和音の場合、自然と純正律の響きになるわけで(ならないと濁る)、それはそれで美しい。だが、純正の響きというのは、一つの頂点、理想郷には違いないのだが、理想郷故に、そこからどこかへ行こうとする雰囲気はない。それは、そうであろうと思う。心地よいところからは、動こうとは思わない。だから、終止などのようなところはいいが、全編それで行かれると、管楽器はまだしも、弦楽器だと、常にブレーキが踏まれた状態でアクセルを踏んでいるみたいで、私には苦しい。繰り返すが、これはあくまでも私の主観である。
曲を動かすもの、どこかへ向かわせるものとして、ヴィブラートには、推進力が有ると思う。曲を推進させるものとしてはビート、グルーヴがあるが、ヴィブラートもその力があると思う。例えば、オーボエの名手のヴィブラートは、ローリングしていくような感じがするのだが、心をぐっとつかむだけでなく、曲を推進させる力がある、と私は思う。また、極端に言えば、濁った音、不安定な音もそういった力があると思う。不安定な所から安定したところへ向かわせるわけだから、それは一つの力になりうるだろうと思う。
昨今、どの時代の音楽もノン・ヴィブラートで演奏することが一部流行っているように思うが、ノン・ヴィブラートが相応しいところはノン・ヴィブラートは当然だが、何でもかんでもノン・ヴィブラートにするのは、私には不自然に感じる。ノン・ヴィブラートで演奏するということは、三和音の場合、自然と純正律の響きになるわけで(ならないと濁る)、それはそれで美しい。だが、純正の響きというのは、一つの頂点、理想郷には違いないのだが、理想郷故に、そこからどこかへ行こうとする雰囲気はない。それは、そうであろうと思う。心地よいところからは、動こうとは思わない。だから、終止などのようなところはいいが、全編それで行かれると、管楽器はまだしも、弦楽器だと、常にブレーキが踏まれた状態でアクセルを踏んでいるみたいで、私には苦しい。繰り返すが、これはあくまでも私の主観である。
曲を動かすもの、どこかへ向かわせるものとして、ヴィブラートには、推進力が有ると思う。曲を推進させるものとしてはビート、グルーヴがあるが、ヴィブラートもその力があると思う。例えば、オーボエの名手のヴィブラートは、ローリングしていくような感じがするのだが、心をぐっとつかむだけでなく、曲を推進させる力がある、と私は思う。また、極端に言えば、濁った音、不安定な音もそういった力があると思う。不安定な所から安定したところへ向かわせるわけだから、それは一つの力になりうるだろうと思う。