陰徳を積む

去年の年末に卯年のうちにお参りしたいと思っていた
出雲大社に行ってきました😊

私は、今までの常識は、誰かが作り上げたもの。
だったら、新たな常識も誰かが作るかもしれない。
と思ってます。

私は相当自分勝手な人生を送ってきたと思いますが
実は、実家は神道の家系で私は4代目にあたります。

家には当たり前に御神前があり
毎日朝晩、当たり前に神棚にお参りしてました。

陰徳を積む。

これは、祖父母や両親から受け継がれていた教えです。

「誰が見てなくても、神様は見てる」

そう、誰にも見られなくても良い行いをすれば
天に帰った時には御殿が立っている。

そんなことも、幼い頃はそれが当たり前に
過ごしてきましたが、家を出てからは社会にもまれ
そんなことさえも、いつしか忘れてしまってました。
私は離婚を機に、神道から離れています。

でも、幼い頃の教育は血となり肉となっていることに
気がつきました。

幼い頃は、いじめに会い、学校に行くと机や教科書に
死ねとか気色悪いとか書かれてました。

でも何故か、第三者的に自分を見てる自分がいて
それを他人事のように見てる自分がいました。

辛くて悲しいという感情は湧かなかったです。

ある時、いつも仲良くしてくれていた友人さえも
私をいじめました。

あとで、

ごめんね。あの時、私もいじめられたくなかったから
たかちゃんに冷たくしてしまったと言われました。

ふ〜ん。そうだったんだとしか感じませんでした。
そこから、人の心に興味を持ち始めました。

登校拒否をすることもなく
私は毎日学校へ行ってましたね。

それでもあんまり、いじめに会っているという
実感が自分でなかったように思います。
それよりも、父のDVの方が酷かったので
感覚が麻痺していたのかもしれないですね。

それと、どこかいつも守られている
感覚があったのかもしれません。

母は、いつも笑ってました。
父のDVや、様々な苦労を私たちの前では
見せませんでした。

最後まで、他人のために尽くして人生を
生きた人です。

だから、私は反面教師で自分の人生を生きることを
やっているのかもしれません。

母は、言ってました。

誰が見てなくても神様は見てるとよ。

って。

だから今でも

誰も見てないからと言って
道端にゴミを捨てることはできません笑
人を騙すこともできません。
陰でこそこそやることもできません。

これは、母の教えのせいかもしれません。

私はいつも、裏方でした。
誰もやりたくない仕事を率先して
やってきたと思います。
日の目を見ることもなく、裏で支える裏方。

自分が自分が。
という考えの時もありました。
そういう時は、あまり上手くいきませんでした。

私は我が強いので、誰かのために生きるつもりはありませんが
根本に流れているのは
母の教えかもしれません。

社会に出て、損得で自分の権利を主張する人も見てきました。
そこには感謝という言葉は存在しませんでしたね。
育ててくれた母は、いつもいつも「ありがとう」という言葉を
発してましたから、違和感を感じてました。

母の人生は壮絶でしたが
私たち兄妹は、明るい母しか思い出せません。

取り止めのない話になりましたが

だから私はどうしても
目立つ人より
目立たなくても一生懸命頑張っている人に
目が行きます。

目立たなくても
それを陰で支えてくれている人を
大切に思います。

それは多分
人の嫌がる仕事を
陰で実際にやってきたからかもしれません。

人は時にそれを忘れてしまいがち。
でもちゃんと見てる人はいる。

だから、
自分は損。
という考えで、腐る人は
逆に損だなと思います。

ちゃんと、見てる人はいる。
神様も、ちゃんと見てる。
 
多分ね。
あなたが見ている世界は
目に見えない人たちが
支えてくれてるんですよ。

それを忘れてはいけないなと
常々思うんです。

裏方の人ほど宝です。

演劇でも、脚本家、演出家、俳優だけでは舞台は成り立ちません。
照明、セット、衣装、メイクetc・・・

それぞれに大切な役割があり、大きな舞台が可能になるんです。

人には必ず役割があります。
その役割に徹することが
大きな舞台を作り上げることができるんですよね。

自分を陰だと思わなくていい。
損だと思わなくていい。
あなたがいるから
様々な人生の舞台が成り立っていることを
ちゃんとわかってる人はいます。

与えられた場所で
花を咲かせる。
それは、自分に与えられた役割。

どこでどの場所で咲きたいかは自分次第。

どんな職種であっても
求められる自分でありたいですね。

#役割
#人生