長崎の悲劇から六十八年 | りゅうせんけいの「重箱の隅」

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知らないことは罪である!

 本日は、長崎に原子爆弾が投下されて六十八年となります。

 あまりテレビを見なくなったからかもしれませんし、
女子高生が失踪するなど、事件等が発生しているからかもしれませんが、

広島にせよ長崎にせよ、
今年は、例年に比して、マスメディアでの「原爆投下の日」の扱いが小さく感じるのは、
僕の視野が狭いからなのでしょうか?

 先日の記事にて「なんかキナ臭い」というような旨を書きましたが、

憲法改正論者にせよ、軍備拡張論者にせよ、

いくらなんでも

あのような惨劇が再来することをを望むほど狂気ではない


ということぐらいは、いくら僕でもわかることです。

僕は、少なくとも現段階においては、

どちらかといえば「護憲派」に近いでもちょっと「右寄り」

ですが、
いわゆる「改憲派」の方々の考えも、きちんと傾聴すべき

と考え、
色々と調べながら、自分なりに勉強しているつもりです。

 重要なのは、
何らかの意見の対立があった際、

それぞれの主張を聴き、調べ、自分なりの考えを持つこと

であり、
またその結果として、自分の考えはどうであるか、ということであり、

必ずしも

「自分と考えを異にする=敵」ではない

という自覚を持つことだと、ことあるごとに自らを戒めております。


 ただ、昨今の世界情勢、殊に日本の近隣諸国の言動には、
いろいろな意味で驚かされることもあります。

 正直言って「カチンとくる」こともあります

「天空の城ラピュタ」(宮崎先生、いつも素晴らしい作品をありがとうございます)の一場面ではありませんが、

「貴様、正気か?」

と言いたくなる時もあります。


 ただここは、終戦の詔勅(いわゆる「玉音放送」)の一節ではありませんが、

一時の感情に流され、中長期的視野に立った考えを見失い、
結果として、世界の信用を失うようなことがあってはならない


という観点の下、
いちど立ち止まって、自らの考えを振り返ってみることは、
決して無駄ではない
とも考えます。


 いつもながら最後になりますが、

情勢が情勢であったとはいえ、
科学技術の発達の過程で道を踏み誤った(結果的にそう思えてしまう)結果、

命を奪われた方々、
また、今もなお苦しみに堪えておられる方々に、

大袈裟ではございますが、科学技術の一端を担う者(いわゆる「理系」)として、

心よりお見舞い申し上げます。