『駅前心療内科 時間外診察中』第2話
駅前のクリニックに来るのは、職場でのパワハラとか学校でのいじめ、元恋人からのストーカー、家庭内の不和、モラハラ、DVによる不調を訴える患者がほとんどだ。
しかし、ほとんどの場合、医者としては対症療法しか施せない。
なにしろ、そもそもの根本原因は、その患者にではなく、パワハラやいじめ、DVという行動を取るほうの人間の精神にあるのであり、本来なら、そちら側の人間を治療しなければならない。
診察室に来るべきなのは、患者ではなくて、患者の同僚や友人、配偶者ということになる。
しかし、そこはもう、医者の領分ではないのだ。
その矛盾に精神科医は耐えなくてはならない。
あわただしかった1週間がようやく終わる金曜日の19時過ぎ、受付の女性は仕事をあがり、助手が1人残っているクリニックで、私は診察室の机に向かっていた。
疲れを感じ、パソコンをシャットダウンする。
その時、湿った空気の流れをふと感じた。
きのうの夕方から大雨で、ニュースの天気予報では「秋の嵐」と言っていた。本州の南を低気圧が連続して通過するとかで、2日にわたって大荒れだった。
だから気圧の具合も変なのだろう。と思ったその時、診察室のドアが開いた。
私は一瞬、顔をこわばらせたと思う。
そして、思わず壁にかかっている鏡に、目をやった。
「園田さんじゃないですか? きょうの診察はもう終了ですよ」
「先生、すみません。遅くなって。でもちょっとだけ聞いてください! 私、きのう、大変な目に遭ったのです」
「そう言えば、きょうが予約の日でしたね」
一瞬ためらったが、私は自分を納得させるように言った。
「それで大変なことと言うと、どうされました?」
「はい。きのうは弁護士に会いに行く日だったのです。約束の時間は午後6時でした。大雨なので私は大きめの傘を持って部屋を出ました。外は、台風のような横殴りの雨で、薄暗かったです。車はライトをつけ、目一杯ワイパーを動かし、徐行して走っていました。ズボンをびしょびしょにして、駅に近づくと、高架上のホームからは、一時運転を見合わせている、というアナウンスが聞こえてきました」
園田さんは相当、興奮しているようだった。
「園田さん、まあ、お座りください」
私は受付のバックヤードに続くドアを閉めるふうを装って、残っていた助手に「あれを頼む」と合図を送ると、机に戻ってきた。
そしてパソコンを再起動すると、アクリル板越しに彼を見つめ、続きを促した。
「駅舎に入ると、そこは人々でごった返していました。電車が運行停止で、改札の前に列が出来ているんです。駅員が誘導しようと躍起になっていました。私は茫然として、その様子を見ていたのですが、ふと、2歳くらいの子どもと目が合いました」
私は、念のため、スマホの録音をONにした。
「その男の子は父親らしきスーツ姿の男性に抱っこされ、父親の背中越しに、ちょっと首をかしげて、私を見ました。男の子はすぐに体をねじって顔を俺からそむけました。私はびっくりして立ち尽くしました。その男の子は妻に連れ去られた息子のミナトそっくりだったのです!いや、ミナト自身でした」
私は彼の姿から目を離せなくなって、パソコンではなく、手書きでメモを取った。
「まだ一緒に暮らしていた頃のことを、抱っこしたミナトの細い体と、ぬくもりを感じ、以前、よく、この駅から散歩がてら、電車に乗ったことを思い出しました。大喜びするミナトを抱いて、私もうれしくなって電車に乗ったものです。父親としてこんなに、うれしいことはなかったのです」
「わかりますよ、思い出すと、お辛いですね」
「そして私の体はふらふらと磁力かなにかで、引っ張られるように、その親子のほうへ引き付けられていきました。ミナト、お願いだから、もう一度こっちを見ておくれ。顔を見せておくれ。パパと遊ぼう・・・抱っこされたミナトが再び、こちらに顔を向けてくれました・・・」
「・・・」
「しかし私は、頭を殴られように痛みを感じました。ミナトの顔は青白く気味の悪い色に染まり、口の両端はナイフかなにかで切り刻まれたように耳の近くまで裂けていました。無垢だった瞳は赤黒く充血し、私のほうを恨むように睨んでいたのです」
私は、メモを止めた。
「私は、恐ろしくなって、息がつまりました。薄い酸素を少しでも吸い込もうと、胸をかきむしり、口をゆがめながら、雨の中に飛び出して行きました・・・怖い、息が出来ない。何者かに首を絞められるような苦しさ。呼吸を止められそうな恐怖。私はミナトから逃れようと、雨の中に出ると、もがきながら駅をあとにして、家へ戻ったのです」
まったくの作り話ではなさそうだった。しかし・・・
「それから、どうしました?」
「家に帰ると、まだ息が苦しいし、怖いし、どうしてわからず、先生にもらった睡眠薬のことを思い出し、それをのみました・・・それで、眠ったのでしょう。何か怖い夢を見たらしくて、朝がた目が覚めました。しかし体中が痛くて、とくに首が凝って動けないのです。仕方ないのでカップ麺かなにか食べて、また寝てしまいました」
「怖い夢とは?」
「覚えていません。夢は忘れてしまうたちなのです。それで、さきほど目が覚めたので、とりあえず、先生に聞いてもらおうと、やってきたのです」
「本当に、大変な目にあったものですね」
そして、私は医者らしく威厳を保つと、ごく当たり前のように言った。
「つまり、幻覚を見たというわけですね?」
「どういうことでしょう?」
「たぶん適応障害による幻覚でしょう」
「適応障害?」
「そうです、あなたは奥様とお子さんと別居するという、強いストレスのもとにいて、抑うつ状態にあります。そういう時、まれに幻覚を見る人もいます」
「幻覚?」
「単なる幻覚です。ただ、ひどくなると、うつ病の可能性も出てくるので注意が必要です」
「先生、幻覚とは思えないのです。息子のミナトが、何か困ったことに陥っているとか、父親の私に、何か伝えようとして、現れたのではないでしょうか?」
私は医者としての立場を貫くことにした。
「それが幻覚なのです。息子さんを心配する園田さんの思い込みが、幻覚を発生させたのでしょう。息子さんの様子をさりげなく奥様に確かめてみればよろしいのでは?」
「先生、直接なんて連絡は取れないのです。弁護士を通さないと。向こうの弁護士がいちいち、まともに、とりあってくれるとは思えません。先生、今こうしている間にもミナトの身によくないことが起きているのかもしれません」
「困りましたね。でも確かめてみるほかないでしょう?」
「今までは私も子育てに参加していましたが、現状は妻のワンオペです。もしかしたら・・・もしかしたら、育児や引っ越した先の慣れない環境に疲れて、ミナトを虐待しているのかもしれない・・・」
「それは考え過ぎでしょう。確か、別居して、まだ2週間くらいですよね? 引っ越しの片づけとか、なんだかんだで、忙しい最中ですよ。もちろん保育園にだって通わせているでしょうし」
「先生、そんな、呑気な・・・」
私は、引き出しを開けると、ごそごそと探った。
自分用に残しておいた薬を見つけて、引っ張りだした・・・
「とりあえず精神科の医者に出来ることはこれだけです・・・きょうは、もう遅いので薬局も閉まっています。特別に安定剤を出しておきます。睡眠薬は、前回お出ししたのがまだ残っているでしょう」
薬の説明をすると、園田さんを静かに見送った。
「薬が切れたらお越しください。会計は、次回にしましょう」
患者を送り出すと、受付のバックヤードにつながっているほうのドアが勢いよく開いて、助手の藍沢栞が飛び込んできた。
「先生、今の患者さんは、その・・・」
「藍沢君、落ち着いてくれないか、録画は撮れた?」
「はい、撮れたはずです。再生して確認はしていませんが・・・」
藍沢栞は、助手と言っても、クリニックの一員でも医者でもない。私の出身大学の教授から頼まれて、預かっている心理学博士課程の学生だ。いちおう公認心理師の資格は持っているが、臨床に役に立つレベルとは思えない。ただ、受付や掃除、事務の手伝いなどもやるというので、自由に出入りさせている。
「よろしい、きょうはもう帰りたまえ。言うまでもないが患者さんのことは他言しないように」
藍沢は前髪とマスクの間から覗かせた、黒目がちな目を、抗議するかのように見開いた。
「先生、帰れと言われても、今の患者さんは明らかに・・・」
「藍沢君! 私は医者だし、園田さんは私の患者だ。それ以上は言わせないでくれ」
たまたま、クリニックに残っていたとはいえ、藍沢に見られたのは、まずかったかもしれない。しかし私には、そんなことを考える余裕はなかった。
しぶしぶクリニックを出ていく彼女を見届けると、私は椅子の背もたれに、上半身をあずけ、深く息を吸った。
有り体に言えば、私は打ちのめされていた。
医者として、人間として、二重の意味での衝撃だった。
医者としては自分の能力の欠如と責任を問いただされても仕方なかったし、人間としては、単純で、ありきたりな恐怖を突きつけられていた。
私は、スマホを手に取ると、ある電話番号を探し出し、タップしようとした。
しかし考え直して・・・目を瞑った。
(つづく)
第3話は6月6日(土)投稿予定
