無事、千秋楽を迎えた。
『熱海殺人事件/売春捜査官』から
全部観てくれた人、お疲れ様!
観劇してくれた人、全てにありがとう!
初舞台の人もいたが、
いい舞台になったと思う。
稽古初日に全員で飲んだのが、
良かったんじゃないか。
なかなかない。
そして、みんな稽古途中で開催された
映画祭にも顔を出してくれた。
悩んで、口惜しんで、ため息をついて、
涙を流して……それでも、×××に
×××や×××××で××や
××、××など言わず、
真摯に芝居に向かうみんなの姿は
美しかった。
もちろん××中に
×××なんぞ×××る人なんか×××った。
×××のことは×××げて、
さも××は×××と××く、
×××く、××人間は一人も×××った(笑)。
××は見ている。
何が×××か、×××ないか、
その人の××を×××れば×××だろう。
全ては行動や言動に現れるし、芝居は嘘をつけない。
見よ、全てを終えた彼ら彼女らの嘘、
偽りのない素敵な笑顔を!
こんなに×××が多いと
“STRAYDOG”の人しか判らないだろうなァ(笑)。
話は変わるが、ある邦画を観て思った。
(いや、前々から思っていたのだが)
素人に毛の生えたような役者を使うと、
いくらシナリオや演出が面白くても
俳優自身の存在感や魅力がないので、
いい映画にはならなない、ということだ。
無名でも、
芝居で鍛えられた役者の顔と、
観劇もせず、映画館にも足を運ばず、
バイトに明け暮れる役者の顔は、
違うということだ。
つまり、インプットがないと
アウトプットが出来ない。
だから、俳優志望者は芝居を観よう、演劇しよう!
ただ×××を×××しても俳優にはなれないのだ。
本当の美しさは××を×××ことではない、
××を×××ことなのだ。